第三話 泥沼ラプソディエ

「ごめん……なさい……本当に、ごめんなさい」


 篠宮さんは呪詛のように、同じ言葉を繰り返している。言葉が口から出ていくたびに、篠宮さん自身を呪いのように締め付けている。左手でどれだけ目元を拭っても、溢れる涙は止まらない。拭い切れない分が、頬を伝い、顎から右腕のギブスに落ちる。拭えば拭うほど、その量は増しているようで。可哀想、という月並みな感想がふっと浮かぶ。

 気持ちは分かる。ちょっとした出来心で、年下の少年をからかってみようと思っただけだ。まさか目の前の少年が、キスをトリガーに発作を起こすなんて想像もしなかっただろう。僕のプレートのVIT30にも特に反応していなかったし、気づかなかったか、覚えてなかったか。


 さて、どうするか。

 気にするな、と言うのは逆効果な気がする。神原さんが良くても自分が納得できない、と高木さんがちょくちょく言っているのと同じだ。誰にも咎められないと、かえって自分を責めることに繋がる。ちょうど、今の篠宮さんのように。

 それなら、別の話をするのが得策か。


「泥沼ラプソディエ、って知ってる?」

「……へっ?」


 泥沼ラプソディエは、有名な少女漫画のタイトルだ。昔ある週刊誌に載っていたらしいが、僕が読むのは週刊誌ではなく単行本の方。既に完結済みで、ノベライズされたものも読んだことがある。心理描写が巧みで繊細な名作だ、という神原さんのお墨付き。


「知ってるよ。あたしも読んだことあるし、結構好きだよ。……でも、それがどうしたの?」

「読んだことあるんだ。じゃあ、ちょっと話せる?」

「え、うん、いいけど、なんで?」

「僕が話したいから」

「…………」


 篠宮さんは僕の提案に呆気にとられている。それでいい。悲しむくらいなら、驚く方がまだいい。


「……INT高い子は何考えてるか分かんないや」


 赤く腫れた目を細め、困り顔で笑う篠宮さん。

 大丈夫。INT低い子も何考えてるか分かんないよ。




 一度話し始めると、篠宮さんはノリノリで食いついてきた。それはもう、面白いくらいに。


「やー、やっぱり名作だよねー。ドラマ化もされるくらいだもんね」

「短期連載だったからこそ、終わり際が華やかだよね。打ち切りと違って、物語が綺麗に纏まってて。どの話もいいけど、やっぱり最終話が一番良かったよ」

「あのシーンいいよね! あたしね、最後の方で、主人公の女の子がずどーん! って雷落とすとこが大好きでさ! で、男の子が叫ぶの! 『今度はオレの番だ!』ってさ!!」


 えっと、雷を落とすのも、男の子が叫ぶのも、泥沼ラプソディエじゃない。それぞれ別の少女漫画だ。

 ただ、これを普通に指摘すると、楽しそうな所に水を差すことになる。それより、話を合わせたほうがいろいろ面白そうだ。


「雷で病院の電力復旧させるやつだっけ。活字もいいけど、派手な演出はやっぱりイラストの方がストレートに映えるよね。文字だと頭の中でイメージしないといけないから。僕はそういうのも好きだけど、あれくらいはっちゃけてると、目で見てダイレクトに迫力が伝わる漫画で正解だよ」

