第七話 就寝

「しかし、珍しいですね。四条さんがフォークを使うなんて」


 7時35分。

 今、102号室には高木さんと僕しかいない。

 お風呂場はちょうど7時30分に空く。僕があまりにゆっくり食べるので、篠宮さんには先にお風呂に入ってもらっている。迷わないよう、ちゃんと高木さんがお風呂場までエスコートした。階段を使ってないことをしつこく確認したらしいので、たぶん今回は大丈夫だろう。トイレより距離があるのが少し気になるが。


「いつもは、下手でも下手なりに箸で頑張らないと、って思ってるんですけどね。今は篠宮さんがいますから。待たせすぎるのも悪いですし」


 ぐいっとフォークを蒟蒻に押し当てながら返事をする。皿の上でつるつる滑ってなかなか刺さらない。から揚げや人参にはすんなり通るというのに、蒟蒻はなかなか生意気だ。


「発作は平気ですか?」

「はい。察してくれてありがとうございました」


 僕のベッドの下には、非常用の人工呼吸器がある。透明なプラスチックのマスクで口と鼻を覆い、繋がっているチューブから酸素を送り込むものだ。僕だけでも使えるよう、マスクの部分にオンオフのスイッチがある。6年間この病院で暮らしている、僕のための特注品だ。

 基本的に、軽度の発作なら自分でどうにかするようにしている。人間の機能は楽をすればしようとするほど衰えるからだ。

 はるか昔、まだ文字という概念が存在しなかった太古の時代では、あらゆる情報を口頭で伝え、聞く側はそれを全て正確に暗記していたという。機械化が進み、知らない情報も検索すれば見つかる現代では、『どうせ分からなくても調べればいいだろう?』と、脳が記憶という行為をサボっている。だから統計的に見たとき、人間の記憶力は年々衰えている。

 そういった衰えを防ぐため、僕は車椅子には乗らないし、箸を使うよう心掛けているし、発作も(可能な範囲では)自力で制御する。伸びしろがなくても、せめて現状維持はしなければ。


「無理は禁物ですよ。激しい運動だけではなく、例えば涙を流すとか、大声で笑うことも、過呼吸やそれに伴う不整脈に繋がることがあります。呼吸の乱れがそのまま発作になりますからね」

「分かってますよ。何度も聞きましたし、絶対に忘れません」


 命に関わることだ。絶対に忘れることはない。

 もしかしたら、将来活用する場面が来るかもしれない。

 ある意味そのおかげで、僕は今もこうやって理性を保っていられる。いつでも逃げられると分かっているからこそ、現実に目を向けられる。皮肉なことだけど。


「にしても、篠宮さん、結構大胆なんですねー」

「そっちの話の時は、普段以上に元気なんですよね。高校生って、皆そういうものなんですか?」

「どうでしょうねー。篠宮さんの場合、また別に理由がありそうな気もしますけど」

「別の理由って?」

「それは私からは言えないですね。本人に直接聞いてください」

「本人に聞きづらいから高木さんに聞いてる部分もあるんですけど、駄目ですか?」

「うーん……私のも、憶測でしかありませんからねー」


 確かに、本人のいない所で根拠のない話をするのはあまり良い趣味とは言えない。気になるところだが、高木さんが全面的に正しい。


「ほら、手が止まってますよー」


 そうだ、早く食べないと。篠宮さんも、ギブスがあるからそんなに長くお風呂に入れないんだった。きっとすぐに戻ってくるだろう。

 僕はフォークを置き、スプーンで蒟蒻との格闘を始めた。




 湯上りには伯父坊主が惚れる、ということわざがある。

 お風呂上がりの女性の姿は、年の離れた伯父や禁欲を敷いている坊主でも、思わず惚れてしまうほど艶めかしいという意味だ。


「ほえーい。いいお湯加減だったー」


 篠宮さんは向かいのベッドに座って足をだらんと投げ出している。制服から病院服に着替えており、体のラインがはっきり浮き出ている。絶壁は相変わらずだが、全身の線が細めで、スレンダーという言葉がぴったり合う体形だ。健康的、とも形容できる。

