-8-
クロエにとって、今日は長い長い一日だった。
それどころか、この里に戻って未だ数日しか経過していないという現実に驚きを隠せずにいる。疲れた心と体を癒しに戻ったはずが、なぜか心労は募るばかりだ。新事実が次々と発覚し、理解に感情が追いついてこない。今の自分は嬉しいのか悲しいのか、怒っているのか恐れているのか、クロエにはそれさえも分かってはいなかった。
ただ、目が冴えている。
今夜は眠れそうにもないとクロエは思っていた。
暖炉の炎が消えて暫く経ち、部屋は徐々に冷えはじめていた。毛皮を被ったクロエは、洋灯の明かりを頼りに小刀の手入れをしていた。犬狼との戦闘の後で手入れを怠ってしまったため、赤黒く固まった血痕がこびりついていたのだ。
別の小刀を使ってそれを削り落としながら、クロエは微かにこぼれている刃を眺めた。犬狼の亡骸から抜き取ったあとすぐに血を拭えば良かったのだが、そうするだけの余裕もなかったのだ。
その小刀は成人を迎えた祝いの品として、セラトラからクロエに贈られたものだった。刃には高価な玉鋼が用いられ、片刃には波のような模様が怪しく揺らめいているように見える。柄と鞘は真っ赤な漆喰で染められた、見るも美しい短剣だ。この五年間、研ぎや修繕を繰り返して肌身離さず携帯している物のひとつだった。
「……また叱られるな」
以前、とある要人を護衛したときのことだ。雨のなか馬上で槍を取り落としてしまったクロエは、咄嗟にこの小刀で身を守った。すると相手の振りかざした剣の衝撃に耐えきれず、小刀の刃が真っ二つに折れてしまったことがある。その時は紆余曲折あり辛うじて勝利することができたものの、折れてしまった小刀は元には戻らない。
どうしたものかとクロエが途方にくれていると、その要人が腕の立つ刀匠を知っているといって紹介してくれた。それはガイア帝国の都の外れに住んでいる大酒呑みで有名な甲斐性なしで、気に入った者にしか刀は打たず、修繕など以ての外だという気骨の持ち主だった。
更に紆余曲折があり、無事に修繕を引き受けてくれることになった刀匠だったが、クロエの小刀を見てすぐに険しい表情を浮かべた。今回は折れた刃同士を溶接して打ち直せるが、酷い刃こぼれでも起こされたら最後、後は自分の手には負えないだろうと刀匠が言った。
何やらその小刀を打つ技術というものが、限られた者にのみ伝承される複雑な技だとかで、その刀匠にも知り得ない技法なのだという。知り合いに同じものを打てる刀匠や刀鍛冶はおらず、本物を目にしたことも初めてに近いと話していた。というのも、以前見たものは刃全体がぼろぼろに欠けて、原型を留めてはいなかったというのだ。
自分には直せないと言い切った刀匠に、しかしクロエは何度もこの小刀を持ち込んでいる。他に腕の立つ刀匠を知らないし、彼ほど矜持の高い者もそうはいないと思い、その性格を逆手に取ったのだ。
嫌だ、駄目だと言いながらも、頼られてしまえば期待を裏切ることができない。何とか手を尽くそうとするのが、職人というものだろう。その刀匠も例に漏れず、クロエに向かって口汚く罵るような言葉を吐き出しながらも、幾度となく助力を尽くしてくれている。しまいには古い文献を探し出してきたかと思うと、玉鋼の打ち方を勉強し始める始末だ。
今回もどうやら助けを乞うことになりそうだと思いながら、クロエは研ぎ終えた刃を布で丁寧に拭った。紅石で装飾された鞘に刀身をしまい、小刀を机の上にそっと置く。
刀匠はこの小刀を見て、これは人を惑わす危うい代物だと言った。どこにも刀匠の名は刻まれていないが、名のある者の作品に違いないと確信めいた口調で語っていたのを覚えている。
ほう、とため息を吐いたクロエは、その小刀を視線に捉えたまま机に倒れ込んだ。まるで、生き血を吸ったかのようにぬらぬらとした光沢を放つ小刀は、確かに見る者を惑わそうとする妖艶さを感じさせた。
クロエはこの小刀に幾度となく命を救われている。だが、そのたびに紅が色を濃くしていくような錯覚がするのは、持ち主自身の罪悪感が影響しているからだろうか。それは自らの罪の色を表しているようにも感じられ、時に目にするのも嫌になる。
自分の命だけが特別なのではない。けれど、志半ばで死に絶えるのが許せないだけだとそれらしい言い訳をして、他者にその切っ先を向ける。この残酷な世界で生きていくためには仕方のないことなのだと言い聞かせて、その正当性に安堵したふりをしている。それが本当に正しいのか、あるいは誤りなのかも分からないままに。
その時、背後から小さな物音が聞こえ、クロエはゆっくりと頭をもたげた。肩越しに振り返ると、評議会以降開かずの間となっていた部屋の戸が開かれるところだった。暗がりの中からぬらりと現れたセラトラは、居間の椅子に座っているクロエを半開きの目で一瞥する。
