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「薬師の先生のところへ行っても、君たちが探している子はいないよ」


 玄関先に立っていたセラトラの前を、数人の若い衆を従えたタルヴォが通りすぎて行こうとする。

 セラトラのことなど眼中に入らない様子で先へ進みかけたタルヴォだったが、その言葉に足を止めると厳つい面持ちで後ろを振り返った。まるで都を闊歩している無頼漢のようだと、影から覗き見ていたクロエは密かに思う。


「集団で弱い者いじめとは感心しないな」

「部族の裏切り者が何を言ってやがる」

「身に覚えのない言いがかりだね」

「何だと?」


 若い衆たちの後を追いかけるようにして、里人が続々と集まってくる。その先頭に立ち、タルヴォは敵意を剥き出しにしてセラトラに詰め寄った。若い衆もそれに続き、筆頭を真似てセラトラを睨み付けている。


「……まるで親鳥と雛だな」

「まさに、言い得て妙だ」


 思わずもらしたクロエの呟きにネグロが同意した。

 下からタイ、クロエ、ネグロと縦に顔を並べて外の様子を覗き見ながら、三人は妙に落ち着かない気持ちを抱えていた。

 これから起こるだろう事柄を想像すると、セラトラひとりに任せておくことが忍びなく思えてくる。だがしかし、クロエは自分が出ていくことで余計に場が拗れるだろうことも理解していた。そもそもはクロエが青年を連れ帰ってきたことからはじまっている。悪いのはセラトラではなく、クロエなのだ。


「その様子じゃ遅かれ早かれ俺たちが来ることは分かってたんだろ? それなのに、何が身に覚えのない言いがかりだよ、笑わせるな」

「私は別段君たちを笑わせることに労力を割こうとは思っていない」

「お前はそれでお高くとまってるつもりなんだろうがな――」

「君こそ、手下を従えた破落戸気取りでいるのかもしれないが、主張したいことがあるのならば水でも被って頭を冷やしてから出直してきてくれないか。他の皆もそうだよ。私は君たちと感情論で討議したいわけではない」


 タルヴォが何かを言いかけたかと思うと、セラトラはそれを遮って冷ややかに言い放った。

 それを影から聞いていたネグロは、困惑したように眉根を寄せる。


「あれじゃ火に油を注ぐようなものだぞ」

「あのふたりは昔から犬猿の仲なんだよ。セラトラはあれで自分が冷静でいるつもりみたいだけど、端から見ればタルヴォを挑発しているだけだ」

「セラトラはまだ良いよ、問題はタルヴォじゃないかな。頭に血が上ると手がつけられなくなるんだ。モウラがいてくれたら別なんだけど」


 だが、その夫人であるモウラの姿はまだどこにも見当たらない。

 内心で早く来てくれと祈りながら、クロエはふたりの様子を背後から見守り続けることしかできずにいる。今や里人の半数以上が水車小屋の前に集まりつつあった。その状況を危惧しながらも、今はまだ黙しているしかない。出ていくにしても、適切な瞬間というものがあるはずだ。


「ねえ、やっぱり僕がモウラを――」


 タイは後ろを振り返り、クロエに向かってそう言いかける。しかし不自然に言葉を詰まらせると、その更に向こう側を見て大きな目を瞬かせた。

 釣られるようにしてクロエも後ろを振り返ると、居間で椅子に腰を下ろしていたはずのロランがそこに立っていた。まだ痛むらしい脇腹を押さえながら、目の前にある段差を慎重に降りてくる。


「何をしている?」


 不審に思いながらクロエがそう問うと、ロランは青白い顔をあげた。段差を踏み外して転がりそうになったところを、今度はネグロに支えられて事なきを得る。


「大丈夫か?」

「すみません、大丈夫です」


 ロランはネグロの支えを丁重に断ると、自らの足でまっすぐに立った。

 見るからに痩せ細った体は、ぽっきりと折れてしまいそうなほど頼りなく感じられた。女のように華奢な首筋が余計にひ弱さを助長させているのだ。そのように貧相な体つきの男は、このシャラ族にはひとりもいない。鍛練嫌いのタイでさえ、もう少し筋肉質だろう。


「私のためにあの方が非難されるのは、違うと思うんです」

「セラトラは誰かのために立っているわけじゃない。自分がそうすると決めたから、そうしているだけだ。私だって、今はここで見守ると決めたから、ここにいる」


 自惚れるなと一瞥をくれてやり、クロエは再び外に視線を走らせた。


「誰かのために何かをできる人間なんてそう多くない。誰かのためにやっているつもりでも、実は自分のためなんてことはざらにある話だ。それを勝手に勘違いして、自分のためになんて加害者面をしてほしくないね」

