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もし許されるのであれば、都に戻り叔父の手助けをしたい、兄の無事を確かめたいというロランの願いは果たして聞き入れられるのか、それは今後の話の進め方によるだろう。
真実を知りたい者、償わせたい者たちの思いは未だ消化されていない。だが後者の場合、ロランが評議会の場で床に頭を擦り付けて死に物狂いで詫びれば、それで解決するという問題でもないはずだ。誠心誠意謝罪したとしても、それが口先だけの言葉ではないと証明する手立てはないのだから。
「叔父が王位争いに勝利し、国を統治するに至った暁には必ず使者を立てます。僕の独断でお約束することはできませんが、部分的な領地の返還も可能かもしれません」
「約束できないようなことを軽々しく口にしてもらいたくないな」
「叔父はこれまでの王国の内政にはとても否定的な考え方を示しています。それに叔父は白人の女性を娶り、奴隷解放にも働きかけを見せています」
ジンの横槍にも怯まず、ロランははっきりとした口調でそう切り返した。
「話を聞くところによると、あの方はおそらくシャラ族の血筋だと思うのですが」
「それ、本当?」
きょとんと目を丸くするタイにロランは頷きかけた。
「名前は?」
「イトゥカです」
すると、その場にいた三人の男女が揃って動揺を窺わせた。ひとりは腰を上げて膝立ちになり、ひとりは叫び声を抑えるように口を両手で塞いだ。セラトラでさえ、目を剥いてロランを睨んでいる。
「……あ、あんた今、イトゥカと言ったのかい?」
「は、はい」
ぞっとしたように青ざめているモウラに釣られて、ロランも思わずというように吃った。
どうやら、三人はイトゥカという名前を耳にしたことがあるようだった。リンとジンは聞いたことがないらしく、顔を見合わせて首を傾げている。もちろん、クロエもそのような名前の人物は知らなかった。
「セラトラ、そのイトゥカというのは?」
「あ、ああ」
完全に思考を停止させていたセラトラの目に生気が戻る。何度か素早く瞬いたかと思うと、ロランに向けていた視線を引き剥がしてクロエを見た。
「同一人物かどうかは分からないが、イトゥカという女性は確かに実在したよ。当時クロエはまだ産まれたばかりだったから、私たちは丁度今の君よりも少し若いくらいだったはずだ」
自分が産まれたばかりの頃ならば、そこにはまだ父と母の姿があり、今思えば懐かしい遊牧の生活を送っていたはずだとクロエは考えていた。
「私たちは山に入って薪を集めるついでに、木の実をもいで帰ろうということになった。例に漏れずタルヴォが妙な対抗心を燃やして――」
「馬鹿だね、今はそんな余計なことを言ってる場合じゃないだろう?」
呆れたと言わんばかりに頭を振り、モウラは横から口を挟んだ。
「とにかく、あたしたちは四人で山に入ったのさ。あたしとタルヴォ、セラトラ、そしてイトゥカとね」
「その山を登っていくと奥まったところに林檎の木が群生していて、少し時間はかかるがそこまで行こうということになった。でも、どうにも道が険しくてね。その年の雨季は特に雨が多かったから、土砂崩れの跡があったり地盤が脆くなったりしていて、先まで進めそうになかったんだ」
「だけど、この人とイトゥカは大丈夫だと言って聞かなかったんだよ。危ないから戻ろうと言うセラトラを無視して、川を越えた先に行こうとしたのさ」
この人とはもちろんタルヴォのことだ。しかし、モウラの顔には旦那を茶化すときのような呆れた表情は浮かんでいない。陰鬱とした面持ちだった。
自分のことが話題に持ち上がっているというのに、タルヴォはゆっくりと腰を下ろした格好のままぴくりとも動かない。
「ここまで話せば予想はできるだろう? イトゥカは川で足を滑らせて、水に飲まれちまったんだ。昨年に比べると水量は多かったし、水は濁って赤茶けていた。四人のなかでは一番泳ぎの得意だったイトゥカでも、川の流れに押されて泳ぐどころじゃなかったよ。セラトラが危険を顧みずに川へ飛び込んだけど、川下に流れ着いたのはセラトラひとりだけで、イトゥカの姿はどこにも見当たらなかった。すぐに人を呼んで大勢で探したけど、結局見つけてあげることはできなくてね」
「……死んじゃった、ってこと?」
「イトゥカは死んだんだって、自分たちを無理矢理納得させたんだよ。突然のことで混乱していたから、現実として実感できたのは随分経ってからだったね」
それは、当時の彼らにとって不幸としか言い様のない残酷な事故だったのだろう。誰の口からもその名を聞くことがなかったのは、思い出すのもつらい出来事だったからに違いない。
