第六話 唐揚げ、筑前煮、味噌汁、白米

「…………」

「はい、どうぞー」


 無言で身構える僕の前に、高木さんが箸とフォークとスプーンを置く。

 ベッドテーブルの上に置かれる病院食は、他の病室と同じもの。一応病院内に食堂もあるが、僕はベッドの上からあまり動かないので、食事はいつも病室だ。それに、僕の食事風景はあまり他人に見せられるものでもない。

 まあ、今はすぐそこに篠宮さんがいるんだけども。


「ねえ、隣で食べていい?」

「うん。もちろん」


 篠宮さんは僕のベッドの左に、片手で夕食のトレイを持ってくる。トレイを机――引き出しに僕のプレートが入っている、元々テレビが置いてあった机――に置く。

 丸椅子を引っ張ってきて、篠宮さんはよいしょ、と座った。


「……この机、ちょっと高いね。座ると食べにくいや。ねえ、高さって変えられない?」

「流石に机の高さは変わらないかな」

「ん、じゃあ立って食べようっと」


 ごとん、と足で椅子を押しやり、篠宮さんは立ち上がった。


「すっかり打ち解けたみたいですねー。良かったです。お邪魔でしたら、外しましょうか?」

「僕はどちらでも。篠宮さんは?」

「あたしもどっちでもいいよー」


 篠宮さんならそう答えるだろうな、とは思っていた。

 このように、全員が中立な意見の場合、誰かがどっちかに決めないと、話が平行線のまま進まなくなる。なので、ここは進行役を買って出ることにする。


「せっかくですし、居てもらいましょうか。昼からずっと二人だったので」

「はい、分かりました。ところで四条さん」

「なんですか?」

「トランク、邪魔にならないところに移動しましょうか?」

「あ、お願いします」


 結局一度も開かれず、中に140冊の本を蓄えたままの本棚は、使われていないベッドの隣へと引きずられていく。トランクケースというのは、足元に小さなタイヤがついているらしい。今までどうやって固定されていたのかは不明だが。

 高木さんにとってはどうってことない作業でも、僕にとっては重労働だから、非常に助かる。


「さくらちゃん、早く早くー! 運動したからお腹ぺこぺこだよー!!」


 篠宮さんが高木さんを急かす。高木さんを無視して一人で食べ始めるという発想は無いようだ。優しいからか、単に思いつかないだけか。たぶん、両方。


「ちょっと待ってくださいね。これ、結構重いですね」


 ごろごろとタイヤが回る音。床に傷がついたりしないだろうか、とどうでもいいことを考えた。

 音が止み、高木さんが自分用の丸椅子を持って戻ってくる。そして僕のベッドの脇に座る。


「お待たせしました。では、ごゆっくりお食べくださいね」

「はーい! いただきまーす!!」

「いただきます」


 ごゆっくり、という言葉はどうやら篠宮さんには難しかったらしい。篠宮さんは箸をひっつかみ、目にも止まらぬ速さで唐揚げを頬張った。


「んー! おいひい!」


 篠宮さんはそのまま白米を口に運ぶ。全部を飲み込まないまま、次は筑前煮の蒟蒻を。食べながら喋ったり、複数の料理をまとめて頬張るのは、多少行儀は悪いかもしれない。が、僕だって人の事は言えない。

 ……あれ?


