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「その箱は首飾りを納めておくために誂えたものではないようでしたが、絹の羅布に包まれたそれ自体は大切に取り置かれていました。中身だけを持ち出すのはどうかと思いましたが、箱ごと持ち去ればいずれそこを訪れた誰かに本棚の変化を気づかれてしまうかもしれないと考え、箱だけを元の場所に戻して父の部屋を後にしました」
「王妃は自分が手にしているものを偽物とは思っていないわけか」
「今のところは、恐らくですが」
仰け反っていた体を起こし、クロエは目にかかる前髪を掻き上げた。指に絡み付く髪の感覚を追いかけながら、ロランの様子を横目に窺った。少し疲れたのか、ほう、と息を吐いたロランは、冷めてしまったお茶をごくごくと心地良さそうに飲み干している。
ほら、とクロエは思った。あの時感情に任せて薬を盛っていれば、今頃この青年は苦しみ悶える死を迎えていたではないか。心のどこかで惜しいことをしたと考えている自分を、クロエは少しだけ恥じた。
「国王の病について医官は何と言っている?」
「原因は分からないと主張しています。ですが、医官も王妃の手の内の者ですから、信憑性には少々欠けるかもしれません」
ロランは眉尻を下げて頼りのない面持ちを浮かべる。
医官といえば、国中で最も腕の良い医者であるというのが通例だ。だが、実際には大したことのない人物が、金を積み上げて官職を買うようなことも少なくはないと聞く。本来であれば何らかの説明がつく病状であっても、王妃に口止めされているということも考えられるだろう。
「……これは実績がある者に助言を仰ぐのが一番だな」
「え?」
「行こう」
そう言って立ち上がるクロエを見上げ、すぐに合致がいったのかロランも席を立つとその背中を追いかける。しかし、隣に並ぶとやや不安そうな眼差しがクロエを見た。
「ネグロは真性の知りたがりだけど、秘密は守る。信じて大丈夫だ」
「いえ、そういう心配をしているのでは……」
「他にもなにか気がかりなことがあるのか?」
「このように浅ましい話を聞いていただいて、多分にご迷惑までおかけしてしまい、申し訳なく思います」
「今更だな」
クロエはそういって鼻で笑う。
「迷惑なら、行き倒れていた男を拾ったときから被ってる」
無用な争い、不要な怪我、無益な口論に無駄な心労。どれも本来であれば身に覚えなどないはずのものだ。
クロエがはっきりそう言ってやると、ロランはそれを真に受けて肩を落とした。半ば本気ではあったものの冗談だとその肩に手を置き、水田の畦道を先に立って進んだ。
小屋の前に立って扉を叩くと、少しも待たないうちに内側から開かれる。
「ああ、お前たちか」
まるで別の誰かを待っていたような口ぶりに、クロエは小首を傾げた。
「出直そうか?」
「いや、構わない。入ってくれ」
ネグロは扉を大きく開き、クロエとロランのふたりを快く招き入れた。
いつもながら独特な香りのする室内では何らかの作業が行われていたのか、台の上が必要以上に散らかっている。蒸すような空気が充満しており、いつもより強い香りを感じた。
「そうだ、クロエ」
「うん?」
「これを唇に塗るといい。治りが早くなる」
乱雑な作業台の周りをあれでもない、これでもないと見ていたかと思うと、ネグロが油紙に包まれた何かを差し出してきた。受け取った流れで中身を改めると、石鹸のような薄茶色の固形物が入っていた。
「蜜蝋から作った軟膏だ。手荒れにもいいぞ」
「手荒れ?」
「お前は年がら年中枯れているからな」
むっとするでもなく、クロエは顔の前まで持ち上げた自分の手をまじまじと凝視した。
言われてみればその通りだった。細長い指は関節ばかりが目立ってごつごつとしており、潤いがなくぱさぱさとしている。その武骨な手にはささくれが多くあり、これが女の手かと我ながら疑問に思うほどだ。
