第五話 四条賢者
僕は幼い頃から、頭が良かった。
人間の脳は、生まれた瞬間には記憶の機能が部分的にしか完成していない。覚えている中で一番古い記憶では、僕は3歳の時に、既に分数の四則演算をマスターしていた。大体小学4年生レベルに当たる。
勉強とは、自然にできるようになるものじゃない。自習にしても、誰かが書いた教科書や参考書を元にしている。根本を辿れば、勉強とは、他人に教えられて学ぶものだ。
僕の場合、それは父親だった。
僕の名前も父親がつけたもの。他人より賢く育つように、という意味が込められていると、父親はよく言っていた。僕は父親の期待に応えようと、暇な時間はずっと勉強した。苦痛なんて一切なかった。だって、勉強は楽しかったから。
だから、最初はそれでよかった。
300÷4=75。VIT30の僕は、同年代の子供と比べて多少浮いてはいたものの、珍しがられるほどではなかった。
大きく変化が訪れたのは、4歳になった時だ。
レベルアップで割り振られる100ポイントのうち、INTが80増え、そして、VITが全く増えなかった。
それまでも、多少INTに偏った割り振りではあった。3歳の時点で、既に三桁にはなっていたと思う。
それにしたって、+80は、明らかに異常な数値の伸びだ。
それが不可思議なことだと、4歳の僕は知らなかった。
僕は純粋に喜んだ。
父親も母親も、喜んでくれた。そう思っていた。
ある夜。
ガシャン、と何かが割れる音に、僕は不意に目が覚めた。
両親どちらのことも好きだったから、僕は母親の言いつけ通り9時に寝ていた。起きたのは、たぶん11時くらい。
そこで、僕は聞いてしまった。
何かが砕ける音。
怒鳴りつけるような、母親の金切り声。
応戦する父親の声は、母親に完全に押されていて。
僕の知らない両親の声に、僕は動けなかった。
声はしばらく続いた。時折り、物が壊れる音が響いた。
母親の言葉はもはや言語として機能していなかった。
だけど、最後の文章だけは、強烈に記憶に刻まれている。
あなたが賢者なんて名前をつけるからよ!
あれはあなたの子、私の子供じゃない!私はあなたもあの子も大っ嫌い!!
夢であってほしいと願った。夢に決まってるとさえ思えた。
僕は布団に入って目を閉じた。
眠れない夜が明けた時。
そこに母親はいなかった。
「壮絶、だね。下手なドラマよりドラマしてる」
「うん。まあね」
「ありがとう。今更遅いかもしれないけど、途中で嫌になったら、止めていいからね」
「やっぱり、聞きたくない?」
「違うよ! そういう意味じゃないよ! ごめん。あたし、もうちょっと言葉に気を付けたほうがいいね」
「いや、大丈夫。篠宮さんはそんな遠回しな表現使わないって分かってる。こっちこそ、変なこと聞いてごめん」
「ううん。いいの。じゃあ、続けてくれる?」
しばらくは、どうしていいか分からなかった。
それまでずっと、両親の喜ぶ顔が見たくて勉強を続けていた。でも、結果として、僕の母親は僕の勉強のせいで家を出て行った。何のために勉強してきたのか、何のために生きているのか、分からなくなった。
突然降りかかった精神的なストレスは、VIT30の僕には重すぎた。
心の病はすぐに体に現れた。体がだるくて、布団から動くのも億劫になった。何をする気力も起きなかった。
一週間くらい、僕は布団の上で過ごした。食事は父親が買ってきたものを食べた。
ずっと動かない僕を見て、父親は言った。
お前は間違ってない。
今まで通りでいい。
嬉しかった。
僕にはもう、父親しかいなかったから。
5歳の誕生日。
INTが100上がった。
父親は、少なくとも僕の目には、喜んでいるように見えた。
それはきっと、僕の見間違いだったんだ。
6歳の誕生日にも、INTが100上がった。
父親は僕をこの病院に連れて来た。
僕のプレートを見せると、すぐに検査のための入院が決まった。
僕が虚弱体質だったこともあり、検査には時間がかかった。
異常な数値を示すプレートの謎をどうにか解明しようと、いろんな検査をした。どの検査でも、病弱なこと以外はよく分からない、という結果しか出なかった。
父親の希望で、本格的な入院が決まった。
