-6-

 夕食の時間になっても、セラトラが部屋から出てくることはなかった。

 何度か呼び掛けてみたが部屋からは物音ひとつ聞こえず、ひっそりと静まり返っている。もう眠ってしまったのだろうから無理に起こす必要はないと言って、タイは空きっ腹を撫で擦っていた。


「クロエが戻ってからずっとばたばたしていたし、久しぶりにたくさん働いて疲れたんだよ、きっと」


 クロエは多少気がかりに思いながらも戸の前を離れた。タイとふたりで作った食事を運ぶために、土間に降りる。居間には机と椅子が戻り、評議会で敷いていた絨毯は丁寧に折り畳まれて既に物置の中だ。

 食事の支度をする傍らでは、ロランが何をすれば良いのか分からないという様子でおろおろとしていた。それを見かねたタイが食器を運ぶようにと仕事を与えると、言われるがままに黙々と役目をこなす。

 タイは妙に慎重な足取りで行き来している姿を暫く見守っていたが、ちょっと行ってくるね、と言うと玄関から駆け出していった。自らの小屋でやきもきしているだろうネグロを呼びに向かったのだろう。

 セラトラが起きてきた時のために、中身を少しだけ別の鍋に取り分けておく。それから、ぐつぐつと煮えている土鍋を抱えていくと、ロランは手にしていた鍋敷きを慌てた様子で机の中央に置いた。


「ありがとう」


 クロエは何の気なしに礼を述べ、鍋敷きの上に土鍋を置く。

 無造作に置かれている食器を各々の椅子の前に配置し、残った一揃いの食器を傍らに置いて椅子に腰を下ろすと、はじめてロランに目をやった。

 ロランは所在なく立ち尽くしたまま、困ったようにクロエを見ていた。


「そんなところに立ってないで座ったら?」


 クロエがそう言って向かい側の席を指すと、ロランはこくりと頷いてから椅子に座った。

 自分もさほど口数の多い方ではないが、この青年も存外寡黙な性質なのかもしれない。クロエは当たり障りのない話題はないかと考えながら、天井の梁を見上げていた。だが、ふたりの間に当たり障りのない話題などあるはずもなく、黙したまま苦笑を浮かべることしかできない。

 すると、その表情の変化を目の端に捉えたロランが、不可思議そうに首を傾げた。


「あ、あの、何か?」

「いや、何でもないんだ」


 クロエは首を横に振りながら、タイとネグロが早く戻ってくることだけを渇望する。けれど、その願いも虚しくふたりの姿は未だ現れそうになかった。

 諦めたように小さく息を吐いたクロエは机に頬杖をつくと、姿勢良く背筋を伸ばしているロランを斜めに見やった。きょとんとした微かに幼さの残る顔は、旅先で見かけるサルジの若者と何ら変わらない。


「今更だけど、ロランと呼んでも構わないか?」


 何を唐突に言い出すのかと思えば、そんなことかという顔でロランはほっと胸を撫で下ろしていた。


「この先短くない付き合いになりそうだから、お互いに呼び方は決めておかないと困る」

「困る?」

「いつまでも君とかお前とか、そんな風に呼ばれ続けていたら気分も悪くなるだろう?」


 クロエは至って真剣に言ったつもりだった。だが、ロランは不思議そうにして見せたあとで、くすりと笑い声を漏らす。


「何かおかしいか?」


 クロエが呆気にとられてそう訪ねると、今度はロランが首を横に振った。


「そのように呼ばれることには慣れていないので、とても新鮮でした」

「それはそうだろうな」

「あなたのことは何とお呼びすれば?」

「クロエで構わない。みんなそう呼んでいる」

「クロエ、さん」

「ただのクロエだ。さん、なんていう柄じゃない」

「では、クロエ」


 他者を名前で呼び捨てることなど珍しくもないだろうに、ロランは妙に照れ臭そうな顔でクロエの名を呼んだ。それを不可解に思い眉を顰めるが、問いかけようと口を開くより前に玄関の方が騒がしくなる。


「いいから、その話はまた後ですることにしよう」

「ちゃんと考えておいてよ?」

「ああ」


 意気揚々として目を輝かせているタイに対し、ネグロはややうんざり顔だ。椅子に座ったまま背凭れに腕をかけて振り返ったクロエは、ふたりの様子に小首を傾げた。


「遅かったな」

「お前たちの薬を煎じていたんだ」


 ネグロはそう言うと、中から瓶のぶつかり合う音が聞こえてくる巾着をクロエの顔の前に掲げた。苦く渋い味を思い出してクロエが顔を顰めると、ネグロはくつくつと笑ってから周囲に視線を走らせた。