眠っているのだろうと言ったタイの考えは正しかったようだ。後頭部には寝癖が跳ねている。セラトラが小さく「……水」と呟く声を聞いて、クロエはすぐに腰をあげた。土間の水瓶から水を汲んで持ってくると、それを差し出す。
「具合は?」
「気分は悪いが、具合は問題ないよ」
ありがとうと言って水を受け取り、セラトラは椅子に腰を下ろした。クロエは自分が被っていた毛皮をセラトラの肩に掛けてやると、机を挟んだ向かい側の椅子に座る。
ごくごくと喉を鳴らしながら水を飲み干したセラトラは茶碗を机に置くと、背凭れに体を預けて大きく息を吐き出した。
「他の子たちは?」
「ネグロは帰ったよ。タイは私の部屋、ロランは客間で寝てる」
「君は休まないのかい? 今日は疲れたろう?」
未だ眠気を引きずっているらしいセラトラが、ふわあ、と欠伸を漏らした。それを見ながら苦笑を浮かべたクロエは、小さく肩を竦める。
「目が冴えて眠れそうにないんだ」
「それで刀の手入れをしていたのか」
「刃こぼれを起こしてしまって」
「刃こぼれ?」
後ろ頭の寝癖を撫で付けてから、セラトラは目の前に置かれている小刀に手を伸ばした。刀身から鞘を外して刃を撫でるように触れ、目を細める。
「これで、あの犬狼を殺めたんだね」
別にあの犬狼だけではないと口走りそうになるが、クロエは寸前のところで言葉を飲み込んだ。
「苦しまなかっただけ良かった」
しかし、セラトラもそれ以上は何も言わず刀身を鞘に納めた。クロエは手を出してその小刀を受け取りながら、セラトラの表情を盗み見る。評議会の時に感じていた顔色の悪さは、少し眠ったことでいくらか解消されたようだった。
「そうしてなまくらにしてしまっては、もう使い物にならないだろう?」
「いや、ガイア帝国の都に腕の立つ刀匠がいるんだ。その人に鍛え直してもらえるから心配ない」
「それを?」
セラトラは純粋に驚いたという顔をしている。
「その男は、この小刀を鍛えた人物は名のある刀匠だろうと言うんだけど、セラトラは誰が作ったものか知っている?」
「ああ、知っているよ」
セラトラはいとも容易く肯定した。
「でも、今は会えるかどうか分からないな。一応生きているとは思うけれど」
「……どういうこと?」
「鍛冶屋としての腕を見込まれて、サルザ王家お抱えの刀匠に召し上げられたと聞いている。だから、私よりも殿下にお聞きした方がいいのではないかな。名前はウーノだ」
「セラトラは知り合いなの?」
「顔見知り程度だよ。クロエの成人祝いにそれを鍛えてもらってからは、もちろん一度も会っていない」
様々に転がっていた事柄がすべて一所に繋がっていく。クロエは多くの人間が創造するところの神というものを信じてはいないが、これらを偶然と呼ぶにはあまりにできすぎていると思わずにはいられない。再びぞくぞくとした悪寒が全身を駆け巡る感覚にクロエが体を震わせると、目敏いセラトラは席を立って暖炉に歩み寄った。
「またすぐ旅に出るつもりなら、風邪なんて引いている場合ではないだろう?」
まだセラトラの温もりが残る毛皮を被せられると、クロエはそれを突き返そうとすることなく、表情を隠すように俯いた。襟元で毛皮を掻き合わせて顔を埋めると、冷えた鼻の頭がそのあたたかさを強く感じた。
「……イトゥカという人のこと、聞いても良い?」
くぐもった声が考えるより先に口を切る。暖炉に火を入れて戻ってきたセラトラは無表情を崩さなかったが、それが逆に不自然であることは自分でも分かっているはずだった。
「セラトラの恋人だったの?」
「従妹だよ」
「従妹?」
「母方の叔母の子だった。恋人だったかは、どうかな」
「だけど、タルヴォはセラトラがその人に指輪を贈ったって」
するとセラトラは一瞬、タルヴォを呪うのではないかと思うような厳つい面持ちを浮かべた。
「惚れた好いたと直接的な言葉で意思を確認し合ったことはない。母親同士が一緒にさせたがっていただけとも言える」
「それなら、どうして指輪を?」
クロエがそう問うと、セラトラは唇を引き結んで顰め面をした。答えたくないと思っていることは一目瞭然だった。しかし、上目遣いに見つめてくる姪の眼差しに耐えられなかったのか、諦めたように頭を振った。
「私には恋愛感情があった。彼女が私をどう思っていたかは、今となっては確認のしようもないけれど」
「確認ならできるじゃないか」
「今更そんなことをして何の意味がある?」
「意味は、その……」
あるのかもしれないし、ないのかもしれない。
むしろ、このまま死んだものと思い続けていた方が幸福だったのかもしれなかった。
愛した人が別の人と一緒になっている。クロエには想像もし得ない感情に心を揺さぶられ、打ちのめされているのだろうか。それとも、知らされた現実を受け入れたくないと思い、無関心を装っているのだろうか。