普通に学校に行っても、INTの差がありすぎて会話が成り立たないし、虚弱体質も相まって、クラスに馴染めないだろう。父親はそう言っていた。僕は父親の言うことを何一つ疑わなかった。
毎日来てやるから、安心しろ。
僕は父親を信じた。
翌日。
僕は父親に裏切られた。
「それ以来、父親とは一度も会ってない。もちろん母親とも」
「そう……なんだ……」
篠宮さんは言葉を探している。少ないINTを振り絞って、僕を励ますための言葉を必死に探している。
別に、もういいんだ。終わったことだから。どんな言葉を以ってしても、過去を変えることなんてできない。フィクションじゃないんだ。タイムマシンは未来にしか行けない。
だから、変えられる未来の為に、僕は行動する。
「篠宮さん」
「…………あ、うん。なに?」
「手を握るくらいなら、大丈夫だと思う。抱きしめられると、流石にドキッとするかもしれないけど」
篠宮さんはベッドの右側に立っている。
だから、僕は右手を篠宮さんに伸ばした。
「うん。分かった」
篠宮さんは左手を、僕の右手と、手のひら同士を重ね合わせた。僕の為に。僕の忌々しい過去の傷跡を、少しでも癒すために。
篠宮さんにそんな余裕がないことくらい、僕じゃなくたって分かるのに。
僕は右手に、きゅっと力を込めた。びくり、と篠宮さんの震えが手のひらから伝わる。
「そんな顔してたら、僕は騙せないよ」
励ます側と励まされる側が逆転していることに、篠宮さんも気づいた。
それでも。
「な、なんのことかなー? あたし、バカだからわかんないや」
篠宮さんは、まだ涙を堪えている。
あまりにも滑稽だ。同時に、尊い。
ステータスの差は、必ずしもその人間の価値を決めない。神原さんの言葉だ。言われたときにはピンと来なかったが、篠宮さんを見てると、よく分かる。
少し一人にさせた方がいいかもしれない。僕の前だと、篠宮さんは自分を抑えこんでしまう。
「そうだね。話の切りもいいから、ちょっと雉を撃ちに行ってくるよ」
「え? えっと……キジって? 桃太郎のやつ?」
「あ、ごめん。トイレに行く、って意味だよ」
「そうなんだ。四条君は物知りだね。じゃあ、あたしもキジに行ってこようかな」
「『雉を撃ちに』ね。あと、女の子の場合は、『花を摘みに』行くんだよ」
「へー。なんかオシャレだね」
「でしょ? ちゃんと覚えた?」
「う、うん。たぶん。じゃあ、お花を摘みに行ってくるよ」
「そうそう。じゃ、行こうか」
ちらりと時計を見る。16時37分。結構長いこと話し込んでたみたいだ。
僕達は二人で病室を出た。トイレの外までは一緒に行けばいい。
「そういえば、四条君って歩いて大丈夫なの?」
「少しなら大丈夫。長くても20分まで、とは言われてるけど。だから、トイレとお風呂は普通に入れるよ」
「えっ? お風呂も20分で終わるの?」
「シャワーだけだと大体5分くらいかな。湯船に浸かっても、10分は超えないよ」
「ほえー……男の子って便利だねぇ」
「篠宮さんは?」
「一時間は普通にかかるかなぁ。腕を怪我してるといろいろ面倒だから、最近は簡単に済ませちゃってるけど」
ギブスは石灰を固めて作るので、湿気は天敵だ。
だから、お風呂の時にはビニールを被せたりして、ギブスが水を吸わないように注意しなければいけない。篠宮さんも、流石にそこは分かっているらしい。
そんな感じで与太話をしていると、トイレまではすぐだった。
「あ、女の子は男の子より長くなるから、先に帰ってていいよー」
「了解。じゃ、また後で」
「うん。またね」
篠宮さんは、トイレに入って見えなくなるまで、ずっと笑顔を作り続けていた。
「うぐっ……ひぐうっ……」
女子トイレの一番奥の個室で、篠宮舞は泣いている。
「辛いこと、思い出させて、無理やり喋らせて……元気づけるどころか、逆にぎゅってされて……」
僅かに残る温もりを確かめるように、左手に拳を創る。
「せっかく、話してくれたのにっ……あたし、なんにもできなかった……」
伝う涙が拳に落ちる。
「5歳も年下なのに……四条君の方が、ずっと大人だった……」
子供のように泣くことしかできない自分を責める。
「ごめんね……四条君、ごめんね……」