 篠宮さんは、しっとりと汗をかき、火照った身体を冷やそうと、胸元をぱたぱたと扇いでいる。ちらちら覗く胸元の肌色、色づき緩みきった頬。無防備で、無警戒。

 その構図は、まだ12歳の僕にはかなり刺激が強い。篠宮さんの絶壁と右腕のギブスだけでは、相殺するにはまるで足りない。

 ごくり、と生唾を飲み込む。僕って男の子だったんだな。いや、当たり前なんだけど、今日まで特別に意識したことがなかったから。


「四条君、顔真っ赤だよ? ちょっとのぼせちゃった?」

「あ、だ、大丈夫……」


 初体験は何歳か、という話を本で目にする度に、早すぎると思っていた。安定した収入を得て、社会的に責任が取れるようになってから臨むべきだと考えていた。

 どうやら、間違っていたのは僕の方だったらしい。こんなの、手を出したくなって当然、いやむしろ必然だ。

 僕にそんな勇気は、それ以上に体力が無いが。


「ふわーあ、なんだか眠くなってきちゃったよ」


 時計は8時22分を示している。僕はいつも9時には寝ている。一説によると、人間の睡眠は深夜10時から早朝2時が一番効率がいいらしい。あくまで仮説だ。


「少し早いけど、寝る?」

「寝ちゃおっかー。いつもはテレビ見るんだけど、無いものは仕方ないよね」

「……じゃあ、電気消すよ」

「はーい」


 僕は篠宮さんの話は拾わない。立ち上がり、ドアの傍に移動。カチリ、と電気のスイッチを押すと、蛍光灯がふっと消える。音に合わせて闇に包まれた病室に、ものの数秒で目が慣れる。閉じ切ったカーテンの奥から光が少し透けている。道路を挟み、向かいにあるビルの明かりだ。このカーテンが開かれることは、もう二度とないだろうが。


 102号室にテレビが無いのは、僕が見たくないと言ったからだ。

 朝起きて、朝食を食べ、本を読み、昼食を食べ、本を読み、夕食を食べながら話をし、お風呂に入り、本を読み、寝る。これが僕の一日。僕にとっての世界は、病院の中で完結している。

 でも、テレビは違う。病院の外の景色を、嫌というほど僕に見せつけてくる。

 だから、テレビは見ない。新聞も、週刊誌も読まない。外の世界の日常なんて、僕には関係ない。


 篠宮さんにとっては、違うんだろうけど。


 そう思うと、なんだか寂しい。腕が治れば、篠宮さんは退院してしまう。篠宮さんと過ごす日々には、いつか、必ず終わりが来る。

 分かってるさ。最初から。

 僕の人生の中で、特別な日を少しだけ作ろう。そう思って、篠宮さんとの交流を始めたんだ。今更確認するまでもない。

 いくら寂しくても、現実は変わらない。


「はふう……ベッドの上って落ち着くね」


 今はただ、今日と同じ一日が、少しでも長く続くように祈るだけだ。


「……四条君、寝ちゃった?」

「ん、まだ起きてるよ」

「そっかー。返事ないからびっくりしちゃった」

「ごめん。ちょっと考え事してたよ」

「そうなんだ。……あたしも、だよ」


 デクレシェンド。だんだん小さな声になり、最後には聞こえなくなる。寂しい。そう言っているように聞こえたのは、僕が寂しいからだろうか。


「今日は、いろいろごめんね」


 いきなり謝られても、思い当たることがない。

 僕にはないのだが、篠宮さんはある、ということか。また少し思考回路を見せてもらおう。


「いろいろ……ううん。全部だよ。あたし、四条君に、駄目なことしかしてない」

「そんなことないよ。篠宮さんと話せてとっても楽しかった」

「あたしじゃなかったら、もっと楽しめたと思うよ?」


 冗談、なわけがない。篠宮さんは嘘を吐くのが下手だ。心の底から、自分じゃなければよかったと、そう思っているんだ。篠宮さんは。


「あたしのせいで、心臓バクバクさせたり、辛いこと思い出させたり、お味噌汁で火傷したり……いいことなんて、何もできなかった。四条君が優しいから、全部自分で何とかしたから、楽しいって思えたんだよ」

