第十一話 高木さくら

 分からない。

 一体、僕はどこで間違えたんだ。

 分からないよ。

 篠宮さん。僕に教えてよ。

 僕は、どうすれば良かったの?

 どうすれば、篠宮さんは、僕と――


「四条さん」


 腕を掴んだまま。高木さんが僕を呼ぶ。

 なんだろう。

 僕は今、忙しいんだけど。


「休息も兼ねて、まずは、昼食にしましょう」

「……昼食? 朝食もまだ、ですよね」


 僕は置き時計を見た。

 時計の文字盤には、13時04分21秒を示すデジタル数字が表示されている。端の数字が1秒ごとに増えている。


 13時?

 起きた時は4時台だったのに?


「四条さんは、今までずっと昏睡状態でした。発見が朝の5時ですから、8時間ほどです。処置が終わり、呼吸と心拍数が正常な値に戻ったのが、6時半。篠宮さんの腕の治療は、事前のデータもあり、もっと早くに終わりました」


 …………。

 電波時計だから、時刻は正確なはずだ。

 じゃあ、本当に、僕はずっと寝てたのか。その間、篠宮さんも高木さんも、ずっと僕のことを見守って……?


「事の重大さが、ようやく理解できましたか?」


 黙って首を縦に振る。思い出したように、ガンガンと頭に響く痛みがぶり返す。


 要するに。

 僕は最初から間違ってたんだ。少なくとも、言葉選びは完全に間違えた。

 気にするな、なんて、どの口が言う。

 優しい篠宮さんなら、心配するに決まってるじゃないか。


 ふう、と、高木さんのため息が聞こえる。沈んだ気持ちの現れ。昂った怒りが引いたのか、自身のことにあまりに無頓着な僕に呆れているのか。


「休息と栄養が必要です。早急に。用意しますので、少しお待ちください」


 高木さんの声に、いつものふんわりとした柔らかさは戻ってこない。

 高木さんは僕から手を放し、ガラガラと病室を出て行った。

 その背を見送り、僕はベッドにぼすん、と倒れる。

 ……なんだか、どっと疲れた。


「…………」


 篠宮さんは、まだ入院してるんだ。

 なら、会いに行くことはできる。少し話すくらいなら、きっと篠宮さんだって許してくれる。いっそ会話が無くたって構わない。篠宮さんと同じ空間にいられるのなら、それだけでいい。


「…………」


 静かだ。

 音がない。

 今、102号室には、音を出せるのが僕しかいない。

 シーン、という、漫画でよくある効果音が欲しくなる。



 一人ぼっちがこんなに寂しいなんて、知らなかった。

 一昨日まで、ずっと一人ぼっちだったはずなのに。







「お米とサラダ、そぼろ豆腐、焼き鮭、林檎のゼリーです。ごゆっくりどうぞ」


 最低限の敬意と、最後のは社交辞令だろうか。自然と背筋が伸びるような、しゃんとした声。いつもののんびりとした雰囲気も無ければ、余裕もまるで感じられない。


「……いただきます」


 妙に気まずい空気を肌で感じながら、僕は差し出されたトレイに思考を巡らす。


 基本、僕は小食だ。

 普通の人と比べて消費カロリーが著しく少ないから、昼はそんなに食べない。朝のメニュー次第では、昼はシチューだけ、ということもあるくらい。

 こんなに豪勢な昼食はいつぶりだろうか。いや、他の人からすれば、これが普通の一食分なのだけど。

 しかし、量が多いということは、それだけ食べるのに時間がかかるということ。

 箸は諦めるべきだろうか。この中だと、鮭が厄介だ。お米とサラダはフォーク、そぼろ豆腐とゼリーはスプーンで食べられる。だが、鮭をフォークでほぐし、口まで運ぶのはなかなか難易度が高い。スプーンと併用するか、あるいは箸で掴んでそのままかぶりついた方が楽だろうか?後者の場合、小骨の処理をどうすべきか……


「ところで、四条さん」

「はい」

「昨晩、呼吸器を使用しましたね?」

「あ……」


 呼吸器の使用履歴はしっかり記録されていて、高木さんや神原さんならすぐ確認できるようになっている。僕がいつ発作を起こしたかチェックできるように。

 僕が発作で倒れたんだから、当然、履歴も見るだろう。軽度の発作を自力で治そうとするのには、副次的だがこっちの理由もある。『呼吸器を使用するほどの重度の発作』と、軽度の発作を分けるために。


「それだけではありません。昨日の夕食の際、四条さんが火傷の処置でシャワーを浴びている間に、篠宮さんから相談を受けました。あなたの発作のことです」

「…………」

「あなたは昨日のお昼にも、一度発作を起こしている。間違いありませんね?」

「……はい」


 推理小説の探偵が犯人を追い詰めるように、高木さんは一つ一つ事実を確認していく。

 冷や汗がだらりと流れる。緊張で喉が渇く。今まで探偵の側に移入することが多かったけど、犯人側は、こんな気持ちなのか。よくもまあ、揃いも揃ってポーカーフェイスを保てるものだ。あくまでフィクション、ということか。


