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薬の味に酔うというのも妙な話ではあるが、ロランは小瓶を煽って間もなくすると気分が悪そうに顔面を蒼白にさせた。良薬口に苦しとは言ったものだが、ネグロの薬は良く効く代償として、味が頗る悪いのだった。
ロランに肩を貸してやり、そのまま客間に連れていったネグロは傷口の布を新しいものに取り替えてやると、既に冷めてしまっているお茶を一気に飲み干してから小屋に帰っていった。
タイは外泊することがそれほどまでに嬉しいのか、僅かに興奮した様子で目を爛々と輝かせていた。
「明日になったら大人しく家に帰るんだからな」
「分かってるって」
本当に分かっているのかも怪しい感じがしてクロエが睨むと、タイははぐらかすように新しいお茶を入れると言って席を立った。
クロエが里を離れている間に、タイとタルヴォの関係に微妙な変化が現れていることは間違いない。タイは親離れするときであると自覚し始めているが、タルヴォが子離れできずにいるという状態が現状だろうとクロエは考えていた。もう大人だと主張するタイに対して、お前はまだまだ未熟だと頑なに認めようとしないタルヴォとの言い争いが目に浮かぶようだった。
「タルヴォとはどうなんだ?」
セラトラならばもっと上手く聞き出すことができるのだろうが、口下手なクロエにはとても難しいことだった。遠回しな物言いはせず単刀直入に問うと、タイは湯を沸かした茶釜を片手に、調子外れの声をあげた。
動揺したようなその声色を耳にして、クロエは更に踏み込んだ。
「上手くいってないのか?」
「そんなことはないけど」
タイはそうして否定するものの、僅かに声が低くなる。クロエにはそれが本心を押し隠そうとしているように感じられ、少しだけ間を置くとタイに考える時間を与えることにした。
茶釜を手に戻ってきたタイは茶出しに湯を注ぎながら、ぶすっとした表情を浮かべて言った。
「あのね、タルヴォは僕に自分みたいな、立派なシャラ族の戦士になってもらいたくて仕方がないんだよ。僕はそんなことちっとも望んでなんかいないのに」
「そう思ってることは伝えたのか?」
「もちろん。僕は武術に向いていないんだ。他の人たちみたいに体力も続かないし、いくら鍛えたって筋肉も育たないんだから」
「タルヴォは、タイが不真面目になったのはネグロがこの里にやって来てからだと言ってたけど」
「そんなの嘘だよ」
どん、と鉄の茶釜が鍋敷きの上に置かれた。
「タルヴォはネグロのことが気に入らないから、僕が自分の言いなりにならない理由を無理矢理押し付けようとしてるだけさ」
本人の言う通り、成長しているとはいえタイの体は他の男たちに比べて非常に小柄で、細身であることは確かだ。しかし、体術の得手不得手は体の大きさや筋肉量で決まるというものではない。タイ自身もそれは理解しているはずだ。それでも自分には向いていないと言うからには、それなりの理屈があるのだろう。
「薬師になりたいって思ったのは?」
「それは、ネグロがここに来てからだけど……」
茶出しから碗に琥珀色の液体を注ぎながら、タイはばつが悪そうに口籠る。それでもクロエが続きを待っていると、隣の椅子に腰を下ろしながら「ええと」と口を開いた。
「タルヴォとモウラには本当に感謝してるんだよ? 産まれたばかりのみなしごだった僕を引き取って、本当の息子みたいに育ててくれた。でもね、だからこそ僕は何となくふたりの期待を裏切らないようにって、多分そんな風に思って暮らしてきたんだ」
「うん」
「ほら、僕の死んだ父さんとタルヴォは、あまり仲の良い兄弟ではなかったらしいしね。最近は僕が父さんに良く似てきたってモウラが言うんだ。タルヴォはそれも気に入らないんじゃないかな。父さんがどんな人だったかを聞いても話してくれたことはないし、必ず機嫌が悪くなるから」
まだ幼かったクロエには大人たちの人間関係を察知できるだけの能力はなかったが、思い返してみれば兄弟ふたりが一緒にいるところを見たことはなかったように思う。子どもの頃の記憶など酷く曖昧で不確実だが、ふたりの間に存在していた隔たりのようなものは確かに感じ取れていた。とはいえ、クロエはタイの両親を正確に記憶しているわけではない。
「セラトラが言うには、僕の父さんは一族でも一、二を争う学者肌だったんだって。だから僕は父さんに似たんだろうって」
「そういえば、タイは字を覚えるのも早かったからな」
「クロエは良く教えてくれたよね」
にっこりと笑いかけてくる弟分に微笑み返しながら、クロエは当時のことを懐かしく思った。