「どれも、ほんとに気にしてないって――」

「あたしは気にするんだよ!」


 篠宮さんは責任感が強い。そして、優しい。それは知ってる。今日起こったいろんなこと、後悔してるんだな。僕としては、計算外の事の連続で、本気で楽しかったんだけど。たぶん、言っても伝わらないんだろう。


「あたし、四条君のプレート見た時、悔しかったの。あたしがバカなのは知ってるけど、5歳年下の子にも、こんな負けちゃってるんだ、って。……だから、エッチな話してみたの。四条君に勝てそうなこと、それくらいしかなかったから」

「勝ち負けなんてないよ。INTは多少低くたって、他が――」

「負けてるんだよ! 何もかも!!」


 もしかして。

 篠宮さんは――自分が、嫌いなのか?

 散々馬鹿にしてきたINT252は、篠宮さんのコンプレックスなのか。そう言えば、勉強全然できないのを気にしてるとか、お昼に言ってたな。


「四条君は、私の持ってないものを持ってる。いっぱいいっぱい持ってる。悔しいよ。悔しくて、悔しくて……あたしが、嫌になるんだよ」


 篠宮さんは泣いている。暗くて表情までは見えないけれど、嗚咽の音が聞こえてくる。


「どうにかして勝ちたいって、なのにあたしバカだから、他に何も思いつかなくて、四条君に変なことばっかり言って、それで、それで」


 ああ、そうだ。

 篠宮さんは、本当に、バカだ。



「ふざけるな!!」



 篠宮さんが凍りつく。

 怯えている。暗くても分かる。人間は未知を恐れる生き物だ。僕が突然怒鳴りつけるという、不意に予想の外から起こった出来事なら、なおさら。


 なるほど。これが、怒りという感情か。

 相手の意思を、暴力的にぶち壊したくなる気持ち。

 理屈なんて関係なく、真正面から力づくで捻じ伏せたくなる気持ち。


「僕が、何を持ってるって?」


 篠宮さんは泣いている――それも、僕には出来ないことだ。涙で呼吸が乱れたら、そのまま発作に繋がるから。

 もっと優しい言葉をかけるべきなんだろう。だって、篠宮さんは怯えている。元々弱っていた心に、僕が追い打ちをかけている。

 でも、無理だ。僕は怒っている。心の底から、篠宮さんに怒りを感じている。


「家庭も、親も、日常も、人生も!! 全部、ぜんぶ失った僕が、一体何を持ってるって言うんだよぉっ!!!」


 非合理的。非生産的だ。

 相手を傷つけるためだけに放つ言葉など。

 だが、どうやら、まだ僕の怒りは収まらない。


「この6年で、僕が何回諦めたと思ってるんだ!! 生きていくことだけで精一杯で、本を読む以外の全てを諦めた僕が!! 今日会ったばかりの篠宮さんなんかに、僕の苦悩が理解できてたまるか!!!」


 無意味。いや。ゼロよりも、むしろ大きなマイナス。


 それでも、止まらない。止められないんだ、理性だけでは、もう。

 すべて吐き出すか、あるいは強制的に止められるまで。




 どくん。

 どくん。

 どっくん!


「あっ、ぐうっ!!ごほっ、はぁっ、く、あ、かはっ……」


 どく、どく、どくん!!

 発作、それも大きなやつ。

 ベッドの下に右手を伸ばす。呼吸器のマスクを引っぱり出す。鼻と口を被う。スイッチを入れる。


「はっ、はあっ、くあっ、はあ、はあ、はあっ」


 どくん。どくん。

 マスクは呼吸のサポートをすると同時に、もう大丈夫だという安心感を僕にくれる。人間の脳が「大丈夫だ」と思うと、体も本当に大丈夫になる。よく効く薬だと言われて飲めば、小麦粉だって難病を治せる。元々効果があるなら、なおさら。


