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 一国の君主を父と呼び、そして哀れだと嘆く真サルザ王国の第五王子は、刺さるような沈黙のなかで俯いた格好のままだった。

 クロエはその間に茶釜で湯を沸かし直し、新しいお茶を入れる。

 もしこの液体のなかに毒を仕込んだとしても、この青年はそれに気がつきもしないだろう。そして、何ひとつ疑いもせずにそれを口にするのだ。もがき苦しむ最期の瞬間に何を思うのかと、静寂のなかでクロエは考えた。もう何度も、同じ妄想を繰り返している。

 自分と出会っていなければあの森で尽きていた命だ、今更惜しむことなどあるだろうか。いや、死の寸前で拾われたからこそ生に執着したくなるのが、人間の性なのかもしれない。

 クロエは、隙さえあれば未だにそのようなことを考えてしまう自らの思考に驚くわけでもなく、ただ坦々とお茶を注ぎ、それをロランの前に置いた。もちろん、毒など入れてはいない。だがしかし、ネグロの小屋を訪ねれば何か適当なものが見つかるかもしれないとは、確かに考えていた。

 もしかすると、心のどこかではその冷静な殺意のようなものを感じ取っているかもしれないが、ロランはそれを口に出したりはしないだろう。

 そこまでを頭のなかで思い描いて、クロエは突然現実に引き戻された。ぼんやりと眺めていたロランが顔をあげ、視線がぶつかったのだ。

 どれほどの時間を黙り込んでいたのか、それはほんの少しのような気もすれば、途方もなく長かったような気もする。


「……物心がついた頃から、父は今の状態の父でした」


 唐突に話し出すロランを見て、クロエは口許で傾けていた茶碗を机に置いた。あえて相づちを打つこともせず、続く言葉を待つ。


「父はいつも病床に臥していて、話をすることもままなりません。なぜ生きているのかと不思議に思うことさえありました。けれど、僕が幼い頃は時おり目を覚ますこともあったのです。朧気ながら覚えている、優しく聡明な父の姿のままで」

「ちょっと待て、話が見えない」


 黙って話に耳を傾けていようとしていたクロエだったが、ロランの伝えたがっていることが良く分からずに眉を顰めた。


「国王は生きている。でも、政に関与できるような状態ではない。もうずっと眠ったままでいるということか?」

「眠っている時間が通常より長く、目を覚ましても意識がはっきりしません。常に朦朧としていて、妙なことばかりを口走るのです。それを目撃した臣下たちが陛下はお若くして耄碌されたのだと噂をし、それが城下に伝わる際に誇張されたのでしょう。しかし、王妃は未だその事実を否定し続けています。もし認めてしまえば、国王の後ろ楯という偽りの援助を失い、自らの立場を危うくすると理解しているからです」

「なぜ王妃がそこまでの権力を誇示するように?」

「陛下の手により国王の首飾りが下賜されているからです」

「あの青い金剛石の首飾りか」

「はい。あれは国王が王足る証として擁するものです。現王が退位する際に次期王に譲渡され、即位となります。王が王妃にそれを賜れたということは、自らの全権を移譲すると宣言したのも同然なのです」

「それだけど、王は実際にその王足る証というやつを王妃に託したと証明できるのか?」

「証明など必要ありません。王が王妃に国王の首飾りを受け渡した、それが唯一無二の事実なのですから」

「……取りつく島もないんだな」


 呆れてものも言えずに頭を掻くクロエを、ロランは真剣な顔のまま見つめていた。


「じゃあ、質問を変える」


 クロエがそう言うのを、今度はロランが黙って聞いている。


「それならなぜ、ロランがその首飾りを持っているんだ?」


『これは彼のもの、と言えるかどうかは分からない』


 金剛石の首飾りを持ち出して見解を求めたとき、セラトラがそのように言っていたことを思い出しながらクロエは問いかけた。あの首飾りに触れた瞬間、セラトラは間違いなく何かを見たはずなのだ。だが、それを聞き出そうと食い下がったところで何も教えてはくれなかった。

 しかしながら、あの穢らわしいものでも見るような眼差しには、絶対に含むところがあるはずだ。あのセラトラが蔑視するような何かが、あの首飾りには宿っているに違いない。

 そう思い定めたクロエの面差しを受けてロランも覚悟を決めたのだろう、大きく息を吐くと決意に満ちた目でまっすぐに対峙した。


「盗み出してきました」

「まあ、そうだろうな」


 誰もが当たり前に想像のできることを、ロランはまるで意を決したように口にする。クロエは一瞬呆れかけるが、当人は至って真剣だった。


「王妃は当初からそれを肌身離さず、見せつけるようにして常に身に付けていましたから、盗み出すなんていう芸当は到底無理な話でした。ですがある時から、あの首飾りを後生大事に仕舞い込むようになったのです。恐らくは叔父の手の者に奪われることを警戒してのことでしょう。兄と僕は何とか脱出の決行日より前に首飾りの在処を突き止め、盗み出そうと考えていました。国王の首飾りがあれば、今は王妃の圧政に屈するしかない民も叔父に着いてきてくれるはずだと確信していました」


 それほど重要なものならば、自分だけが知っている秘密の場所に隠そうとするのが普通だろう。だが、自分ならばその考えを逆手にとって、まさかという場所に置いておく。大勢の人の目に触れる可能性のある、どこかに――クロエは咄嗟にそう考えた。