「それはちょっと言いすぎだよ、クロエ」


 不愉快だという顔をしているクロエを見上げて、タイが咎めるように言った。


「ごめんね、クロエは遠慮ってものを知らないから」

「そう言うお前もどうかと思うがな」

「どうして?」

「遠慮しようが遠慮しまいが、終着地点は変わらない」


 ネグロの遠回しな説明を理解するのにタイが時間を使っている間にも、家の外では不毛な言い争いが続いている。セラトラはタルヴォだけではなく、方々から浴びせかけられる罵声にうんざりしているという様子だった。不愉快さを募らせているのは火を見るよりも明らかだ。


「……例えそうだとしても、誰かが自分のために何かをしてくれたと思うことは自由です」


 疾うに終わっていた話題を再び持ち出されたクロエは、それを煩わしく感じながらロランを振り返った。腰に手をあて、少しだけ高い位置にある顔を見上げる。


「そういうのをここでは自惚れと言うんだ。誰かに何かをしてもらうことに慣れてしまった者の馬鹿馬鹿しい考え方だな。私はそういう考え方が大嫌いなんだ。誰かが自分の犠牲になってくれるって、そういうことだろう? 他人の思いを自分の都合の良いように解釈するのは勝手だけど、それを私に押し付けようとすることだけは止めてくれ。それだけは我慢ならない」

「違います、私はそういうつもりで言ったわけでは――!」

「それなら説明してみてくれ、どういうつもりで言ったんだ?」

「ちょっとクロエ、そんな言い争いをしてる場合じゃないよ!」


 半ば向きになりつつあったクロエを我に返したのはタイの一声だった。

 腕を叩かれて外に目を向ければ、いつの間にかモウラが姿を現している。セラトラの胸ぐらに掴みかかっていたタルヴォを引き離したモウラは、自身が代わりにその場に立ちはだかっていた。

 タイが言っていた通り、モウラが現れてタルヴォの暴走は今のところ食い止められている。だが、問題だったのはその後だ。モウラもタルヴォと同様に今回の一件には憤りを感じており、十分に説明をする必要があるだろうと迫った。

 それは確かに彼らの権利であり、正しい主張だ。しかし、既に説明義務を放棄しかけている今のセラトラには難しい要求に思われた。その上この十五年ですっかり腑抜けたなどと言われてしまえば、より一層セラトラの機嫌を損ねてしまうというものだ。


「……まずいな」


 クロエはそう言うと下唇を噛み締めた。すると、先ほどの痛みが蘇り、微かに血の味がした。


「まずいって?」

「タルヴォどころか、セラトラまで頭に血が上りかけている。早くどうにかしないと、今に大変なことが――」


 以前に一度だけ、セラトラとタルヴォが本気の殴り合いをしたことがあった。それ以外にも度々起こっていたのかもしれないが、クロエが目撃したのはその一度きりだ。

 それはクロエがまだ幼く、セラトラが部族の新しい長として立つに相応しい人物かどうかを、皆で審議していたときのことだった。大方賛成票が集まりつつあった状況のなかで、タルヴォは先頭に立って反対の意を示し続けていた。

 シャラ族の古い習わしでは、最も強き者が部族を統べることができる、とある。果たして彼は部族一の猛者かと問うたタルヴォの挑戦を、セラトラは受けて立った。

 あれほど激しい戦闘をクロエは後にも先にも見たことがない。

 圧倒的な剛の力で攻めるタルヴォと、水の流れるような柔らかな身のこなしで受け流すセラトラとの闘いは、程なくして決着がついた。両者ともに負傷こそしたものの、セラトラはタルヴォほどではなかっただろう。

 今でもクロエの目に焼きついて離れない。セラトラの放った渾身の一撃がタルヴォの懐に入り、すべてが決したあの瞬間のことが。

 だが、今とあのときとでは状況が違う。セラトラはもう戦うことができない。もし今一度審議を突きつけられるようなことがあれば、セラトラは間違いなくタルヴォの前に屈するだろう。それで済めば良いが、発作が起こり倒れでもしたら取り返しのつかないことになる。

 しかし、やはりと言うべきかクロエの嫌な予感は現実のものとなった。クロエのこういった第六感は、誰よりも正確に働くのだ。幼い頃からそうだった。

 セラトラの発言に激昂したタルヴォが、モウラを押し退けて前に進み出てくる。そして飛び掛かろうかという動きを見せたその時、セラトラは瞬時に構えの態勢を取った。膝を曲げ、腰を低くし、迎え撃とうとする。