「叔父上殿はどうした?」

「部屋にいるよ。呼んでも応えないから、眠っているんだと思う」

「いつからだ?」

「評議会が終わってすぐだよ」


 クロエの隣に座りながらタイが答えた。


「モウラの小言にうんざりしちゃったんじゃない?」


 それよりも早く食事にしようと机に身を乗り出したタイは、土鍋の蓋に手を伸ばした。それを素手で持ち上げようとするが、熱を持った蓋は無防備な指先を容易く遠ざける。あちち、と言いながら手を振ると、今度は自らの衣裳の袖を使って戦いを挑んだ。

 ネグロはむわりと立ち上った白い湯気の向こう側に腰を下ろすと、思わずというように鍋の中を覗き込んでいた。

 鍋の中は既にぐつぐつと煮えたぎってはいなかったが、絞めたばかりの鶏で出汁を取った光沢のある液体には、しんなりと火の通った野菜が規則正しく並べられている。人参、白菜、大根はまだ収穫時ではないものの、間引いたばかりの若く柔らかいものだ。米粉を出汁で捏ね、団子状にしたものが一角にぷかぷかと浮いている様子がどこか愛らしい。


「今日はいやに豪勢だな」

「怪我を早く治すためにはしっかり栄養を取らないとね」

「そんなことを言って、お前は自分が食べたいだけだろう?」

「だったらネグロは食べないで良いよ、僕たちだけで美味しくいただくから」

「俺がいつ食べないと言った?」


 タイとネグロが湯気越しに子供じみた言い争いをしているのを、ロランは唖然と見つめている。クロエはそれぞれに料理を取り分けてやりながら、呆れた笑みを浮かべていた。


「早く食べないと冷めてしまうよ」

「おっと、そうだ。ネグロになんて構っていられないや」


 クロエの一言で我に返ったタイはぺろりと舌舐めずりをすると、顔の前で両手を合わせて「ちょうだいします」と誰にともなく唱えた。すぐさま箸を手にし、まずは器の縁に口を寄せて味の良く出た汁を啜った。


「んー! おいしい!」

「それは良かった」


 タイに続いてクロエも両手を合わせると、囁くように頂戴いたします、と唱える。

 汁は野菜と鶏の旨味でほのかに甘く、塩味も程よく感じられた。表面がつるんとしている団子は噛み締めるほどにもっちりとしていて、とても楽しい食感だ。

 我ながら良い味付けだと自賛しているクロエの正面には、見よう見まねで両手を合わせ、郷に入っては郷に従うロランの姿があった。戸惑いがちに箸を手に取ると、器を持ち上げて湯気に顔を埋め、団子をゆっくりと口に運んでいる。最初は難しい顔で租借していたが、その表情が徐々に解れていく様を目の当たりにすると、クロエは少しだけ安心した。


「ロラン、どう? おいしい?」


 そう気安く尋ねたのは、もちろんタイだった。

 まるで緊張感のないその面持ちを見ていると、相手が十年来の友人か何かのように思えてしまうから不思議だ。タイの前には誰との間にも隔たりがなく、平等なのだった。


「はい、とてもおいしいです」

「クロエは見ての通りがさつなんだけど、どういうわけか料理は上手なんだよね」

「お褒めに預かり光栄だよ」


 一言多いとは言わず、クロエはタイの頭を軽く小突く。痛くもないのに痛がる振りをし、タイはクロエの手を払いのけた。


「良く噛むようにしろ、胃が受け付けないからな」

「はい」


 ネグロは相変わらず甲斐甲斐しく世話を焼きたがり、ロランはそれを嫌な顔ひとつせずに受け入れている。ネグロの世話好きも大概だが、ロランのお人好し加減も普通ではなさそうだ。


「でも、お城ではもっと豪華でおいしい食事が出るんでしょ?」

「食事は豪華でも、こんなにあたたかい料理が出てくることはありません」

「え、どうして?」

「王族には毒見役がついているからな、できたての料理が運ばれてくるなんていうことはまずないだろう」


 毒見役は大抵の場合奴隷がその任を務める。すべての皿から一口ずつ食し、体に異常が現れないことを確認してから食事が運ばれてくるのだ。


「ふうん、冷めた食事なんて味気ないね」

「毒殺されるよりはましだろうがな」

「それはそうだけどさ」


 もともこもないネグロの言葉に苦々しい顔をし、タイは器の中を空にすると次の一杯を山盛りに装った。

 当のロランは息を吹き掛けながら野菜を口に運び、夢中で食事を続けている。本当においしいと感じているのが分かるほど、その様子は真剣そのものだった。


「もう少し食べるか?」

「す、すみません」


 しずしずと差し出される器を受け取り、クロエが少し多めに具を盛ってやると、ロランは心なしか嬉しそうな表情を覗かせる。だが、病み上がり早々胃がそれを受け付けるはずもなく、器に盛られた食べ物は半分以上が残されていた。