「もしあんたの言っているイトゥカが、あたしたちの知っているイトゥカと同一人物なのだとしたら、どうしてそんなことになっているのか知りたいものだよ」
「僕も多くを知っているわけではありませんが――あ、そういえば」
ロランはそう言うと、脇腹の痛みを堪えるように顔を顰めながら立ち上がり、居間の隅に置いていた自分の荷を取りに行った。それを手に戻ってくると、同じ場所に腰を落ち着ける。
「この琥珀の指輪は、その方が叔父に出会う前からずっと大切にしているものだそうです。叔父の部屋に置いたままにされていたので、無事に合流できたら渡そうと思い持ってきたのですが。これに見覚えはありませんか?」
そう言って取り出したのは、金の台座に取り付けられたあの大振りな琥珀の指輪だ。
ロランはそれを差し出すが、なぜかセラトラは受け取ろうとしない。その顔はどこかひきつっているようにも感じられたが、ほぼ無表情に近かった。
「……セラトラ?」
その異変を感じ取ったのか、タイが遠慮ぎみに声をかける。酷く珍しいその様子にクロエでさえ動揺していると、タルヴォが一瞬の静けさを破った。
「その指輪、お前がイトゥカに贈ったものだろ」
今や誰よりも青ざめた顔をしているタルヴォは、まるで亡者でも見たかのような面差しで指輪を凝視している。
「足の一本欠けた蜘蛛だ。お前、それを見つけたとき嫌みたっぷりに自慢してたじゃねぇか」
「……ちょっといいか」
クロエが横から手を伸ばすと、ロランはその手の平に琥珀の指輪を置いた。
美しい球体に加工された琥珀のなかには、タルヴォの言う通り足の一本欠けた蜘蛛が生きていたときの姿のまま混入している。
「セラトラ、本当なのか?」
「……この世界に同じものがふたつとないと断言できるなら、本当なのだろうね」
「だったら、そのイトゥカという人は今もどこかで生きてるってことなの?」
タイの問いには誰も答えず、再び沈黙が訪れた。クロエは指先で弄んでいた指輪をロランの手に返すと、どうにもおかしなことになってきたと思い静かに息を吐き出す。
最初は真サルザ王国の王子であるロランに、ことの顛末を説明させるという名目で開かれた評議会だったはずだ。しかし、タイが十五年前の件を持ち出したことにより責任の有無を問う場にすり変わりかけたところで、イトゥカという人物の登場だ。
このままでは話がややこしくなり、すべてがうやむやのまま終わってしまいそうな気がする。クロエはただ、父親の生死を確認したいだけだったのだ。父親と同じ名前の人物について詳しく話が聞けたのなら、それで満足だった。
それなのに、クロエが本当に知りたい事柄からは少しずつ話題が遠ざかっていく。幼い頃から追いかけ続けていた父親の面影が、少しずつ霞んでいくように思えていた。
「――今回の件にイトゥカは関係ないだろう」
地を這うような冷々とした声が言うのを、誰もが黙して聞いていた。そのセラトラの声には聞くものを押し黙らせる妙な響きがあった。
「イトゥカが生きているにせよ、その指輪が私の贈ったものだったにせよ、それが今回の件を解決する糸口になるとは思えない。我々が論じなければならないことは、もっと別にあるはずだ」
「まさか、本気でそんなことを言ってるんじゃないだろうね、セラトラ」
モウラが驚いたように声を荒らげる。その姿を一瞥したセラトラの顔にはやはり、表情というものがない。まるで仮面を被っているようだった。
「死んだと思っていたイトゥカが生きているかもしれないんだよ。しかも、サルザ王家に嫁いでいるかもしれないなんて一大事じゃないか!」
「それについて議論したければ、また別の席を用意すれば良い。彼はただ白人奴隷の解放を例に挙げただけだ。彼の叔父上が誰を娶ろうと我々の知ったことではない」
「ああ、そうかい、そうだったね! あんたは昔からそんなやつだったよ!」
モウラは今にも立ち上がり、ほぼ向かい合う位置に腰を据えているセラトラに飛び付きそうな形相だ。その拳を預かっている手前、クロエは下手にふたりから目を逸らすこともできない。
体の脇で拳を握り締め、それを震わせているモウラの横顔と、表情ひとつ動かさないでいるセラトラを、クロエは交互に見た。
「イトゥカの捜索が打ち切られたときだって、今みたいな顔をしていたのを覚えているよ。あんたはそうやって何も感じてないようなすかした顔をして、最愛の人が死んだってのに動揺ひとつ見せやしないんだ」
「……最愛の、人?」
聞き捨てならない言葉が聞こえたような気がして、クロエは思わず繰り返してしまう。