「セラトラ、駄目だ」


 そう言って玄関から飛び出していこうとしたクロエの脇を、黒い影が駆け抜けていった。一瞬何が起こったのか分からず足を止めたクロエの前髪が、巻き起こった風でふわりと舞う。


「――タイ!」


 引き止めようと伸ばしたクロエの指先が宙を掻いた。思わずその背中を追いかけて玄関の外に出るが、タイは風のような速さで駆けて行ってしまう。そういえば、足だけは誰よりも早かったのだとクロエは仕様もないことを思い出していた。

 タルヴォが飛び上がった勢いを殺さないまま、右腕を大きく振り上げる。セラトラは既にそれを受け止める構えだ。振り上げられた反動で前方に突き出されたタルヴォの腕を手の甲で軽く往なし、続く一手を逆の腕で引き受けようとする動きを窺わせた。だが次の瞬間、ふたりの間にタイの体が滑り込む。セラトラに背を向け、タルヴォと対峙するような格好だった。


「ばっ、かやろ――っ!」


 突然視界に現れたタイを見て、タルヴォはぎょっとしていた。動揺を隠せない様子だった。だが、振りかぶった拳の勢いは急には殺せない。タルヴォは慌てて腰を捻ると体を反転させ、回転を加えてその場に着地しようとした。

 対するセラトラはタイが現れたことで驚きに目を見開き、すぐさま構えの態勢を解いた。そして腕を伸ばすと衣裳の襟ぐりを後ろから鷲掴みにし、タイを自らの方に引き寄せる。

 そのままタイの体を腕の中に抱え込んだセラトラは、着地に失敗をしたタルヴォに背を向けて体を丸めた。その上にタルヴォの屈強な体躯が落ちてくるが、着地点を僅かにでもずらしたことが幸いし、三人が折り重なるという事態には至らなかった。


「タイ、セラトラも、大丈夫か?」


 セラトラの上からタルヴォの足を退かし、クロエはふたりの傍らに膝をついた。タイを庇い地面に手をついていたセラトラは顔を上げ、短く返事をする。地面に転がされていたタイはきょとんと目を丸くし、一体自分の身に何が起こったのだという顔で瞬きを繰り返していた。


「見ているこっちが肝を冷やすようなことはやめてくれよ、本当に」


 クロエは自分の顔が青ざめているのが分かった。後頭部に冷や水を浴びせかけられたような感覚に襲われ、ぶるりと体が震える。腕にはぶつぶつと鳥肌が浮いていた。

 タイに手を貸してやりながらクロエがそう言うと、自力で立ち上がったセラトラは思わずというように苦笑いを漏らした。まずは両手の砂を払い、次いで衣裳についた砂埃も軽く払い落としている。どうやら体に不調は現れていないようだった。


「タイもふたりの間に飛び込んでいくなんて自殺行為だ」

「だって、そうでもしないとふたりともやめてくれないじゃないか」


 地面に押し付けられたからだろう、頬には軽い擦り傷ができている。じわりと血が滲むのも顧みず、タイは周囲を見回した。


「みんなもどうしてふたりをとめないの? 殴り合いの喧嘩で何でも解決できるって思っているなら、それってどうかしているよ。本当に馬鹿みたいだ」


 タイはぺ、と口に入った砂を吐き出し、袖で口許を拭った。その目は真っ直ぐに、非難するような影を帯びて養い親を見つめていた。


「タルヴォもどうして? セラトラを殴って何になるの? 溜め込んだ鬱憤を晴らしたいってだけなら、家に帰って薪割りでもしていたら良い。いつもそうしてるんだからさ」


 ゆらりとその場に立ち上がったタルヴォは、自らの養い子を据わった目で睨んだ。しかしタイは少しも尻込みすることなく、その眼差しを受け止めている。しかも、タルヴォが殴ろうとしたセラトラを庇うように立ちはだかっているのだ。


「そこを退け、タイ。これはそいつと俺の問題だ、餓鬼は首を突っ込むな」

「僕だってもう大人だよ!」

「人並みにも戦えないやつが馬鹿を言うんじゃねぇ!」

「馬鹿はタルヴォの方じゃないか、何がそいつと俺の問題だよ! これは部族の問題だ!」


 しん、と静まり返った空気のなかで、セラトラがふうと息を吐いた。たったあれだけしか動いていないというのに、その額には大粒の汗が浮いている。

 クロエがそれに気がついて声をかけようとすると、セラトラはそれよりも早く黙っているようにと手を挙げた。その視線は、タイとタルヴォの間で静かに揺れていた。

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