「やっぱそう? いいよねー。あのシーンはほんと忘れられないよね。んでその後に男の子が叫んで……ありゃ? なんか違うな?」

「男の子が叫ぶのは、ヒロインが告白した直後に連れ去られて、そいつらのアジトに乗り込んだ時のセリフだね」

「そうそう! ……泥沼ラプソディエってこんな話だっけ?」

「雷のはリバイバルホスピタル、叫ぶのは私に乱暴しないで、っていうタイトルだったかな? ちょっとうろ覚えだけど」

「それだ! ってなんで私より詳しいのさ!?」

「まあ、ずっと本ばかり読んでたからね」

「ほへー、すっごいなぁ。読書が趣味って言うから、てっきり字がちいちゃくて小難しい本ばっかり読んでるんだと思ったよ」


 純文学も好きだけど、小説には小説の、漫画には漫画の良さがある。もちろん、それ以外の本にも。たぶん、違いを事細かに説明しても、篠宮さんは首を傾げるんだろうけどね。


「じゃあ泥沼ラプソディエのこと話そっか! やっぱりなんと言っても、ラストの二人のキスシーン……が……」


 あ、しまった。

 完全に知名度で選んだけど、そうか。泥沼ラプソディエは、遠距離恋愛を経て再会した二人のキスシーンで終わるんだった。

 さっきのキスを思い出したんだろう。篠宮さんはすっかり元気がなくなって、僕から赤い目を外した。


「…………ごめんなさい」

「いや、謝ることないよ。見ての通り、ピンピンしてるからさ」


 もうだいぶほとぼりも冷めただろうし、普通に話せば元気になってくれると思うんだけど、どうかな。INT252の子の思考回路は、僕にはまだよく分からない。


「……ねえ。ひとつ、聞いていい?」

「うん。何かな」

「キミはさ、怒ってないの?」


 それは、純粋な疑問のようで。


「怒る?どうして?」


 僕はそれに、純粋な疑問で返した。


「だって、あんなに苦しそうにしてたよ? 苦しそうで、辛そうで、体中に汗かいて、ベッド、ぎゅーって握って……死んじゃうのかな、って、思っちゃったもん」


 赤く腫れた目が、再び過剰に潤う。急な発作は、僕にとっては日常茶飯事でも、篠宮さんには深々と傷をつけたらしい。アプローチを間違えたかな。


「確かに苦しかったけど、いつものことだからさ。全然気にしてないよ。僕の虚弱体質、篠宮さんは知らなかったんだし」


 知らなかったんだから、篠宮さんを責めたって仕方ない。知っててわざとやったならまだしも、悪意が無いのに怒りなんて感じるはずがない。日本語には無邪気という言葉があるが、邪気が無いものは裁けない。

 僕の理論では、そうなっている。

 篠宮さんの理論では、どうやらそうじゃないらしい。


「どうして嫌いにならないの? どうしてそんなに優しいの? 知らないで済ませられることじゃないよ! あたしがもっと、ちゃんと気を付けてれば……」


 大げさだな、という感想と、もう一つ。軽そうに見えて、意外と責任感が強いんだな、この子。怒る理由がないから怒らなかったけど、失敗だったかな。目一杯怒って、反省して、そこで終了。そっちのプランの方が、篠宮さんにはかえって楽だったかもしれない。

 目の前で号泣する篠宮さんを見ながら、この子と話すのは楽しいな、と、場違いなことを思った。篠宮さんは、神原さんや高木さんと、脳の動きが決定的に違う。考えが読めないだけで、会話というのはこうも変わるのか。


「気を付けるって、無理に決まってるよ。だって――」


 ようやく、篠宮さんの思考回路が少しだけ見えてきた。

 だから僕は、あえて酷いことを言う。


「篠宮さん、バカでしょ?」


 時が止まったように、篠宮さんが固まる。うん、やっぱり、表現も言葉もストレートな方が、バカな篠宮さんには伝わりやすい。

 三秒経って、篠宮さんは顔を真っ赤にした。目がこれ以上赤くなるより、断然いい。


「き、キミ、かわいい顔してグサッと来ること言うね!? いや、確かに自分でもバカだって言ったけど、一応あたしとキミって初対面だよね?」

「一応もなにも、初対面だよ」

「じゃあもうちょっと気を遣ってくれてもよくないかな!? 全然勉強できないの、こう見えてかなーり気にしてるんだよ!?」

「良かったら教えようか? 教科書も読みこんだから、高校までの課程なら終わってるよ」

「ふえええええっ!!? キミ、一体いくつなの!?」

「12歳って言ったよね?」

「知ってるよ! 知ってるけど!! そうじゃなくて、そうじゃないの!!」

「その発言が頭悪そうだもんね」

「ぬおっ!? お、おおう……今のはマジで効いたよ……」


 篠宮さんは本当に物理的なダメージを受けたかのように、お腹を押さえてうずくまった。黒に交じる紫の髪がふわりと舞う。ほんとに面白いな、この子。


「そんなに傷ついた? なら、これでおあいこってことで」

「……おっけーだよ。もうゼッタイ謝らないからね!」

「うん。僕もね」


 ふん、と篠宮さんはそっぽを向いた。ちょっと拗ねちゃったかな。

 そんな心配をするまでもなく、すぐに篠宮さんは、にへへ、と口元を緩めた。


「ありがと。それと、これからもよろしく!」

「こちらこそ、よろしくね」



 この時からだ。

 少しずつ、しかし確実に、僕と篠宮さんの運命が狂い始めたのは。

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