「…………」


 篠宮さんは箸を器用に使い、人参を、蒟蒻を、白米を、唐揚げを……


「……篠宮さん?」

「ん、なに?」

「篠宮さんって、左利きだったの?」

「ううん?普通に右利きだよ?」


 そんなはずはない。

 篠宮さんは箸を器用に使い、食事をしている。

 もちろん、ギブスをしていない左手で。


「右手怪我しちゃった時は、あたしも最初は不便だなって思ったけどね。慣れれば意外と簡単だったよ?」


 平然と答える篠宮さんに、愕然とする。

 嘘だろ。

 DEX584って、化け物か。

 DEX95の僕は、利き手で箸を扱うことすらおぼつかないというのに。わざわざ箸と別にフォークとスプーンを用意されるほど不器用だというのに。

 別に勝負をしてるわけじゃないんだけど、この敗北感はなんだろう……。


「あれ、キミは食べないの?あんまり食欲ない?早く食べないと、あたし、キミの分まで食べちゃうかもよ?」

「あ、ああ……うん」


 ……僕の箸使い、見られたくないな。

 とりあえず、箸を持たなくていい味噌汁の椀を手に取り、啜る。


「あっつうっ!?」


 篠宮さんの事に気を取られていて、完全に意識の外から不意打ちを喰らった。

 僕は思わず味噌汁の椀を手放す。

 そのまま重力に従い、椀は僕の腿へ。傾いた椀から、茶色の熱湯がばしゃりと白の病院服の上に広がる。


「あっつ、あちちっ! ご、ごめんなさい!!」

「わわっ! だ、大丈夫!?」

「四条さん、火傷とかしてませんか!? 服は脱がないでください! 今すぐお風呂場に行きましょう!」


 高木さんは僕に指示を出しながら、椀とトレイを持ち、ベッドテーブルを下げる。まるで予測していたかのような手際の良さ。


「あ、は、はい!」


 服の上からの液体による火傷の場合、慌てて服を脱がすと、皮膚が一緒に剥がれてしまう場合がある。高木さんの指示で思い出した。それと、純粋な水より食塩の混ざっている溶液の方が沸点が高いこともついでに。

 幸い、102号室からお風呂場にはかなり近い。あと、この時間はまだ使用されていないから、他の人もいない。

 僕は走れないので、トレイをワゴンに置いて先行する高木さんに遅れて歩いて向かう。下半身全体にヒリヒリとした痛みを感じながら。


「……余計なこと言っちゃったかな」


 篠宮舞は最後の唐揚げを咀嚼しながら、自分の行動を懺悔した。




「ふう……」


 僕が冷水のシャワーを浴びている間に、高木さんは着替えを用意してくれた。幸いにも軽度の火傷だったので、処置が終われば特別気にすることはない。

 脱衣所に、着替えと共に、『病室に戻っています』というメモが置いてあった。担当とはいえ、一応男女だ。着替えの場にまで居合わせるのは、お互いに居心地が悪い。


「……格好悪いとこ見せちゃったな。いや、別に格好つけたいわけじゃないけど」


 でも、出来ればいい所を見せたい。篠宮さんに、もっと、僕のいいところを……


「…………」


 もしかすると、これは、恋なのか?


 以前、どこかで読んだことがある。人間は、自分の持たないものを持っている人間に惹かれるものだ、と。出来る限り自分と遠い遺伝子を持つ人間を選び、体のつくりや免疫系などが自分と異なる子孫を残そうとする。

 だとすれば、僕が篠宮さんに恋心を抱くのは、至って自然なことだと言える。僕らは対極と言ってもいいくらい、いろいろとかけ離れている。


「……分からないな」


 恋かもしれない、とは思う。けど、何せ前例がない。好意を抱いているのは確かだが、それを恋と呼んでいいのかまでは分からない。恋愛小説なんかだと、好きな相手を目の前にしたら、声が上ずったり、挙動不審になったり、ドキドキしたりするものだ。恐らくは、発作とはまた別の。

 そういえば、こんな話もある。人間は、全人類の中からベストなパートナーを選ぶわけではない。身近な人の中でのベストを選ぶものだ、と。

 僕と接点のある女性と言うと、高木さんか篠宮さんしかいない。

 だとしたら、これを恋だと呼ぶのは、篠宮さんにも高木さんにも失礼じゃないか?たった二人を見比べて、優劣をつけるなんて。


「……これ以上考えても、結論なんて出ない、か」


 僕はこの件を一旦保留とし、脱衣所を出た。




「おかえりー」


 ガラガラとドアを開けると、篠宮さんは先ほど自分で置いた椅子に座っていた。どうやらもう食べ終わったらしい。そこまで長くお風呂場にいたつもりはないけど、かなり食べるのが早い。利き手が使えないはずなのに、早い。


「四条君、大丈夫だった?」

「うん。そんなに大したことなかったよ」

「それはなによりです。さあ、お夕飯の続きといきましょうか」


 ベッドのシーツも僕の服同様に汚れたと思うが、綺麗になっている。高木さんが替えてくれたのだろう。今まで漠然としか知らなかったけど、高木さん、仕事はかなり出来るほうみたいだ。

