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「だがな、この世は信じるだけ馬鹿を見るようにできてるんだ。甘い言葉に騙されて、いつも痛い目を見るのが俺たちなんだよ。だからこそ幻想なんてもんは捨てちまって、人を疑って生きていくしかねぇんだ。俺たちは何処に行ったって最後には騙され、裏切られる。だからこうやって人里離れた場所を選んで暮らしてるんじゃねぇか。お前は外の世界を知らねぇから仕方ないのかもしれんが」
タルヴォは言い終えると頭を掻きむしり、憤りを吐き出すように言葉にならない声を発した。
突然の大声にロランは肩を震わせたが、今は口を開くときではないと自覚しているようだ。その目は真摯にタルヴォへと向けられている。
「俺たちシャラの一族は、過去に何度もサルジの野郎共を信じようとしてきた。だが、やつらはそのたびに俺たちを裏切った。何度も、何度もな」
それなのに、夢を見てしまうのはなぜなのだろう。信じたいと思ってしまうのは、愚かなことなのだろうか。再び裏切られることを恐れ、嘆く傍らでは微かな希望を抱いている。
きっと、次こそは。
この不遇な日々から抜け出すことができるのではないかと、そう思ってしまうことは罪ではないはずだ。タルヴォが同じ気持ちでいたとしても、クロエは少しも不思議に思わない。
一度絶望を目の当たりにした者は、一粒の砂塵ほどしかない希望でさえ羨み、渇望してしまう。そうしなければ報われない日常を慨嘆することしかできず、一生の幕を下ろす瞬間まで、どろどろした醜い感情を引きずることになりかねない。生まれてきたことを悔いるような人生を送ることだけは、してはならないのだ。
「あたしらも、タイみたいに考えることができたらねぇ」
モウラが困惑したような笑みを浮かべ、しみじみとそう漏らした。
「まったく、耳が痛い話じゃないか。あたしらは何だかんだ言ったって、タイの言う通りサルジに期待しちまってるんだ。勝手に期待して、裏切られた気になっちまってたんだよ。民族柄なのかね、そうやって人を信じたがるってのは」
かつてガイア帝国から追放されたシャラの一族は、遠く離れた場所に荒れ果てた土地を与えられた。寒さの厳しい土地ではあったが、金や石などの鉱山が助けとなり、一族は徐々にではあるが栄華を極められるだけの土台を培いつつあったという。
そこへ現れたのが、ガイア帝国を抜けて新天地を求めたサルジ族だった。行き場を失い、寒さに凍えていた彼らを憐れに思ったシャラ族は、冬の間だけでも滞在してくれるようにと願い出たのだ。
当初は何もかもが円滑に思えていた。だがしかし、サルジ族は春が訪れると同時に反乱を起こすと自治区を占拠し、反抗する者は皆殺しにした。最初からそうすることが決定事項だったのだろう。彼らは何の苦労もなく新たな国を手に入れ、シャラ自治区の名を踏みつけにすると、そっくり同じ土地でサルザ自治国と名乗りをあげた。
戦える力があったところで、シャラ族は元々争い事を嫌う民族だった。殺戮で殺戮を上塗りしたところで、最終的には多くの命が失われるという結末に至るだけだ。敵も味方も違いはない。誰かを愛し、誰かに愛されている。非道なのは頂点に君臨している人物であり、剣を携えて戦う者たちではないのだ。
しかし、非道はより非道さを極め、シャラ族は報酬も得られない労働力として扱き使われ続けた。不当な扱いに声を大きくする者が現れるたびに叩かれ、一族は如実に数を減らしていった。そしてついには民族浄化と銘打って僅かに残されたシャラ族を旧シャラ自治区から追い出し、何もかもを我が物とした。
これまでのことを思えば、恨みなど当然の産物だろう。
それでも、シャラ族はもう一度だけサルジ族に歩み寄ろうとした。使者を送り、僅かな領地の返還を求め、頭を地面に擦り付けた。けれど、交渉は失敗に終わり、一族は壊滅状態にまで追い込まれてしまう。
タイが指摘したように、信じなければ良いだけの話なのかもしれない。そうすれば期待することも、裏切られることもないのだろう。だが、一度抱いてしまった望みはそう容易く手放せるものではないのだ。しかもそれが、若さ故の憧れであればあるほど。幼子の夢であればあるほどに。
「タイの言いたいことは理解できる。でも、私は最後にもう一度だけ信じてみたいんだ」
「最後にはまた裏切られることになったとしても?」
「そのときのことは、そうなってみてから考えるよ」