「今朝の分を入れて三回。昨日の夕食の時の未遂を入れれば、四回です。あなたが篠宮さんと会ってから、今朝までの間に発作を起こした回数は。ここしばらく、四条さんの容体は安定していたのに、です」


 言いたいことは分かる。高木さんが本気で僕の心配をしていることも、痛いほど分かる。

 でも、今それを確認するってことは。

 つまり結論は――


「あなたはそれでもまだ、篠宮さんに会いたいと言うのですか?」


 僕と篠宮さんは会ってはいけない。

 当然、そうなる。

 誰がどう見ても、僕の発作と篠宮さんには因果関係がある。実際、ある。


「はい。もちろんです」


 だから篠宮さんと会うのは諦めろ、と言われたって、それは聞けない相談だ。


「どうして、そこまで篠宮さんにこだわるんですか?」


 理由なんて、簡単だ。


「篠宮さんが好きだから」


 生まれて初めて、僕は恋をしている。

 篠宮舞という女性に、恋い焦がれている。

 だから僕は、篠宮さんに会いたい。

 会いたい理由なんて、それだけで充分だ。



「迷いなく言い切れるのは立派です。が、全く足りませんね」



「……足り、ない?どうしてですか!」


 足りないって、何が。

 胸がはち切れそうなほど、篠宮さんを欲しているのに。

 篠宮さんの声を、篠宮さんの匂いを、篠宮さんの姿を、篠宮さんの心を、これほどまでに欲しているのに!!


「四条さん。あなたは篠宮さんと会って、何をするつもりですか?」

「何って、隣で会話をしたり――」

「誰の為に?」

「……え?」

「自分の為、でしょう」


 内臓を抉られるような痛み。

 高木さんの言葉が、ナイフのように僕を切り裂く。


「一方的に想いをぶつけるだけなら、ストーカーにだってできます。四条さん。逃げる相手をしつこく追い掛け回そうとするあなたの態度は、ストーカーのそれと何も変わりません」


 言葉を、失う。

 ストーカーと同じ、なんて、あまりに容赦がなさすぎる。

 僕は、昨日まで、恋がどんなものかすら知らなかったのに。


「どんな顔で笑えば、彼女の傷が癒えるか考えましたか? どんな態度で接すれば、彼女が再び前を向けるか考えましたか? どんな言葉をかければ、彼女が救われるか考えましたか?」

「やめて……」

「あなたの言葉を聞きたくないと言っていた彼女に、彼女の意思を無視してまで浴びせる言葉は、本当に彼女を救えるのですか?」

「やめてよ!!」


 分からないよ。

 分かるわけないだろ。

 僕なんかに、他人を救えるわけないだろ!!


「高木さんは、どうなんですか」

「神原さんのことですか?」

「高木さんだって、僕と一緒じゃないんですか?」

「ええ。違います」

「何故、ですか」

「あなたと私では、覚悟が違います」


 覚悟?

 覚悟って、なんだよ。


「恋をするとは、自分の為に相手を欲すること。愛を抱くとは、相手の為なら自分の全てを投げ打っていいと覚悟すること。

 あなたの抱く感情は、百パーセント、全てが恋であって、愛とはまるで別のものです。『本当は今すぐ会いたいけど、篠宮さんの為に、せめてほとぼりが冷めるまでは時間を置く』くらいのことが言えなければ、あなたを篠宮さんと会わせるわけにはいきません」


 分からないよ。

 恋も、愛も、僕には分からない。

 最初より、もっと前から間違ってたのか?

 篠宮さんに好意を抱いたこと自体、間違いだったって言うのか?


 篠宮さんが欲しい。

 この気持ちだけは本物なのに。

 もう僕は、一昨日までの僕には、戻れないのに。

 どうして。

 僕の唯一確かな気持ちさえ、否定されなくちゃいけないんだよ……。



「ですから、私はあなたを監視します」

「……かん、し?」 

「あなたが勝手に出歩かないよう、今から寝るまで、一秒たりとも目を離しません」

「は? いや、何を言って!?」

「私の目がなければ、四条さんは篠宮さんの病室を探すでしょう?」

「そうじゃなくて、だって……高木さん、通常業務は?」

「それについては考えてあります」

「えっと……一秒たりともって、例えばトイレとかお風呂とか……」

「出入り口が一つなら、外で待っていれば大丈夫です」

「僕はともかく、高木さんはどうするんですか?」

「一日お風呂に入らないくらいで人は死にません。トイレについては、いざとなれば、この病室には尿瓶もあります」

「尿瓶って……!?」

「何か問題でも?」

「問題しかないですよ! どうして高木さんがそこまでしなくちゃいけないんですか!」

「分かりませんか?」


 高木さんは、顔から、いや、全身から力を抜いた。

 目を細め、口角を上げ、誰もが思わず警戒を解いてしまうような、穏やかなオーラを放つ。


「これが、私の覚悟だからですよー」


 高木さんは今日初めて、ふんわりとした声で、のんびりとした笑顔を浮かべた。

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