第四章

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「ロランが会ったルウという男について、もう少し詳しく聞かせてもらえないか?」


 琥珀色の液体を注いだ茶碗を差し出しながら、クロエは回りくどい言い方などせずにそう問いかけた。ロランは黙って茶碗を受けとると、僅かに茶色みを帯びた眼差しでクロエを見上げた。


「もう十年ほど前のことですから、記憶が曖昧かもしれません」

「構わない。それでも私の記憶より五年も新しいんだ」


 クロエはロランと向かい合うようにして座り、真摯な眼差しを正面から受け止めた。するとロランは手にしていた茶碗を置き、少し考えるように目を伏せてから静々と口を開いた。


「実は、ネグロさんのところで目を覚ましてあなたを初めて見たとき、なぜだか以前にも会ったことがあるような気がしたのです」

「私と?」


 クロエは訝しく思いながら眉を顰める。ロランはゆっくりと首を横に振り、先を続けた。


「もちろん、僕とクロエは初対面です――と僕は思っているのですが」

「私も同じ認識だ」


 クロエ自身、記憶力は良い方だと自負していた。旅先で出会い、会話を交わした相手の顔と名前はあまり忘れることがない。もしどこかで顔を合わせていれば、必ず頭の片隅にでも引っ掛かっているはずだ。そうでなければロランが一方的に目撃していたとしか考えられないが、真サルザ王国の要人に知人などひとりもおらず、伝手もないクロエとの間に接点があったとは思えない。


「それで、どうしてそのように感じたのかを考えてみました。すると、ルウという方のことを思い出したのです。あの方とあなたが良く似ていたので、前にも会ったことがあるような気がしたのだと思います。黄金色の髪の色がとても珍しくて、印象的でした」

「この髪は父譲りだ」

「あの方は肩ほどまである髪をひとつに結わえていて、目の上には切られたような小さな傷跡がありました」

「傷跡……?」


 クロエはそっと瞼を伏せて、遠い記憶を呼び戻そうとする。だが、ロランの言うような目の上の傷跡など、一切覚えがなかった。父親に抱かれたときの手の大きさや、包み込まれたときの太陽の匂いは具に思い出された。だがしかし、最近ではその顔つきすら朧気で、声に至っては思い出すこともままならない。

 けれど、クロエはそれを認めることができずにいる。風化していく記憶を受け入れることが恐ろしく、過去がなかったことになるのではないかと感じていた。


「もしかしたら、僕の記憶違いかもしれません」


 顔を顰めて険しい表情を浮かべているクロエに向かって、ロランが気遣わしげに言った。


「傷跡があったと思い込んでしまっているだけの可能性もあります」


 子どもの記憶など曖昧なものだ。一度そうだと思い込んでしまえば、記憶の上塗りなど容易いものだろう。それでも、奇妙な引っ掛かりを覚えてしまうことは否定できない。


「恐らくですが、叔父はあの方とそれまでにも何度かお会いしていたのだと思います。そういう話し振りでした。あの方はとても親しげに叔父と話をしていて――」


 そこまで口にしてから、ロランは急に言葉を止めた。そして、はっとしたように口許を押さえる。


「あの方は僕の頭を撫でて、そして、自分にも君と同じ年頃の娘がいるのだと、そう仰っていました」


 本当にたった今思い出したのだという驚いた顔で、ロランは目を見開いていた。話をしているうちに次々と記憶が連結し、鮮明になってきたのだろう。更に多くのことを思い出そうとするように、こめかみの辺りを指先で叩き続けている。


「叔父が今はどこにいるのかと尋ねると、あの方は教えることはできないとお答えになりました。ただ、サルザ王国でもガイア帝国でもない場所だと言っていたような覚えがあります」

「他には何と?」

「待ってください」


 早く先を聞きたがるクロエに手の平を向け、ロランは視線を左へ右へと動かしていた。それを待つ間、クロエの手は無意識に茶碗を抱え込み、力強く握り締めていた。


「……サルジは憎いが、恨みは捨てた」

「何だって?」


 クロエが棘のある鋭い声をあげると、ロラン困惑した表情を浮かべた。


「自分はある人々と出会って、何もかもが変わってしまったと――憎しみはどうしても捨て去れないが、恨みはいずれ怒りに変わる。だから、恨むことはやめると仰いました。その時は何のことを話しているのか分かりませんでしたが……」

「十五年前のことだろうな」

「それ以前のことも含めてです。我々の一族があなた方に行ってきた数々の仕打ちを忘れはしないが、これ以上責め立てることはしないと、そういう意味だったのだと思います」


 何を勝手なことを言っているのだと、そう思う気持ちがクロエのなかに芽生えた。

 生き残ったシャラの一族を十五年前に置き去りにして、自分だけがその先に進もうとしている。たった五年の間にその境地にまで辿り着き、記憶に焼き付いて離れない呪縛から自分だけが自由になろうとしている。

 クロエにはそれが酷く羨ましく、同時に妬ましかった。裏切られた思いさえした。

 何かやむを得ない理由があるのだろう、自分たちのところへ戻ってこられない明確な言い訳があるはずだと、クロエはこれまで信じてきた。


「……他にもまだ?」

「すみません、これ以上は」


 どこかぼんやりとして聞こえるクロエの声に、ロランが至極申し訳なさそうな顔をして答えた。


「また何か思い出すことができたら、すぐにお話しします」

「そうか、分かった」


 ここでロランを責めても仕方のないことは、クロエにも分かっている。だが、腹の底でわだかまっている憤りをどのように処理すべきなのか、すぐには判断することができない。

 今はそのことを考えずに済むよう別の話題に移るべきだと思ったそのとき、まるで助け船が出されたように刃のこぼれた小刀が脳裏をよぎった。そうだ、他にも尋ねておくべきことがあったのだと、クロエは瞬時に思考を切り替えた。