「クロエは相変わらず計画性がないんだから」
タイは呆れた目でクロエを見るものの、やめておけと反対するつもりはないようだった。
信じるも信じないもその人の自由であるし、例え裏切られたとしても自分は確かに忠告をしたのだから、あとのことは己の責任だと言いたいのだろう。現実主義的な物の考え方をするタイらしい言い分を勝手に想像し、クロエはひとつも似ていない養い親たちの姿を横目に見た。
「……僕を信じてください、などと簡単に口にすることは安易であると分かっています」
微かに掠れた声でロランが言った。軽く咳払いをすると唾を飲み込み、やや緊張した面持ちのまま再び口を開く。
「それ以前に、僕のような小物の言葉では信頼するに値しないと判断されて当然です。それでも、どうか信じていただきたいのです。お願いいたします」
ロランはそう言うが早いか、驚いたことにその場で両手をつき、腰を折って見せた。頭を下げて額を床に押し付け、くぐもる声で先を続ける。
「僕の命でよろしければいくらでもお預けいたします。叔父と対面した後にそれでも納得が行かなければ、僕のことは何とでもしてくださって構いません」
王族のひれ伏す姿に唖然としていたのは、クロエばかりではなかった。
タイは不思議そうに目を丸くして瞬きを繰り返し、タルヴォに至っては大きく目を剥いてぎょっとしている。リンとジンのふたりは先ほどまでの威勢を失い、目をあちらこちらへと泳がせていた。モウラは道徳的ではないと言いたげな顔をしていたが、セラトラだけは涼しい表情でロランを見据えている。
「顔をおあげなさい」
セラトラは朗らかな声でそう告げると、ロランの肩にそっと手を触れた。
「この先いかなることが起ころうとも、誰にもあなたの命を奪わせはしません。そのようなことをしても虚しいばかりか、意味さえありませんから」
「ですが、僕には他には何も……」
「信じると言っている者に言葉以上のものは必要ないのです。それ以上のものを望むのは無粋というものでしょう」
何を考えているのかも分からない無表情で言うセラトラを、ロランはゆっくりと頭をもたげながら注視した。視線が交わっても互いに表情を変えず、見つめあっている。その眼差しからは、強い決意が感じられた。
「皆それぞれ思うところはあるだろう。だが、評議会として下す結論にはいかなる場合も従ってもらう。異論のある者はその場で異を唱えてほしい」
外は夜を迎えつつあった。夕日は山の向こうに陰り、居間に差し込んでいた橙色の光は既に消えている。室内を明るく照らすのは暖炉の炎だけだったが、クロエは頑なに目を逸らし続けていた。
「我々は全面的に彼の言を信じることとする。怪我が完治するまでの期間その身柄は我が家で預かり、私が後見しよう。その後は我々の関知するところではない。ただし、ここを出た後はここで見聞きした全てを忘れ、他言しないと誓うこと」
「ちょっと待ちなよ――」
「異論は最後にまとめて聞く」
セラトラはモウラに向かって手の平を見せ、その一言で黙らせた。
「ルウとイトゥカの件は全くの別問題だ。この評議会は彼に弁明の場を与える目的の下で開かれた。故にふたりのことは無関係であると判断する。それらについては各々が抱く個人的な感情であることを踏まえ、銘々の見解に審判を委ねるが、それを理由に彼を傷つけるような行いは決して受容されないとは告げておこう」
「……結局は全部他人任せってわけかい」
朗々と結論が唱われたかと思うと、モウラが不満を隠そうともせずに仏頂面で漏らした。
「あんたは族長やイトゥカのことなんてどうだっていいってのかい?」
「個人的な感情の問題だと言ったはずだよ、モウラ。私はクロエが彼と共に都へ行くというのを止めはしない。君もふたりのことが気がかりだと言うのなら、好きなように好きな場所へ行けば良い」
「そんなの無責任じゃないか」
「無責任?」
眉を顰めるセラトラを見て、モウラは不快感を露にする。
「あんただって族長は生きてるって信じてたんだろう? それなのに、出てきた言葉が個人的な感情だって? 族長の生死は個人的な感情なんかじゃない、部族全体の大事な問題だよ」
「ルウとイトゥカは生きている、その事実だけで十分だとは思わないか?」
「何を言って――」
「彼女の異論は推考に値するものとは思えない。他に何もなければ、評議はこれで終了だ。解散してくれて構わない」
そう言うセラトラの声色には、心の動きというものが微塵も感じられなかった。