「はーっ、はーっ、ふー……っ」


 …………。

 まるで夢でも見ていたかのように、僕の心臓も呼吸の乱れも影を潜めた。

 僕はマスクを外す。


 膨大な怒りのエネルギーが失われて、残ったのは、虚無感。


「……ごめん」


 鼓動は収まったのに、胸が痛い。

 怒りなんて、人間には不要な感情だ。どうせ後で後悔するんなら、最初からなにもしなければよかったんだ。怒りからはマイナスしか生まれない。人間という生き物を創った神様の最大の汚点だ。



 嫌われただろうか。

 分からない。篠宮さんは優しいから。僕なんかより、ずっと。突き放すような言葉をあれだけ並べておいて、篠宮さんから離れることを恐れている、愚かで傲慢な僕なんかよりも。


 嫌われたくない。

 篠宮さんと、ずっとずっと一緒に居たい。どうでもいいことを話して、下らないことで笑って、ただただ有り余る時間を喰い潰すような日常が欲しい。もう少し身体が強ければ、そんな日々を選べたんだろうか。


 いっそ嫌われた方がいいのかもしれない。

 二週間もこの幸せを享受し続けてしまったら、僕は元の生活に戻れなくなる。今ならまだ、ひたすら本を読むだけの、今日と比べればはるかに退屈な暮らしにも耐えられる。


 これが、恋か。

 これは、恋だ。

 ずっと傍に居たいのに、傍に置いておけない葛藤。

 篠宮さんを心から欲すると同時に、篠宮さんを拒み、突き放す自己矛盾。



 少女漫画や恋愛小説で、度々使われる台詞を思い出す。


 恋なんて、知らなければよかった。


「ごめん、ちょっと、お手洗い行ってくるね」


 篠宮さんはバカだな。

 そんな上ずった声で、まだ隠せてるつもりなんだから。

 篠宮さんを、守りたい。

 何を今さら。自分で傷つけておいて。


「篠宮さんは、もっと自分に自信を持っていい。篠宮さんは、僕に無いものを沢山持ってる」

「そんなこと、ない……」

「僕は走れない。箸も上手く使えない。ずっと病院から出られない。でも、篠宮さんは、全部できる」

「そんなの、当たり前だよ」

「その当たり前のことが、僕にはできない。身近にあって気づかないだけで、篠宮さんは、それこそ僕なんかより、いろんなことができる。いろんなものを持ってる」


 本当に、羨ましい。普通の日常を謳歌できる篠宮さんが。篠宮さんと共に過ごせる、回りの人達が。

 僕には、挑戦権すら与えられないのに。


「篠宮さん」

「…………」

「篠宮さんって、彼氏いるの?」

「……へ? な、なんなの? どうして、今そんなこと?」

「いないの?」

「…………うん」

「告白は?」

「ないよ。するのも、されるのも」

「そっか」


 悔しいな。

 僕が一番最初に篠宮さんの魅力に気づけたのに、それを伝えることが許されないなんて。

 神様ってのは、本当に不公平だ。



「篠宮さんなら、いい人見つけられるよ」


 僕ではない、誰かを。



 思いを伝えたところで、届かない。

 届いたところで、続かない。

 恋って、本で読むより、ずっと、ずっと。

 切ない。



「…………ふふっ」


 おかしいな。

 どうして、篠宮さんは笑ってるんだ?


「嬉しい」

「どうして?」

「四条君、自分の気持ち無視して、あたしのことばっかり考えてたと思ってたから。無理させてないかなって、ずっと思ってた。だから、嬉しい。本音で喋ってくれて。四条君の本音が聞けて」


 篠宮さんの思考回路が本気で分からない。

 あんなに罵倒されて、嬉しいだなんて。


「……篠宮さんって、マゾなの?」

「そういうのじゃないよ。でも、四条君の前だけは、そうかもね」

「僕は別にサドじゃないよ」

「分かってるよ。でもね、また時々でいいから、本音で喋ってくれたら嬉しいな」

「じゃあ、努力する」

「SとかMとか、そういう言葉も知ってるんだね」

「知識としては、ね」

「…………」

「…………」

「寝よっか?」

「だね。お休み」

「うん。お休みなさい」


 どうやら。

 嫌われては、いないらしい。

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