 食事を終え、残りは朝になったら雑炊にしようと考えつつ後片付けをしていると、居間から薬を飲むようロランに迫っているネグロの声が聞こえてきた。腹が苦しくて無理だと言う声の後でため息が聞こえ、だったら腹が落ち着いたら飲むようにと妥協する気配に思わず失笑が漏れた。

 すると一瞬、まるでもう何年も前からこうしていたような錯覚を感じて、クロエは妙な胸騒ぎを覚える。その既視感はあっという間に消え去るが、ぞっとしたクロエの顔からは徐々に血の気が失われていく。


「クロエ、お前も薬を――」


 桶の中に手を入れたまま動かないクロエを見て、背後から近づいてきたネグロが口を噤んだ。はっと我に返ったクロエは、ああ、と頷いて見せる。


「あとで飲むよ。傷口にはタイに塗ってもらう」

「それは良いが、大丈夫か?」


 肩越しに振り返ると訝しげな視線とぶつかり、クロエは何でもない風を装って口角を持ち上げた。それを見たネグロは、どいつもこいつも、と呟きながら肩を落とす。


「ここには俺が求めている従順な患者はいないのか?」

「病人なんてものは得てして自分勝手なものだよ、ネグロ」

「知ったような口を利くな」


 そう言いながら傷に触れようとする素振りを見せたので、クロエはするりと身をかわすとネグロの後ろに回り込んだ。代わりにとんとんと肩を叩いてやれば、横目に睨み付けられる。吸い込まれそうな水色の目は細められ、酷く物言いたげだ。


「少し寝不足なだけだ。今日は早く休むようにするよ」


 そう言いながらクロエが居間に戻ると、タイがロランの隣に座って何やら質問攻めにしていた。少年は外の世界に興味津々で、青年はその期待に応えようとひたむきな様子だった。


「タイ、ロランは病み上がりなんだからほどほどにな」

「言われなくても分かってるよ」


 話に水をさされたタイは、クロエを見上げてむっとした面持ちになる。それを見たロランはふたりの顔を見比べながら口を開いた。


「僕でしたら大丈夫です。それに、いつまでも横になっているわけにはいきませんから」

「それでも無理は禁物だ」


 クロエはお茶を淹れてやるようにとタイに言いつけると、自分は客間の状態を確かめに向かった。

 セラトラが掃除を怠るはずもなく、ひとつだけある客間は綺麗に保たれていた。寝台には埃避けのために大きな布がかけられ、その他に余計な家具は備え付けられていない。寝台の布を取り去ったクロエは清潔な敷布を敷き直し、羊毛の毛布と羽毛の布団を足元に整えておいた。


「ほら、クロエの分も淹れておいたよ」

「ありがとう。ついでに客間の暖炉に火を入れてきてくれないか?」

「ええっ、そんなのついででも何でもないよ!」

「頼むよ」

「もう、面倒臭いなぁ……」


 タイは腰を下ろしたばかりの椅子から立ち上がると、ぶつぶつと文句を垂れながら客間に入っていった。クロエはその背中を見送りながら席につき、無意識のうちにため息を吐く。それが隣に座っていたネグロの表情をつぶさに変化させるので、クロエはしまったと思った。


「……ネグロはまだ帰らないのか?」

「お前たちが約束通りに薬を飲めば、大人しく帰ることにしよう」


 不敵な笑みを浮かべる目の奥には本気の色が窺え、ここは素直に従っておいた方が得策だと感じる。

 クロエが諦めて嫌々ながら手を差し出すと、ネグロはその手の平に薬入りの小瓶を押し付けた。同時に、ロランにも同じような濃い草色の薬が詰められている小瓶が手渡される。

 それらの小瓶は油紙で蓋がされていた。クロエはそれをむしるように取り外し、小瓶をロランに向かって掲げる。するとロランも油紙を丁寧に外し、同じように掲げた。そして、かちんと小瓶のぶつかり合う音が響いた次の瞬間、ふたりは口に運んだ小瓶を勢い良く煽る。ぎゅっと顰められた顔にはまるで、度の強い酒を飲んだあとのような厳しさが表れていた。

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