××× ×××
「だけど、そっか」
よっ、と掛け声をあげて立ち上がったタイは、土間に降りていくと室内用の洋灯を手に戻ってきた。暖炉の前で膝をつくと洋灯に炎を移し、再びふたりの傍に腰を下ろす。互いの表情を窺うのに不自由しない、暖かみの感じられる灯りが点された。
「帰ってきたと思ったら、クロエはまたすぐ旅に出ちゃうんだ」
タイが酷く残念そうに言うのを聞きながら、クロエは困ったように微笑んだ。
「雪が降りはじめる前に出発しなければならないけど、まだもう少し先のことだ。彼の怪我がある程度良くなるまではどこにも行けない」
「じゃあ、それまでに色々と旅の準備を整えないとね。僕も手伝うよ」
「いつも悪いな」
「僕が好きでやってるんだから気にしないで」
毎度何も告げずに里を出ていくクロエだったが、勘の鋭いタイにはいつも見透かされてしまう。出立前になると落ち着きをなくすクロエに気がつかないセラトラではないため、このふたりにだけは嘘を吐くことができない。タイに至ってはクロエの旅支度を率先して手伝い、家出の手伝いをしてくれるのだった。
「そうだ」
胸の前でぱちんと両手を合わせ、タイが思い出したように言う。
「預かってる犬狼の毛皮だけど、あれはどうする?」
タイが言っているのはクロエが森で仕留め、後日セラトラが供養した犬狼のことだろう。
クロエは少し考えてから、ふたりの話に黙って耳を傾けていたロランを見やった。セラトラが言ったように、あの犬狼の死にはこの青年も少なからず関わりがある。
「私はもう父のを持っているから、あれは彼に譲ろう。道中必要にもなる」
「ああ、うん。そうだね、そうするのが一番かも」
タイは二つ返事で同意するが、ロランは驚いた様子で「はい?」と声をあげた。
「そんな、譲っていただくなんて――」
「心配しないでよ。君のところでは価値のあるものなのかもしれないけど、犬狼の毛皮は僕たちにとってそんなに素晴らしいものでもないから」
タイははぐらかすような物言いをしたが、ロランの不審そうな表情を見て小さく息を吐く。
「犬狼は僕たちにとってとても神聖な生き物なんだ。神のお使いと呼ばれていて、やむを得ない理由がない限り滅多なことでは殺さないし、殺せない。それこそ命が脅かされてるとかね。他の部族では力自慢のために殺したり、お金儲けのために殺して毛皮を剥ぎ取ったりしているらしいけど。でも、狩ってしまったからには命を粗末にはできないから、血の一滴まで無駄にはしないんだ。毛皮はその戒めなんだよ。殺したお使いの命をずっと背負って生きていくという決意の現れとでもいうのかな」
年老いて死ぬよりも、犬狼に食われて一生を終えたいと願う者がいるほどだ。さすがのクロエも今はまだそう思うことができないものの、いずれは同じ感情を抱くことがあるのかもしれない。
神妙な面持ちでタイの話を聞いていたロランは、沈痛な表情を浮かべると洋灯のなかでじりじりと燃える小さな炎に目を落とした。
「クロエは自分と君の命を守るために犬狼と戦ったんだ。もしかしたら、クロエひとりだけだったら戦わずに済んだのかもしれない。だから僕は、君にも命の一端を背負わなければならないだけの責任があると思うよ」
まるで邪気の感じられない者が紡ぐ鋭い言葉は、当人が思っている以上に深く胸に突き刺さるものだ。裏表のない言い様は聞く者に信頼感を与えると同時に、抗えないのだという敗北感を覚えさせる。
「でもまあ、別に君はシャラ族の仲間でも何でもないんだから、譲り受けたあとでどうするかは自分で決めたら良いよ。焼こうが捨てようが、売り払ったって誰も何も言わないさ」
「いえ、慎んで頂戴します」
ロランの赤茶けて見える瞳のなかで、洋灯の炎が頼りなげにゆらゆらと揺れていた。先ほどセラトラの前で見せていた眼光とはあまりにかけ離れているその弱々しい眼差しを見て、クロエは脆く危うい精神を目の当たりにしているのを感じる。他者の言葉に左右されやすい感情は、己の意思を見失わせるものだ。
心許ないな――クロエはそう思いながら、ロランの横顔をじっと見つめた。
誠実で真摯な人柄であることは、もはや疑いようがない。だが、正直であるかどうかは別の問題だ。まだ聞き出せていない不明瞭なことは、追々明らかにしていく必要があるだろう。目的の核心は別にあっても、目指す場所は内紛の渦中なのだから。
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