ネグロの言っていることを最もだと感じたクロエは、その軟膏を油紙に包み直すと懐に仕舞い込む。坦々としたその様を見てくつくつと笑っていたネグロだが、すぐさま「それで?」と話題を切り替えた。
「俺に何か用でも?」
「ロランの父親のことで、少し聞きたいことがあるんだ」
「彼の父親といえば、真サルザ王国の国王陛下か?」
出し抜けな申し出に目を剥いたネグロは、その驚いた顔のままロランを見た。すると、ロランは一度クロエの横顔を窺ってから口を開こうとする。
しかし、ネグロは客人を立たせたままでいることがどうしても忍びなかったのか、椅子を運んでくるとふたりをそこに座らせ、お茶の用意をはじめてしまった。ロランは竈で湯を沸かそうとしている背中にどう声をかけたものかと困り果てており、仕方なく思いながらクロエが口火を切った。
「国王が病に臥していることは知っているだろう?」
「ああ、そんなことを言っていたな」
「その国王の問診をしてほしいんだ」
「――は?」
単刀直入なクロエの頼みを聞いて、ネグロは呆気に取られている。
口を半開きにして美しい色の目を何度も瞬かせ、頭のなかで物事の筋道を踏もうと必死になっている様子が窺えるようだった。
「悪いがな、クロエ。問診というものは患者本人に行うものだぞ。そもそも、俺は国王陛下に謁見したことさえない。会ったこともない人物の病状をどう知れと言うつもりだ?」
「詳しいものじゃなくていいんだ。話を聞くかぎりではこうだろうという推測だけで構わない」
「大体、なぜそんなことをする必要がある? 王宮にはご立派な医官が常駐しているはずだろう? 俺のような一端の薬師に何ができるっていうんだ」
ネグロは呆れよりも怒りの方が先行しているようだった。無理難題をふっかけてくるクロエを睨み、今にも馬鹿にするなと怒鳴り出しそうに思われた。
「そのご立派な医官殿が原因不明だと言ってお手上げなんだそうだよ。話を少し聞いてみるくらい良いじゃないか、減るものでもないのだし」
ネグロの態度を受けても、クロエは至って平然と言ってのけた。
当たり前だが、目の前の怒れる男に怯えている様子は一切ない。だが、隣に座っていたロランは微かにその身を竦ませてしまっていた。
「現にそのことでロランが困っているんだ。ほら、人助けだと思えばいい」
「困っている?」
怒りで顰められていた表情が僅かに穏やかになり、眉間からしわが消えた。ネグロはクロエからロランに視線を滑らせ、黙したままその先の説明を求めた。
「父の病の原因を突き止めることができれば、劇的に何かが変わるというわけではありません。ただ、今の状態から少しでも改善されるなら、僕はその方法にすがっても良いと考えています。父の症状が回復すれば、王妃も今までのままというわけにはいかなくなりますから」
「そう言われてもな……」
ネグロはクロエに対する態度から一変し、途端に弱り果てたような顔をして鼻の頭を掻いた。
クロエはネグロの代わりに馬鹿にするなと言いたくなる気持ちを抑え、天井から目と鼻の先に下げられている見慣れた香草をじっと見つめる。小さく可愛らしい花をつけているそれは、香草茶にして飲むと美味しいのだ。
「俺はただの薬師で、医者じゃない。特別な教育を受けたこともないしな。外傷ならある程度はどうとでもなるが、内側の病は俺の手には負えないぞ」
それでも構わないからと言って、ロランはつい今しがたクロエに話して聞かせたことをネグロの前で繰り返した。口を挟まずに最後まで聞いていたネグロは、ロランが話し終えると顎に手をあて、人差し指で下唇を撫でながら小さく唸り声をあげた。
「確かなことは言えないが」
「それでも結構です」
「あんたをここへ連れてきたということは、クロエもその可能性を考えているはずだ」
ネグロの言葉に、クロエは小さく肩を竦める。
「国王の病状には、ある程度の外的要因が考えられる」
「……それは、父の病が人的なものによって引き起こされているということですか?」
「おいおい、そう怖い顔をするな」
ネグロは入れたばかりのお茶を作業台に置くが、ロランはそれに見向きもしない。鋭い眼差しでネグロを見上げ、睨まれた当人は参ったなとでも言いたげに自らの頭を撫でた。