紙や墨というものは貴重で高価なものだ。手元にあったところで、子どもたちに使わせてもらえるはずもない。だから木の枝を片手に、地面に書いては足で消し、何度も練習をしたものだった。
「最初はタルヴォに言われるがまま、毎日毎日鍛練を続けてた。でも、何年続けてもまるで成長しない僕にとうとうタルヴォが怒ってしまって、一度本気で怒鳴り付けられたことがあるんだ。それで隠れてべそをかいていたら、セラトラに見つかってしまってね。事情を話したら、無理をして言いなりになるというのは間違っていると思う、この先も永遠にタルヴォに言われるがまま生きていくつもりかって言われて、考えたんだ。僕が本当にやりたいことはなんなんだろうって」
「そこにネグロが現れたのか」
「実際にはもう少しあとのことだけどね。だけど、ネグロが来てくれたおかげで道が開けたのは本当だよ。僕は、ネグロのような腕の良い薬師になりたい。そして、世界を旅して回りたいんだ、クロエみたいに」
うん、うんと話を聞いていたクロエだったが、思いもよらないタイの告白を聞いてむせ返った。げほん、げほんと咳き込むクロエの背中を少し乱暴に撫でながら、タイは照れ隠しをするように微かにはにかんだ。
「旅から戻ってくると、クロエはいつも外での話を聞かせてくれるでしょう? それを聞いていたら、僕もいつか自分の目でその景色を見てみたいって思うようになったんだ。クロエは旅先で人助けをしたり、傭兵をして路銀を稼ぐって言うけど、それは僕には無理だからさ。薬師になれば怪我をした人を治療したり、薬を売ったりしてお金を稼げると思うから」
まさか、タイがそこまでのことを考えていたとは思いも寄らなかった。クロエは落ち着きを取り戻したあとも、暫くは感慨に浸り口を利くことができなかった。
だが、タイはその沈黙を悪いほうに解釈したようだ。流暢に己の希望を語り、熱意に満ちていた表情は影を潜めている。不安そうな顔でクロエの横顔を覗き込んでいた。
「……やっぱり、クロエは反対?」
「え? ああ、いや」
クロエはどう言ったものかと思いながら、困ったように後ろ頭を掻いた。
「私は私で好きにやらせてもらっているわけだから、タイのことをとやかく言う権利はないよ」
「良いか悪いかで言うと、どっちなの?」
その真剣な面差しを目の当たりにして、クロエは自分が十五歳の頃のことを思い出していた。十三歳になり成人を迎えたクロエはその日のうちに、父を探す旅に出たいのだとセラトラに申し出たのだ。
セラトラは反対しなかった。クロエがその日のうちにそう言い出すことを分かっていたのだろう。しかし、すぐに旅立たせてはくれなかった。
『十五歳になるまで待ちなさい。あと二年待って、それでも今と同じ気持ちでいたならば、世界中のどこへでも好きに行けば良い』
クロエはセラトラに言われた通り二年待った。そして、旅に出たのだ。
「本当に世界を見て回りたいと思うのなら、そうすればいい。そのために薬師になる必要があるのなら、その道を極めれば良いだけの話だ。自分の望みを叶えるために、誰かの意見なんて聞く必要はないんだよ。行きたければ行けば良い。理由は自分の中にだけあれば良いものであって、他人に求めるものではないんだから」
「それはクロエの持論?」
「まあね。だけど、これは今だから言えることだよ。本当は旅に出ることが不安で仕方なかった。私は里のみんなを好きだったし、遊牧の生活を懐かしく思いながらも、ここでの生活だって気に入っていたから。それなりに離れ難かったんだ。多分セラトラにはそんな本心がお見通しで、私が心の準備を整えられるように二年という猶予をくれたんだと思う」
「二年?」
「女は十三で成人だろう? 私はその年に旅に出るつもりでいた。だけど、セラトラがあと二年は待つようにと言ってね。あと二年待って、それでも行きたければ世界中のどこへでも行けと言ってくれた。セラトラは一度も駄目だとは言わなかったよ」
旅立ちの日、それは根雪も溶けた春のことだった。
セラトラはクロエを見送ることもせず、いつもと変わらない日常を過ごしていた。里の者たちにも、このときはタイにさえ気づかれることなく出ていったクロエは、引き留めてくれたら良いのにという物悲しさを感じ、後ろ髪を引かれる思いでいたことを覚えている。
「私も駄目だとは言わない。行きたければ、世界中のどこへでも行けば良い。ただし、外の世界はタイが思っている以上に危険なところだ。自分の力だけが頼りになる。だから、タイが本当に嫌だと思っていても、今はタルヴォに訓練をつけてもらった方が私は良いと思う」
