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それからの数日間、ロランは沈んだ様子で客間に半ば引きこもり、食事以外の時間は日がな物思いに耽っているようになった。クロエとセラトラは指し示したようにあえて触れることはせず、できるかぎりそっとしておくよう努めていた。
恐らく今は考える時間が必要なのだ。宮城の外に出て、改めて自らの立場や状況を鑑みる機会を得ることができたと思えば、幾分は心の重荷も取り除かれるだろう。
「やはり若いと回復力が違うな」
クロエの肩にある傷の状態を確かめながらネグロが言った。
犬狼の鋭い爪で抉られた傷は既に肉が盛り上がり、吊れるような感覚がある以外はあまり痛みもなく、順調に回復へと向かっていた。
「若いって、ネグロだって私とたいして変わらないように見えるけど」
「俺はどちらかといえばクロエの叔父上殿やタルヴォの旦那と同じくらいだ」
セラトラやタルヴォの年齢がいまいち分からず眉を顰めるクロエを見て、ネグロは苦笑いを浮かべた。
「俺とお前では十は違う」
「そんなにか?」
そう言って心底驚いているクロエを見て、ネグロはくつくつと笑い声を漏らした。目を丸くするクロエの肩に新しい包帯を巻きながら口を開く。
「お前はそういうことに本当に頓着がないんだな」
「失礼だな。年長者を敬う気持ちはある」
「そんな的外れなことばかりを言っているから行き遅れるのか」
「大きなお世話だ」
「いっそ俺がもらってやろうか?」
「ネグロが?」
包帯を巻き終え、手の動きを止めたネグロの顔をクロエは肩越しに見上げた。
すると、いやに真剣みを帯びた眼差しに熱っぽく見つめられ、クロエは意表を突かれる。草の香りが染み付いた緑の手に首筋を誘惑するように撫でられ、背筋がぞくぞくと震えた。
これはいつもの冗談だと思うことにしたクロエは、やはりいつものようにその手を軽く振り払った。
「自分より弱い男は願い下げだといつも言っていたはずだけど」
「弱い男は弱いなりに知恵を持っている」
軽くあしらわれたネグロは複雑そうに微笑み、衣服を改めているクロエから離れて立った。
「俺となら、もし結婚をしてもこれまで通りに旅が続けられる。お望みとあれば同行しても構わないが、普段は俺が家を守り、お前の帰りを待とう。それに、怪我の絶えない妻の傷を癒してやることもできる。おまけに家事も全部引き受けるぞ。どうだ、こんな男はどこを探しても他にはいないだろう?」
「確かに魅力的な好条件ではあるな」
「だったら――」
「でも、私は父を見つけるまで誰とも一緒になるつもりはないよ」
そう言って肩を竦めるクロエは、自らに向けられた好意的な感情を打ち消そうとするように、無慈悲な言葉を突きつけた。悪意がないだけ余計に残酷な響きを帯びていても、クロエはいつも無自覚だった。
「それに、ネグロには私なんかよりもっと良い相手が見つかるはずだ」
「そうは思えないがな」
「……ネグロ、頼むから困らせないでくれ」
尚も食い下がろうとするような物言いにクロエが困惑を露にすると、ネグロはその場で両手を掲げて降参の意を表した。その顔は平然を装っているが、物悲しそうにも見えた。
「すまなかった。望みがないことは承知している。もう二度と口にしないと誓うから、そんな顔をしないでくれ」
俺たちはこれからも良い友人だと言い、ネグロはクロエを置いて隣の部屋に姿を消した。
クロエはその背中を追いかけようとしたが、椅子から立ち上がろうとしたところで思い留まった。モウラも誰かと一緒にさせたがっていたことを思い出したのだ。自らがそのような年齢に差し掛かっていることは理解していても、やはりクロエには興味がわかないのだった。
「……おかしいのは私か」
里に住む若い女たちは、ほとんどの者が結婚しているか、早くそうなることを望んでいる。子供を産み、母親になりたがっているのだ。そうすることが一族の繁栄に繋がると信じている。
だが、生き残った少数部族の末路など見え透いたものだろう。数は増えるどころか減る一方だ。いずれ滅びる運命ならば、子を生すことに何の意味があるというのだ。自らの血を後世へ残すことに何の必要性も感じていないクロエにとって、男との契りなど結ぶ価値もないものだった。
「クロエ、ちょっと来てくれ」
椅子に座ったまま考え込んでいたクロエの耳に、隣の部屋にいるネグロの声が飛び込んできた。
「なに?」
「これを見てくれ」
腰をあげて隣の部屋を覗き込むと、机の上に並べられていた何らかの一式が目に入った。一見するだけでは何かを包んでいる油紙としか見受けられないが、先日同じものを受け取っていたクロエには、それらが薬の類いであるということがすぐに分かった。
「旅で必要になりそうなものを揃えておいた。ふたり分だからな、いつもより少々かさばるが、持っていって邪魔になるようなことはない」
