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 至極申し訳なさそうに戻ってきたネグロの手を借り、ロランは無事に水車小屋のある家に運び込まれた。ネグロは土間に降りて顔についた泥を水で洗い落としながら、自らに落胆した様子で肩を落としていた。


「俺の力が及ばないばかりに、すまない」

「ネグロのせいじゃない。誰が行っても同じだった」


 むしろ、ネグロが駄目なら他の誰が出向いたところで、ラダを止められはしなかっただろう。

 クロエは顎から水を滴らせているネグロに手巾を渡してやりながら、背後で何事かを話しているふたりを振り返った。椅子に下ろされたロランは膝に上掛けを乗せ、その上で両手をきつく結びあわせている。その横顔は真剣そのもので、まっすぐにセラトラを見上げていた。


「しかし、まさかあの男が真サルザ王国の王子だったとはな。お前ははじめから分かっていたのか?」

「何となく、そうじゃないかと思っていただけ」

「なぜ話してくれなかった?」

「確証がなかった。それに、話したところで何になる?」

「それは――」

「話せば私たちの部族についても触れなくてはならなくなる。そう何度も思い出して、口にしたい話題ではない。黙っていてすまなかったとは思うけど、これは私たちの問題だから」


 暗に一切口出しをしてくれるなと告げるクロエの言葉に、ネグロは悲観するような面持ちで押し黙ってしまった。同時にあちらの話も済んだのか、セラトラが土間に向かって歩いてくる。


「妙なことに巻き込んでしまって申し訳ない」

「いや」


 セラトラの謝罪にネグロは首を横に振った。


「彼のことは今日からここで預かることにするよ。この事実が明るみになるのも時間の問題だ。この通り狭い部落だからね、君に皆の矛先が向けられては忍びない」

「それは構わないのだが、これからどうするつもりなんだ?」

「さて、どうしたものか」


 ネグロの問いに答えるセラトラの声は、いつものように朗らかで優しげなものに戻っていた。クロエは思わず拍子抜けしてしまうが、セラトラは意に介さない。


「とにかく、この場をどう切り抜けるかだろう。もちろん、一筋縄ではいかないだろうが」

「どうしてラダがいると分かっていて話を続けたの?」


 クロエがそう尋ねると、セラトラは肩を竦めて言った。


「君は彼のことをいつまでもあの小屋のなかに閉じ込めておくつもりだったのかい?」

「そんなつもりでは、なかったけど」

「それに、私は嘘を吐かれるのが嫌いなんだ。知っているだろう?」


 嘘を吐かれるのが嫌いだから、自分も嘘を吐きたくない。それがセラトラの持論だった。

 だがそれには、言い換えれば本当のことを言わない、都合の悪いことには口を噤むという過失もある。けれど、大抵の場合でセラトラの下してきた決断は正しかった。今回もそれに倣い、従うのが最良なのだろう。

 クロエだって、いつまでも隠し通すことは出来ないと思っていた。いずれ匿っていることが露見し、事情を話さなければならなくなるだろう。しかし、それはまだ当分先のことだと考えていた。自分でも理解できていない事柄を、どのように説明すれば良いというのか。自らの感情さえ自制が利かなくなるような状況で、誰かを宥めることなどできるはずもない。

 だが、先伸ばしにすればするほど仲間たちの鬱憤は積もりに積もり、手のつけようがなくなることも分かっている。通常はいさかいを好まないシャラ族であるが、一度激情が沸点に達してしまえば、手の施しようがなくなってしまうことは実証済みだ。一時の感情に流され、その場で決闘にまで及び、死者が出るということも希に起こっていたと聞く。

 少しでもその怒りを鎮めるためには、確かに真実を包み隠さず伝えるのが一番良いのだろう。互いに冷静さを欠くことなくいられるのであれば。


「彼には、この先のことはすべて私に任せるようにと伝えてある。当事者が出て行っては余計に混乱を招くだけだろうからね。それから、君にもいい子にしていてもらうよ、クロエ」


 肩にとんと手を乗せられ、クロエは思わず抗議の声を上げた。


「だけど、彼を連れてきたのは私だ」

「君はきっと冷静ではいられないだろう。売り言葉に買い言葉で取っ組み合いにでもなったりしたら、私には止められない」


 絶対に起こらないとは言い切れない現実を突きつけられ、クロエはだんまりを決め込むしかない。思わず眉間に寄ってしまった皺を指先で押され、頭が僅かに後ろへ倒れた。


「君たちは家の中にいて、大人しくしていればよろしい」

「セラトラ……」

「まあ、悪いようにはならないだろう。彼にとっても、私たちにとっても」


 そうなることを願っているという物言いで、セラトラはたったひとり、里人を待ち受けるべく家の外に出ていってしまった。

 幸いなのは、玄関の扉が開けたままになっていることだ。これで外の様子を窺うことができ、何かが起こったときは即刻飛び出していくこともできる。激しい運動もそうだが、セラトラの病には強い興奮も毒なのだ。異変が見て取れたときは、言いつけを破ってでも出て行かねばならない。