 話を聞くかぎりでは、王妃は非常に大胆で自信家な人物だ。その上傲慢な人格であると想像できることから、度胸も人並み外れていることだろう。


「僕たちは王妃の目を盗み、寝室にまで忍び込んで首飾りを探しましたが、目的のものは見つかりませんでした。その他にも、考え得るすべての場所を捜索したつもりでしたが、どこにも見当たりません。もしかしたら王宮の外に持ち出されている可能性も否定はできませんから、兄と僕は首飾りを持ち出すことを半ば諦めかけていました」

「隠し場所が分かったのか?」

「いいえ」


 ロランは首を横に振った。その面差しは複雑そうな心情を表すようであり、どこか悲しげだった。


「僕たちが求めていた首飾りは、最初から隠されてなどいなかったのです。いえ、隠されてはいたのですが、根本的なところで思い違いをしていました」

「え?」

「王妃が手にしていると思われていた首飾りは、最初から模造品でした。陛下より下されたものだというのも嘘です。そのような事実はありませんでした」

「要は、どういうことだ?」

「父はおよそ正気を保ってはいませんでしたが、病に侵される以前に首飾りの模造品を作らせておいたようなのです。本物は、最後に父の部屋を訪ねたときに、僕が見つけました」

「でも、どちらが本物かなんてどうやって見分ける? 正気とは思えない王が夢現にそう漏らしたのか?」

「いえ、本物かどうかはあなたの叔父上が証明してくれました。もし僕の持っている首飾りが偽物だったとしたら、あの方はすぐさまそれを見抜き、指摘してくださったはずです」


 確かにその通りだとは思うが、それだけでは根拠として弱いように感じられる。クロエはセラトラの能力を一から十まで信じているが、過信しすぎるのは良くないと当人から何度も繰り返し言われていた。写鏡は神ではない、ただの人であるが故に過誤を犯すこともあるのだと。


「他にもそう言い切れる根拠はあるのか?」

「あのときの父からは明確な意思のようなものを感じ取ることができました。ほんの一時ですが、正気を取り戻したように感じられたのです」


 死んだとされていた父の生を信じ続けていた女と、死んだように生きている父の正気を信じることのどちらが、より一層愚かなのだろうか。

 クロエは僅かにそのようなことを考え、自虐的に微笑した。どちらも同じようなものだと自らで結論付けて、不可解そうに見つめてくるロランに向かって肩を竦めた。


「どうして正気を取り戻したと思った?」

「あ、はい。それは、何と言えば良いのでしょう……」


 ロランははっとしてからそう口にすると、親指の爪を噛んで物思いに耽ってしまった。恐らく物を考えているときの癖なのだろう、その目を再び右へ左へと往復させている。


「上手く説明することができないのですが、こう、目の色が違っているように感じられました。遠くを見ているような眼差しではなく、確かに僕を見ていたように思います。そして、しっかりと一言だけ『すまなかった』と口にしたのです。すると、寝台に横たわっていた父の手の平から、小さな鍵が僕の足許に滑り落ちました」

「鍵?」

「手の平に包み込めるくらいの、丁度小指ほどの大きさしかないものです。かなり古いもののようで、銀で出来てはいましたがとても脆くなっていました」


 ロランは口で言いながら、親指と人差し指でその鍵の大きさを示して見せた。


「小さくても細工の作り込まれた、美術品としても評価できる一品です。ですが、何を開くための鍵なのかが分かりませんでした。父に尋ねようにも、いつもの虚ろな様子に立ち戻ってしまい、それも叶いません」

「そんなに小さな鍵なら、扉を開けるようなものではないな」


 クロエはその時、家を出て行くときにセラトラが小脇に抱えていたものを思い出した。


「何かの箱を開くものか?」

「その通りです」


 ロランは気のせいか少し嬉しそうに頷いた。そして再度、自らの手でその箱の大きさを表してみせる。


「その鍵と同じくらい古く感じられる箱が、父のいる寝室の本棚に納められていました。その外観は箱というよりも、本そのもののように見えました」


 ロランが言うには、その箱には見慣れない文字が記されていたそうだ。表紙、裏表紙にとびっしり書き込まれているのだが、明らかに自分たちが使用している言語ではない。文明時代に使用されていたものではないかと推測したが、その方面には明るくないため分からずじまいだったという。


「手に取ってみると思っていたより重たいものでしたが、どうやら木箱のようでした。表面は滑らかな手触りで、少しふわふわとして、指先に吸い付くような感じのする材質です」

「ああ」


 クロエはその説明を聞いて、納得したように相づちを打つ。


「それはたぶん天鵞絨だ。絹から作られる織物らしいけど、私も前に帝国で一度見たことがあるだけだから、詳しいことは分からない」

「あちらにはそのような技術があるのですか」

「それも文明時代の名残だよ」


 今は関係のない話をするのではなく、早く続きを聞いてしまいたい。クロエは先を促した。


「良く調べてみると、その箱には小さな鍵穴がありました。父の手に握られていた鍵を差し、慎重に回すと――」

「首飾りが入れられていた?」

「はい」


 クロエが話を一通り聞いた限りでは、何らかの理由で一瞬だけ正気に戻ることができた国王が、首飾りをロランに託したと解釈することができる。

 だがなぜ、まるで都合の良い頃合いを見計らったかのように、国王は正気を取り戻したのだろう。その鍵は一体いつから国王の手に握られていたのか、それも疑問だった。

 クロエは椅子の背もたれに背中を押し付け、首を仰け反らせて背筋を伸ばした。身体中に力が入っていたようで、筋肉が凝り固まっているような窮屈さを覚えていた。

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