「話しは変わるけど」

「はい?」


 いやに早く引き下がろうとするクロエを不可解に思ったのか、今度はロランが訝しむ番だった。しかし、クロエは構わずに続けた。


「ウーノという刀鍛冶を知らないか? セラトラが言うには、サルザ王家のお抱え刀匠になっているはずだという話なんだけど」

「ウーノをご存知なのですか?」


 しかめ面を一変させ、ロランは再び驚き顔だ。

 丸くなった目に映り込んでいる自分の姿から目を逸らし、クロエはぬるくなったお茶で喉を潤してから口を開いた。


「私の成人祝いにセラトラが小刀をくれたんだ。誰が鍛えたものかを聞いたら、その人だというから」

「ええ、ウーノは確かに宮城におります。自由意思で留まっているというよりは、幽閉に近い状態ですが」

「幽閉?」

「何年か前に、それは見事な美しい大剣が献上されてきました。実践で用いるようなものではなく、美術品として楽しむような類いのものです。王妃は一目でそれを気に入り、刀匠が誰なのかを尋ねました。そして、すぐに呼び寄せるよう命じたのです。ウーノはそれ以降、宮城の外に出ることが許されていません。来る日も来る日も作業場に引きこもり、王妃の欲望と収集心を満たすだけのために存在させられています」

「それは、悲惨だな……」

「いえ、当人にとってはそうでもないようです」


 あまりの扱いにぎょっとしたクロエを見て、ロランは苦笑を浮かべながら頭を横に振る。


「ウーノは結構な変わり者で、現在の飼い殺されているような状況でも十分に満足していると言っていました。衣食住が保証され、好きな刀を好きなだけ、好きなように作れると大喜びしていましたから」


 世の中には変わった人がいるものだと思いはするものの、クロエはそれについて特に意見を述べようとはしなかった。いや違う、どのような反応を示すことが正解なのかさえ分からなかったのだ。


「そのウーノが鍛えたという小刀を見せていただいても?」


 さて、どう言ったものかと考えていると、ロランが興味を引かれた様子でそう申し出た。特に断る理由もなく、クロエは腰紐に差し込んでいたそれを鞘ごと机越しに差し出す。

 ロランは紅色の小刀を手に取ると、滑るような漆の手触りをゆっくりと堪能していた。小刀から鞘を外すと、こぼれた刃に視線を走らせる。


「ウーノにしては簡素な意匠ですね」

「セラトラの注文だと思う。あの人はあまりきらきらしいものが好きではないから」

「実用性にも欠けますからね」

「その人が打つ刀剣はそんなにきらびやかなのか?」

「絢爛豪華な代物ばかりです。金や銀のなかに大小様々な宝石をふんだんに散らして、鞘を飾り立てたものとか」


 クロエは言われるがままに美しく飾り立てられた刀剣を想像してみるが、まさに想像を絶するような不意気なものが頭に浮かび、思わず顔をしかめてしまう。それに比べ、この小刀はなんと高尚で気高い気品を感じさせることか。

 あの甲斐性なしの刀鍛冶に、同じ刀匠として一度お目にかかってみたいと言わしめる才能に自分も触れてみたいと、クロエはそう思った。


「都へ行けば、私でも会えるだろうか」

「ウーノにですか? そう、ですね」


 刃を鞘に納めながら、ロランは言葉を選ぶように少しだけ口ごもった。


「王妃の魔手から都を取り戻し、宮城を陥落させた暁には対顔が叶うかと思います」

「……最初に話を聞いていたときから不思議に思っていたんだけど」


 話題に上るのは王妃のことばかりで、国主であるはずの王はまるで蚊帳の外だ。旅路の途中では国王の病について噂する民の声を耳にしているが、横暴の限りを尽くす王妃を諌めることさえできないのはなぜなのか。なぜ王妃の自由を許しているのかが、甚だ疑問なのだ。


「タイも言っていたけど、王妃が狼藉を働いている間、王は何をしていた? 病で床に臥せているということは理解している。でも、王妃を抗弁する程度のことは可能だったはずだ」

「それは……」

「私は比較的抗争の少ない区域の村や町にしか立ち寄らないけど、民草の多くが王は既に死んでいるのではないかと噂している。ここに来てロランの話を聞いていると、私も実際はそうなのではないかと思ってしまうんだ」

「それは違います――!」


 クロエが言い終えるより前に、ロランが語気を強くさせて言葉を遮った。すると、自分の声の大きさに一驚するが、もう一度「違うのです」と意気粗相したように繰り返す。


「父は生きています。父自身は死んだ方が良いと思っているのでしょうが、それでも生きているのです」


 そう言って俯いた顔には悲痛な表情が浮かぶ。

 セラトラとの会話の最中に、ロランが一度だけ父親のことを口走ったことがあった。そのことをセラトラは言及しなかったが、代わりに王家の諍いとはおぞましいものだと言ったことをクロエは思い出す。


「僕は、父が哀れでなりません」


 絞り出すように紡がれたそのロランの声は、微かに震えていた。

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