 僕は新品同様に整えられたベッドに座る。高木さんがベッドテーブルとトレイをセットする。味噌汁は全部僕とベッドにかかったので、他の皿は無事だ。唐揚げと筑前煮と白米。充分だ。


「はい、どうぞー」


 と、そこに篠宮さんが僕の目の前に味噌汁の椀を差し出した。まだ少し湯気が立っている。中身は半分ほど減っているようだ。篠宮さんが飲んだんだろう。


「あたしの半分あげるよ。もう冷めたから熱くないよ!」

「ありがとう。でも、いいの? 篠宮さん、お腹空いてるんでしょ」

「気にしない気にしない。お味噌汁じゃお腹膨れないし」

「そっか。ありがとう」


 僕は篠宮さんの味噌汁を受け取り、ずずず、と飲む。音を立てないと飲めないのも、全部DEX95のせい。

 ふわりと味噌の香りが鼻を抜ける。火傷するほどではないが、まだほんのり暖かい。冷水のシャワーで冷え切った全身に、じんわりと染み渡る。落ち着く味だ。

 さて、あまり待たせるわけにもいかない。ひとまず味噌汁の椀は置き、他のおかずにも手を――


「ふふふ……飲んだね?」


 篠宮さんは、フォークの柄を握る僕に、含みのある言葉をかける。


「えっ? 飲んだけど……それがどうしたの?」


 僕が視線を皿から篠宮さんに移すと、篠宮さんのにんまりとした笑顔がすぐ目の前にあった。

 僕は、『あの』匂いに再び思考をかき乱される。

 女の子の――篠宮さんの、匂い。

 力が抜け、抗う気力が奪われる匂い。

 ずっと嗅いでいたら脳が溶けてしまいそうな、甘い匂い。


 篠宮さんは、僕の耳元で、艶やかな声でそっと囁く。


「間接キス、だね?」


 ぞくりとした。

 耳に息が吹きかかるくすぐったさと、ダイレクトに脳に響く声色、そして、その内容。

 味噌汁の温もりで暖められた体。それが、まるで篠宮さんに内側から暖められているような、そんな錯覚に陥る。全身が、篠宮さんに支配されているような。


「な、な、な、ななななっ……!!」


 体が熱い。汗が噴き出る。鼓動が早くなる。

 僕は頭をぶんぶん振り、篠宮さんの誘惑を必死に振り切る。

 抑えろ、抑えろ、抑えろ。

 恥ずかしいだけなら、いい。だが、発作はまずい。いや、恥ずかしいのも充分問題だが。

 僕は浅い呼吸を繰り返し、少しだけ、脈が治まるのを待つ。


 カラカラ、と、小さい音。

 高木さんが呼吸器を引っ張り出す音だ。

 大丈夫、と、右手で、篠宮さんには見えないところで制止する。僕から高木さんは見えていないが、たぶん、ずっと同じ笑顔のままだ。

 ある程度治まったところで、僕は篠宮さんに抗議する。


「はあ、はあ、はーっ。の、飲んでから言うのってずるくない!?」

「えへへー、気づかなかった四条君が悪いんだよ? ほら、残りも飲みなよー」

「いいよ! 返すから!!」

「四条君、お味噌汁嫌い?」

「そういう問題じゃないっ!」


 篠宮さんはひょいっと左手で味噌汁の椀を掴み、そのまま口元へ運ぶ。

 そして、飲む前に、一言僕に話しかける。


「これ飲んだら、あたしもキミと間接キスだね?」

「ほんとだっ!? 待って、ちょっと待って! やっぱ自分で飲むから!」


 篠宮さんは僕の懇願を横目に、椀の淵に口をつけ、ゆっくり味わうように飲み下す。飲み終えると、ぺろりと舌で唇を拭う。わざとらしく、僕に見せつけるように。


「ふふ、美味しい」

「う、うう……」


 このドキドキは、単なる羞恥心か、恋心なのか、あるいはもっと別の何かなのか。まだ、僕には分からない。


「あらあらまあまあ。青春ですねー」


 僕と篠宮さんのやりとりそのものに対してか、僕と高木さんの水面下の連携も含めてなのかは分からないが、高木さんはそう形容した。相変わらず、のんびりとした声だった。

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