これまで考えたこともなかったが、確かにそうだ。この部落で一緒に暮らすようになってからこちら、クロエが知る限りではセラトラに色恋話が持ち上がったことはない。セラトラが異性に好意を寄せることがあるなど、思ってもみなかった。
「イトゥカが生きていることより、別の男と一緒になってるってことの方があんたにとっては衝撃的なんだろうね。いいや、屈辱ってわけだ。自分はイトゥカが死んだ後も一途に思い続けて、今も独り身を貫いてるってのに」
「それを無関係だと言っているんだよ」
「そう思いたいだけなんじゃないのかい?」
「だったら、どう関係があるのか説明してくれ」
さあ、早く――と責め立てるような物言いのセラトラを睨みながら、モウラは考えている。クロエも考えていた。このままでは脱線に脱線を繰り返し、明日になろうと話し合いは終わらないだろう。
自分は生きているかもしれないという父親に会いたいと思う。それならば、セラトラも最愛の人だというその人の生死を確認したくはないのだろうか。例え別の誰かと一緒になっていたとしても、それが思い続けていた相手ならば。
クロエがそう思い口を開こうとした瞬間、ついにモウラが立ち上がった。
「どう関係があるかなんて、関係がないんだ! 大切なのは気持ちの問題だよ! あたしはあんたがどう思ってるのかを聞いてるんじゃないか!」
さすがはタルヴォの奥方だった。タルヴォを制止させるための人物にはなり得るが、いざとなると彼女を止められる者などそうはいない。
立ち上がったモウラはその場で一歩足を踏み出し、セラトラを物凄い形相で睨み付けている。若い衆たちは既に畏縮してしまい、使い物にはならないだろう。タルヴォには元より宥めようとする心積もりもなかったようだ。
タイは半ば困惑ぎみに成り行きを見守っている。家のなかで怒鳴り声が交差することなど、日常茶飯事なのかもしれなかった。
「根性の悪い男だね! 女々しいのは顔だけじゃないってわけかい!」
「モウラ、少し落ち着いて」
「これが落ち着いていられると思うのかい!?」
「そうやって騒ぎ立てると、セラトラは余計に口を閉ざしてしまうよ」
クロエはモウラの腕を引っ張り、その場に腰を落とさせた。なるほど、胡座を掻き腕を組む姿は間違いなくセラトラよりも雄々しく見えた。
「イトゥカという人もそうだけど、彼はルウも生きていると言っているんだ」
なるべく心穏やかに、自らのことも落ち着かせるつもりになりながら、クロエは静かな語り口調で口火を切った。
「おいおい、何なんだよ……」
思わずというようにタルヴォの口から漏れた声は、愕然としつつも驚愕しており、同時に腰を抜かしたあとのような脱力感があった。頭を抱えるようにして項垂れている姿は、非常に悩ましい。
「私はずっと父の死が信じられず、受け入れることもできなかった。だから、どこかに手掛かりが転がっているのではないかと思って今まで旅を続けていたんだ」
そうだ、クロエはその死を信じることができなかった。同様にセラトラも最愛の人の死を受け入れず、今もまだどこかで生きているはずだと信じていたのだとしたら、これまでずっとクロエと同じ気持ちでいたのかもしれない。
「だけど、クロエの父さんはサルジの兵団に連れていかれて、向こうで処刑されたって」
「私もそう噂には聞いていた。でも、彼が十年ほど前にルウという名の男に会ったと言うんだ。父が処刑されたと言われているのは十五年前だから、この話を信じると父は今も生きていることになる」
「何だかにわかには信じらんねぇ、きなくせぇ感じだな」
リンがぽつりと漏らすのを聞きながら、それでもクロエは先を続けた。
「信じるか信じないかは個人の自由だよ。でも、私は彼の言葉を信じるに値するものだと考えている。見極める価値はあるはずだ。そもそも、このまま不毛な評議を続けたところで得られるものなどなにもない。お互いを罵りあっているだけでは、なにもはじまらないんだ」
まずは、はじめることからはじめてみよう。
セラトラがそう言ったのを、クロエは良く覚えている。族長が連れ去られ、処刑されたと聞かされた。大勢の仲間が死に、絶望という谷底に突き落とされたときに、それでもセラトラは新たにはじめるという希望を抱かせてくれたのだ。だから今度は、自分が皆に希望を与える番なのだとクロエは思いたかった。
「私は行って、真実をこの目で見定めてくる」
絶対に立ち止まらない。
過去の柵を払拭し、もう一歩先の未来へ行きたいのだ。
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