先ほどまでのやりとりなどなかったかのように、ネグロの態度は普段通りだった。何となく拍子抜けしてしまいそうになっていると、ネグロは胸の前に腕を組んで呆れたようにクロエを見下ろした。
「お望みとあればもう一度口説いてやっても構わないが?」
「あ、いや、すまない。遠慮しておく」
ネグロの気遣いを無下にしてしまったことに気がつき、クロエは慌てて首を横に振った。
何か別のことを考えようと油紙の包みをひとつずつ手に取り、匂いで効能を嗅ぎ分けていく。それを聞いていたネグロは、半分呆れながらも感嘆の声を漏らした。
「相変わらず鼻が利くな」
「薬草のことは子供の頃から父やセラトラに教えられていたから」
不思議なもので、父親の記憶は少しずつ薄れてきていても、その教えや言葉は鮮明だった。何度も何度も繰り返し思い出していた影響で、別の記憶として脳に刻み込まれているのかもしれない。
何かにつけて思い出されるのは、父の受け売りだということはままある話だった。
「薬については心配なさそうだな。他にも必要なものがあればいってくれ、できるかぎり用意しよう」
「ありがとう。後でロランにも聞いてみる」
クロエがそうしてロランの名前を口にすると、途端にネグロの表情が変わった。
「ロランといえば、今日はどんな様子だ? 包帯を取り替えに行っても、あれからずっと言葉少なだが」
「今日も同じだよ」
今朝も食事の時間になると居間に現れたが、その後は部屋に戻って以降物音ひとつ聞こえてこない。話しかければ一言二言は返ってくるが、案の定会話は長続きしなかった。
「あの様子では国王のことが気がかりなのだろうな」
「それだけとはかぎらない。一応は王子なのだし、国の行く末や臣民のことについても思うところがあるんじゃないか?」
これまで生きてきた二十年近くの時を、自分は何も知らずに生きてきたのだということを心から嘆いている様子だった。いくら末端の王子と呼ばれようとも、国民にしてみれば知ったことではない。知らなかったでは済まされないようなことも、これまでに多々あったはずなのだ。国民を憂い、現状を嘆いているだけでは何も変わらず、変えられもしない。自ら足を踏み出さなくては、そのまま老いて死んでいく末路が待っているだけだ。そんなつまらない人生を送るくらいならば、生まれてこなかった方がましだとクロエは思う。
何かを変えたければ、まずは自分がかわるしかないのだ。
「まあ、今の状態では三下も良いところだけど」
「お前な……」
「でも、ただの考えなしじゃないだけましだ」
「ああ、そうか。お前は確か優柔不断な野郎が大嫌いなんだったな」
「自分がどうしたいのかも分からないようなやつと過ごす時間が、無駄だと思うだけだよ」
「同じことだろうが」
どこか気まずい雰囲気が続いていたが、ネグロがいつものように笑ってくれたことで、クロエは密かに安堵していた。傷つけてしまったのではないかと心配していたが、それも自分の思い込みだろうと結論付ける。
「では、私は行くよ。セラトラが帰ってくる前に食事の支度をしないといけないんだ」
「いないことの方が多いんだ、少しくらい孝行しないとな」
持たせてくれた薬の礼を述べ、クロエは小屋の外に出た。すると、丁度入れ違いにタイがやって来るところだった。
あの日、家に帰ってから何とか養い親と話をつけたらしいタイは、翌日の早朝からタルヴォにしごかれている。今日もみっちりしごきを受けてきた後のようで、その足取りにはいつものような身軽さがない。
「あ、やあ、クロエ」
隠しきれない疲労が色濃く残る顔で、クロエを見つけたタイが言った。小走りで目の前までやって来たかと思うと、ほら、と手の平を見せてくる。
「薪割りのしすぎで両手がタコだらけだよ」
「薪割り?」
「お前は体力からして並以下なんだから、まずは薪割りでもしてろってさ。おかげでこの冬中使っても余るくらい割ったから、後でクロエのところにも持っていくね」
「ありがとう、助かるよ」
疲れている様子ではあるが、それを嫌がっている風はない。何だかんだと言いながらも上手くやっているのだろう。お前は俺の弟子の分際で、息子に余計な発破をかけてくれるなと怒鳴り込んできたタルヴォの姿は、クロエの記憶に新しかった。
「ネグロに用事か?」
「うん、これを読んでてちょっと分からない部分があって」
これと言って顔の前に掲げたのは、クロエが持ち帰った例の本だった。
「これ、本当に面白いよ。クロエは読んでみた?」
「少しだけね」
「僕、ずっと大切にするからね」
勉強熱心な弟分は心地の良い疲労感を引きずりながら、本を胸の前で大事そうに抱え、ネグロのいる小屋のなかに入っていった。朝から晩まで忙しくしているようだが、それはタイの人生にとって最も充実している瞬間のひとつに違いない。このように閉鎖された部落では、生き甲斐を見つけることさえ難しいものだ。
「若いな、少年」