けれど、セラトラの場合はそのどれにも当てはまらないような気が、クロエにはしていた。言うならば諦めが最も近しい感情なのではないかと思う。
「君はルウが生きていると信じ続けていたね」
クロエがこくりと頷くのを見届けて、セラトラは気乗りのしない様子で先を続けた。
「でも、他の者たちは皆死んだと信じることにした。そう思っている方がずっと楽だと分かっているからだ。生きていることを信じれば、いつまでも帰りを待ち続けてしまうだろう。だが死んでいると思えば、帰りを待つ必要がない。いつか忘れて、その先もこれまで通りに生きていける」
「だけど、知らなかった頃にはもう戻れない」
「そうだね、それが厄介なところだ」
セラトラは曖昧に微笑むと、机に置いた茶碗の縁を指先でなぞりながら言った。
「そして生きているだろうと発覚した今、大きな疑問は沸かないかな。生きているのならば、なぜ彼らは戻ってきてはくれないのか。と言うのも、彼らにはここへ戻ってくるつもりも、理由もないんだ。彼らは、ここではない別の場所で自分の居場所を見つけたのだろうと、私は思う」
それはクロエも突き当たったばかりの疑問だった。
族長であった父のルウは、十五年前の公開処刑を何らかの事由で免れた。その後、ロランやその叔父と顔を合わせているのであれば、すぐ近くには存在していたはずなのだ。たった一通の手紙でも、たった一言の伝言でも残してくれたなら、クロエの生き方も変わっていたのかもしれない。
けれど、だからといってそう容易く諦められるほど、クロエの決意は生半可なものではなかった。それは、執着のようなものだった。
「彼らは私たちとは別の場所で生きていく道を選択した。誰もそれを咎めることはできない。誰もが彼らを死んだものと思ってきたのだからね」
「私は――」
「そう。クロエ、君以外は」
言いながら僅かに優しげな顔をしたセラトラは、指先に落としていた視線を上げてクロエを見つめた。
「私は君の言葉を信じてはいたけれど、本当はどちらでも構わなくなっていたんだ。生きていても死んでいても、目の届くところにいない者を思う気持ちに違いはない。いずこかの場所でもどうかつつがなくと、そう願うだけなのだから」
「ふたりが生きていると知って、嬉しくなかった?」
「嬉しかったよ、とてもね。でも、それは私の個人的な感情だ。私はふたりが今を幸せに生きているのなら、それでいいのだと思う。会いたいとも、無理に連れ戻したいとも思わない。十五年も経てば事情は変わる。お互いに昔のままというわけにはいかないんだ」
「それでも、私は……」
やはり会いたいと、クロエは思うのだ。
何の別れの言葉も交わせず、父親との絆を理不尽に引き裂かれてしまった少女の心は、今でもクロエのなかに住み着いている。精神的な外傷が感情に巣食って、まるで取り憑かれたようにそれ以外のことを考えられない日もあった。
時に解放されたいと思うこともあった。もう良いではないかと、耳元で何者かが囁くのだ。だが、そのたびに幼い頃のクロエが顔を覗かせ、邪な思考を払い除ける。一体これまで何のために生きてきたのだ、目的を果たせと指図をした。もう後戻りをすることができないところにまで、クロエは行き着いてしまっている。
葛藤し、動揺を隠せずにいるクロエを見て、セラトラは首を横に振った。
ふわりと微笑む顔がとても懐かしく感じられたのは、昔は良くその愛しげな眼差しをこちらに向けて、優しく頭を撫でてくれていたからだ。
「クロエはクロエのしたいようにすればいいんだ。言ったろう? 世界中のどこへでも好きに行けば良いと。その先でもし彼らに会うことがあれば、セラトラはまだしぶとく生きていると伝えてくれるだけで、私は満足だ」
何故だかは分からない。だが、クロエはその眼差しと言葉を受けて、急に大声を上げて泣き出したくなった。自らの意思には明らかに反している。下唇を噛み締め、どうにか感情を押さえつけていた。しかし、セラトラは今にも泣き出しそうな気配を察しているだろう。
「好きなところへ行き、好きなように生きなさい。私はここにいて、平穏な暮らしを送ろう」
その言葉を最後に席を立つと、まるで泣き顔を見まいとするようにセラトラは背を向ける。部屋へ向かう足を一瞬止めて振り返ろうとするが、口を利こうとする気配だけを残して戸の向こう側に姿を消してしまった。
クロエはその夜、父親の残した犬狼の毛皮に顔を埋めて、さめざめと泣いた。そしていつしか泣き疲れ、机に体を伏せたまま眠りの深淵へと下っていく。遠くで吠える犬狼の声を、子守唄の代わりにして。
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