聞こえていないと知りながら、篠宮舞は謝罪の言葉を繰り返す。
「……盗み聞きは、よくないな」
四条賢者は、用を済ませると早々に立ち去った。
去り際に、謝罪の言葉を一つだけ受け取った。
これでいいんだ。
女性の脳は悲しいことを貯め込むよりも、声に出して発散した方が、記憶にも気持ちにも残りにくい。対し、男性の脳は、声に出すと記憶に残りやすくなるので、誰にも言わずに自分の中で消化した方がいい。
男女で口喧嘩になった時に、一般に女性の方が男性より強いのは、脳の作りが根本的に違うからだ。女性の方が、嫌な記憶を未消化のまま蓄積しやすい性質がある。
男女どちらがいいとは一概には言えないが、違いがあるから差が生まれる。その違いによる差を鑑みずに男女平等などと謳うのは、人間という種族への反乱だ。
だから、女性の方が男性よりトイレが長いのも、純粋な性別の差であって、その差は埋めようがない。
ちらりと時計を見る。
6時23分。
「……にしても、長いな」
病室を出たのは4時37分。記憶が確かなら、およそ2時間経過している。ここまで長いと、流石にちょっと心配になってくる。
しかし、迎えに行くのも憚られる。『花を摘む』という言葉は、トイレに行くことを隠す為に生まれた、いわゆる隠語というやつだ。わざわざ隠しているのに出迎えに行くのは、デリカシーに欠ける。しかし、ずっとこの場で待っているのも違うような。
原因を考えてみる。ストレスでお腹を壊した? それでも2時間もかかるだろうか。そんな単純な理由じゃない気がする。
例えば……泣き疲れて寝ている、とか。うん、こっちの方が現実的だ。
しかし、トイレの中にいるなら、結局迎えに行っても意味がないのは一緒か。外から呼ぶわけにもいかないし、女子トイレに入るわけにもいかない。
つまるところ、僕には待つしかできない。
「しじょうくーん!!」
ガラガラとドアを開ける音と共に、僕の名を呼ぶ声がした。
「篠宮さん、おかえ――」
「よかったよー! もう会えないかと思ったよー!!」
篠宮さんはダッシュで僕のベッドの右側に走ってきて、
「はうあっ!?」
紅色の本棚に盛大に膝ををぶつけた。
「いったーい! なんでこんなところに旅行カバンがっ!?」
「いや、最初からあったよ?」
「そんなことより、聞いてよ! あたし、ずーっと探してたんだよ!」
「探してたって、何を?」
「102号室だよ!」
102号室、つまり僕達の病室だ。それを探してた、ということは……
「道に迷ってたってこと?」
「うん!」
いや、胸を張られても困るんだけど。
「失礼します」
ドアの所から、聞き馴染みのあるふんわりとした声がした。
「四条さん。篠宮さんも、お夕飯の時間ですよー」
高木さんだ。
なるほど、篠宮さんは高木さんと一緒に来たのか。じゃあ本当に道に迷ってたんだ。
……この病室からトイレまで、角を一回曲がるだけなんだけどな。確かに広い病院ではあるけど、トイレまではそんなに大した距離じゃない。何をどうしたら二時間近くも迷えるんだろうか。
「篠宮さん、階段を上って二階から四階までくまなく回ったらしいですよ」
「疲れたー。もうへとへとだよー」
「階段!? いや、トイレ行く時に階段なんて使わなかったよね?」
「そうなんだよね。そうなんだよ。でもさー、あたし、四条君との話に夢中だったから、もしかしたら階段使ってたのかも? って思っちゃってさー。あたしバカだから、階段使ったの忘れてるのかも? って」
そうか、記憶力が弱いっていうのは、覚えることが大変なだけじゃなく、覚えていること自体が信用できないってことでもあるのか。また一つ勉強になった。
「さくらちゃんのおかげで助かったよ。病院の廊下で野垂れ死ぬところだったよ」
「篠宮さん、縁起でもないこと言わないでくださいね? 病院は人の命を預かるところですからねー」
「はーい」
まあ、なんにせよ……篠宮さん、元気そうでよかった。
「では、お夕飯の準備をしますねー」
高木さんはワゴンからトレイを僕の前に置く。
……さて。
今日の最終ラウンド、開始だ。
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