この時代、生きていることを幸運だと思えることは希だ。人間や生き物の住み得る土地はますます痩せ、穢れも広がっている。清浄な大地を求めて人が集えば新たな争いが起き、大地はそれによって更なる減少の一途を辿る。幸か不幸か人類もその数を減らしているのだ。この森の水はまだ穢れを知らないが、それは犬狼たちが山々を守っているからに他ならないのだ。これは共存ではない。人間側が生かされているということを、多くの人々は忘れてしまっている。
かつての文明時代はもはや神話のように伝承されているだけだ。その名残は巨大な共和国や帝国にだけ微かに残され、下々の者たちにはもはや知る由もない遥か過去の栄華だった。
「ただいま」
そう言いながらクロエが家に戻ると、居間の椅子にはロランが座っていた。いつものように窓の外をじっと眺めていたが、帰宅を知らせる声を聞いて振り返る。
「あ、おかえりなさい」
ぼんやりと焦点の定まらない眼差しだったかと思えば、何度か瞬いてクロエの存在を認めると、少し慌てたようにそう口にした。
「セラトラさんがつい先ほど戻られて、今日の昼食はふたりだけで食べるようにと仰っていました。ご自身は他の方々と寄合所でいただくそうです」
「分かった。すまない、伝言係のようなことをさせてしまって」
「僕の方こそ、ここのところ何をしても上の空で申し訳ありませんでした」
そう言って椅子から立ち上がり、ロランはクロエに向かって頭を下げた。
自分がどのような状態であったかを自覚していたと分かるその発言に、クロエは意に介さず肩を竦めた。
「私なら別に何とも思っていないよ。ただ、セラトラは心配していたみたいだから、謝るなら彼に――」
クロエがそこまで口にしたところで、ロランは思わずというように笑みをこぼした。窓から差し込む逆光のなかで微笑む姿が、なぜか眩しく感じられる。
「何かおかしいか?」
「いいえ、何も。ですが、セラトラさんにも同じことを言われたものですから。謝るならばクロエに、と」
おふたりは良く似ていらっしゃいますね、と言ってロランは更に笑みを深くさせた。その表情からは何かが吹っ切れたような、晴々とした印象を覚える。
「……何だか気分が良さそうだな」
嫌味ではなく本心からクロエがそう問うと、今度はロランが俗っぽく肩を竦めて見せた。
「こちらへ来て僕が教わったことの多くを、叔父や兄は既に承知していたはずです。ふたりでさえ解決に導くことのできなかった問題について、僕があれこれと考えても仕方がないのだと思い至りました」
ただの考えなしよりは良いと言ったすぐ後には聞きたくなかった言葉だ。クロエがそう思っていると、ロランはすぐにそれに続く言葉を口にした。
「クロエ、僕はすぐにもここを発とうと思います」
「……何だって?」
妙に決意に満ち満ちた顔で何を言い出すのだと、クロエは間の抜けた声を出してしまう。
「怪我の具合はもう大分良いですし、元より完治を待っている時間はありません。こうしている今も、叔父たちは僕の行方を探してくれているはずです。それに、あの首飾りを少しでも早く叔父の手元に届けなければならないのです」
「ここを発つと言っても、まだ準備しなければならないことが山のように残っている。それが済んでからじゃないと出発は無理だ」
「準備ならそうかかりません、僕の荷物などたかが知れていますから」
「ロランの荷が問題なんじゃない。旅の間の食糧はどうする? 旅に必要な道具や薬、それに、まさか丸腰で出ていくつもりか? その体で、馬もないのに都までたどり着けると思うか?」
これだから世間知らずの王子様はと罵りたくなる気持ちを抑え、クロエは坦々と諭すように言う。
「万全な状態でも何が起こるか分からない、それが旅だ。出立したその日に大怪我を負って命を落とすことだってある。ただでさえ本格的な冬が近いんだ、準備はより入念にしないと都へたどり着く前に凍死するぞ」
見る見るうちに決意に満ちた表情を曇らせていく様を見せつけられながら、クロエは大きくため息を吐いた。
「ロランの気持ちは良く分かる。気が逸るのは私も一緒だ。でも、本調子じゃない今の状態では自分の身はどうにかできても、ロランを守ることができるかどうかはまでは明言できない」
ロランはクロエの言い分を聞いて黙り込み、まるで意気消沈したようにどっかりと椅子に座り込んでしまった。
自らの軽率すぎる発言に少しは幻滅すれば良いと思いながら、クロエは昼食の支度に取りかかる。それでも多少は気がかりで、こっそり背後を振り返るとロランの様子を盗み見る。
せっかく決意を固めたところだったというのに、出鼻を挫くような真似をしてしまった。また部屋へこもるようにならなければ良いがと一抹の不安を抱きながら、もう一度大きなため息を吐かずにはいられなかった。
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