「だけど、今更また教えてほしいなんて言えないよ」
「そうか? タルヴォなら両手を挙げて喜びそうなものだけど」
クロエがそう言うとタイは顰め面を浮かべ、肩を落とした。
「あーあ、セラトラが教えてくれたらな」
「……それは無理だし、もし許されたとしてもセラトラだけはやめておいた方が良い」
タルヴォのやり方で音を上げてべそをかいているような者が、セラトラの修練に耐えられるはずがない。
一昔以上前のことを思い出してクロエが表情をひきつらせていると、タイは不思議そうに首を傾げた。
「セラトラに比べたら、タルヴォなんて優しいものだよ。あれは子どもが相手でも容赦がないから、泣こうが喚こうがその日の目標に到達するまで、何がなんでも休ませてはくれない。それこそ血へどを吐いたって表情ひとつ変えずにじっと見ているだけで、何もしてくれないんだ」
あの冷徹な眼差しは、普段のセラトラからは想像もできないほどだ。
タイの中でセラトラがどれほど美化されているかは知らないが、本気で教えを乞うつもりなら間違った幻想など早急に捨て去るべきだ。疲れたと言えば渋々ながらも休ませてくれるタルヴォに対し、セラトラは教えた動きを完璧に身につけるまでは足を止めることさえ許さないきらいがある。
「タイが本気なら私は応援する。だけど悪いことは言わないから、教えを受けるならタルヴォにしておくんだ。タルヴォは私にとっても良い師だし、タイやサカリにとっては良い父親だよ。ちゃんと話せば力になってくれるはずだ」
「そうかなぁ」
「理不尽なことを言われたと思ったら、いつもみたいに言い返してやれば良い。ただし、口に出す前に良く考えてみるんだ。本当に正しいのは自分なのか、相手なのか。タルヴォだって感情に任せたことばかり言ってるわけじゃない。さっきの評議会で見ていたから分かっているとは思うけど」
単純で自らの感情に正直な者ほど、実は多くの者から愛されている。時には頭に血が上り、本心とは正反対のことを口走ってしまうが、タルヴォはあとになって誰よりも反省をするはずだ。今頃はタイのいない家で、モウラやサカリに呆れられながら落ち込んでいることだろう。
「少なくともこれからあと一、二年はこの里で暮らして、力をつけると良いんじゃないかな。薬師の勉強も続けたら良い。世界を見て回るのは、それからでも遅くないと思うよ」
すべてにおいて納得というわけにはいかずとも、タイはクロエの考えをひとつの意見として聞き入れることにはしたようだった。
「ほら、そろそろ寝る時間だ」
このままではいつまでも眠ろうとせず、朝まで語り明かしそうなタイを部屋に押し込み、クロエはそこで休むようにと告げた。寝台に置いていた犬狼の毛皮を手に取り、そのまま部屋を後にしようとする。
「ちょっと待って、クロエはどこで寝るの?」
「私はこれさえあればどこででも寝られるから平気だよ」
クロエは手にしていた毛皮を少しだけ掲げた。
「いいよ。僕は床で寝るし、クロエが寝台を使いなよ」
「どうかな、タイは鼾がうるさいから」
「僕は鼾なんてかかないよ!」
その過剰な反応にクロエはくすくすと笑い、タイはむっとして唇を尖らせる。
「私はやることが残ってるから、気にするな」
クロエはそう言いながら、子どもの頃良くそうしていたようにタイの頭を掻き撫でた。すると、タイはそれを煩わしそうに睨み付ける。
「寝坊するなよ」
「もう! そうやって子ども扱いする!」
そうしてからかうのを楽しんでいると、タイは腹立たしげな様子でクロエの背を押し、部屋から追い出そうとした。それさえ面白くて笑えば、次第にタイの力が抜けていき、クロエが部屋を出たところで押すのをやめる。
「おやすみ、タイ」
「……おやすみ、なさい」
しかし、その挨拶を聞いたクロエが戸を閉めようとすると、タイの手がそれを阻止した。俯くタイを見下ろして小首を傾げていると、何やらもごもごと言う声が聞こえてくる。
「何か言ったか?」
「――話、聞いてくれてありがとうって言ったの!」
突然の大声に、寝ているふたりが起きたらどうするのだとクロエは思った。しかし、タイはそう言うが早いか戸を閉じて部屋にこもってしまう。
居間にひとり残されたクロエの耳には、火の消えかけた薪がぱちんと爆ぜる音だけが聞こえていた。
このまま数年が過ぎてタイが自分の助言を必要としなくなる日がきても、その照れ屋なところはいつまでも変わらないでいてほしいと、クロエは口許をほころばせながら思っていた。
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