「絶対にそうだと言っているわけじゃない。ただ、それに似た症状の連中を見たことがあるってだけだ」
「それはどこです?」
「戦場だよ」
爽やかな香りの湯気が立ち上る茶碗を受け取り、それに息を吹き掛けながら、さも何でもないことのようにクロエは言った。すると、ロランの眉根が寄せられる。
「戦場で戦わされている者たちが己を鼓舞するためや、死への恐怖を和らげるために使用している、危ない薬だ」
「薬?」
「俺たちのような薬師の間では、痛みを取り除いてやるためにほんの少し使うということはままあるものだ。使い方を誤らなければ危険ということはない」
先入観を持たせるような言い方はよせと、ネグロは釘を刺すようにクロエを睨んだ。
「だが、どんなものでも大量に体へ取り込めば毒にはなる。連中が常用している薬はその類いのものだ。ものによっては感覚を失わせ、感情を開放的にさせることができる。恐怖心をなくし、痛みも感じない。常に死と隣り合わせの状態にある連中には願ってもないものだろう。それ故に副作用は生半可なものではない」
「戦場ではその副作用で意識の朦朧としている者から、幻覚や幻聴に苛まれている者まで大勢転がってる。意味の分からない言葉を吐き、ある意味では戦場よりも惨たらしい光景だ。生きているのか死んでいるのかも分からないようなやつらなんて珍しくもない。それが常習者のなれの果てだと分かっていても、金儲けのために売人が戦場を闊歩しているんだから、非情なものだよ」
「ですが、なぜ父がその薬を……」
「自ら好んで服用していなければ、何者かが故意に飲ませているとしか考えられない。国王の自由を奪い、寝台に縛り付けておくために」
クロエとネグロはあえてそれ以上のことを言わず、顔を見合わせて口を噤んだ。
ロランは驚くほど無表情で、茶碗の水面をじっと見下ろしている。
しかし、言わずとも分かっているはずだ。ふたりの推測が正しいとすれば、真サルザ王国の国王は心身を喪失させるような薬を何者かに飲まされている。その人物が誰なのか、ロランには既に察しがついていることだろう。
「……父は、以前までの父に戻ることができますか?」
「残念ながらそれは難しいことだ。個人差はあるが、多少なり脳に障害が残るだろう。適切な処置を施せば、日常生活を取り戻すことは可能かもしれない」
また親指の爪を噛んでいるロランを横目に見やり、クロエはお茶を口に含んだ。
そもそも、ネグロがそういった事情に通じているのは、自身が戦地でそうした薬の調合を行っていたからだ。今では当時を後悔していると言うが、望まれる通りのことができなければ殺されていた、それだけのことだった。
「的確な解決策を提示できなくてすまないな」
「いえ、そのようなことは……」
「先にも言ったが、実際にそうと言い切れるわけではない。それでも、早々と解決するに越したことはない問題だな」
十中八九、首謀者は王妃自身だろう。だが、理由が分からない。息子を国王に押し上げたいのであれば、黙ってその時を待っていればいいのだ。王はいずれ死に、玉座は空になる。なぜその時まで待つことができなかったのか。
そうでなくとも耄碌した王にすがることなどせず、さっさと退位を迫ればいいだけの話ではないか。それを十年以上飼い殺し、自らは王の代理として玉座でふんぞり返っている。まったくもって道理に反した振る舞いだ。
「僕はこれまでの間、何も知らずに生きてきたのですね……」
その独白で我に返ったクロエは、再びネグロと顔を見合わせた。
優しい薬師は、思い詰めなければいいがという目で、気遣わしげに俯く王子の姿を見る。
クロエはどんよりとした空気に耐えかねて呼吸を逃がした。すると今更になって、先ほど口にしたお茶の香りがよみがえってくる。それはこの場の話題にそぐわない、酷く清々しいものだった。
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