「発作が出なければ良いが」


 同じことを考えていたのか、ネグロが心配そうにぽつりともらす。クロエはその脇腹に軽く肘を打ち込むと、ふん、と鼻で息を吐いた。


「縁起でもないことを言うな」

「これまでの平穏が崩れると心労を募らせることになりかねない。これは胸の病にとって、もっとも避けなくてはならない状況だ」

「セラトラなら大丈夫だ」

「本当にそう思うのか?」

「……口を閉じていろ。妙なことを言葉にすると言霊が寄ってくる」

「あいにくと俺は迷信を信じない質なのでな」


 言葉とはある種の呪詛だ。甘美で艶やかな言葉は人を惑わし、醜く歪曲した言葉は人を覆滅させる。言葉に応じて人の心は揺り動かされ、その動揺は体にまで及ぶのだ。言霊が人を化かす。言霊遣いと呼ばれる輩まで存在するほどだ。ネグロは迷信だというが、クロエは言葉には霊魂が宿ると信じている。


「ああ、セラトラ! 大変、大変だよ!」


 クロエがネグロに言い返そうとして口を開きかけたとき、騒々しく駆けてくる足音と聞き覚えのある声が迫ってきた。扉に近づいて外を覗き見れば、酷く慌てた様子のタイが現れたところだった。


「クロエの連れてきた人がサルジの王子で、それをネグロの家でセラトラたちが囲っているって、ラダがみんなに触れ回っているんだ!」

「それを知らせにわざわざ走ってきてくれたのかい? すまないね」


 タイはそのまま掴み掛かりそうな勢いだったが、セラトラの落ち着き払った様子を目の当たりにすると声の調子をひとつ落とした。


「ねえ、本当なの? クロエの連れてきた人は、本当にサルジの王子だったの?」

「少なくとも本人はそう主張しているし、私もそうと確信しているよ」

「だったら、タルヴォたちをどうにかしなきゃ! 若い衆を集めて、ネグロの家に乗り込もうって大騒ぎしているんだ。早く止めないと大変なことになるよ!」


 本気でそう心配をしているのか、タイの顔つきは切実だ。気を揉みすぎて半分涙目になり、事の重大さを理解していないように見えるセラトラに対して憤りを覚えているようにも感じられた。


「大丈夫だよ、タイ。後は私が何とかするから、家の中でクロエたちと一緒にいなさい。タルヴォに大暴れでもされて、君が怪我をしたら大変だからね」

「だけど!」

「さあ、いいから」


 背中を促されてそのまま玄関に押しやられたタイは、そこに立っていたクロエと正面から対峙した。その目はとても非難がましく、クロエを睨めつけている。


「どういうことなの?」


 クロエは隠していたことを責められているものとばかり思っていたが、タイが言いたいことは別にあった。


「ああやってセラトラをひとりで立たせておくつもり? タルヴォは部落中の男を集めて、引き連れてくるつもりなんだよ? いくらセラトラでも制御しきれないよ」

「……タルヴォには、タイの爪の垢を煎じて飲ませるべきだな」


 クロエは苦笑を浮かべると大きくため息を吐き、踵を返して土間に戻った。大急ぎで駆けてきたタイに水を汲んでやると、それを差し出す。


「セラトラがひとりで話すと言っているんだ。一度言い出したら聞かないからね」

「だからって、体に障ったらどうするつもりなの?」

「それは本人に言ってくれ」

「クロエが言っても駄目なのに、僕が言ったって聞くもんか」


 むっと唇を尖らせたタイは、差し出された水を一気に飲み干すと空になった椀を突き返してきた。それから玄関に張り付くようにして立ち、セラトラの背中を心配そうに見つめている。

 そういえば、タイは幼い頃からセラトラを慕っていたな、とクロエは思い出していた。武術もさることながら様々な知識に精通しているセラトラの元へ、好奇心旺盛なタイは毎日のように遊びにやって来ていた。胸の病が発症してからは、タイが良い話し相手になってくれていたのだ。

 クロエはタイの後ろに立ち、同じようにセラトラの背中を眺めた。


「だから余計にタルヴォが妬くんだ」

「……何の話?」

「タルヴォはタイに、セラトラのようになってもらいたくないんだよ」

「どうしてって聞いた方がいいんだよね?」

「どうしても何もない、タルヴォはセラトラが大嫌いなんだ。それなのに大事な甥っ子が自分よりもセラトラを贔屓するとなれば、躍起にもなる」

「僕は別に誰も贔屓なんかしてないよ。ただ自分が正しいと思うことをしてるだけだ。今回のことは、タルヴォが間違ってると思うから」

「なぜ?」

「僕はここで生まれて、ここで育った。ここ以外のことは何も知らない。十五年前のことだって話に聞いただけで、実際に経験したわけじゃない。そうでしょう?」

「そうだな」

「あれはつらい思い出だ、今でもあの恨みを忘れないって話しているのをたまに聞くんだ。タルヴォなんてお酒を飲んで酔っぱらうたびに話してるんだよ。絶対にいつか復讐してやる、目に物見せてやるってね。だけど、僕やサカリは実感がわかないんだ。当たり前だよね、実際に経験してはいないんだから。恨みとかつらみとか、そんなことをこんこんと語られても何も分からないよ。僕らにはここでの生活がすべてで、それ以前のことは僕らの世界とは何の関係もないんだ」


 確かにその通りだと、クロエは思った。

 誰かを恨むことは自由だ。しかし、その恨みは自分だけのもので、他人に押し付けられるものではない。


「大人たちが口を揃えて言うからには、サルジ族は悪い連中だって考えてる子はいるよ。だけど、そんなのっておかしいじゃないか。僕は自分の目で見て、確かめたこと以外は信じない。いくらタルヴォが僕の養い親で、生まれたときから世話になっているからって、僕の生き方まで指図する権利はないんだ」


 昔からどこか大人びた物の考え方をする子だとは思っていた。時に穿ったことを言い、大人たちに笑われることもあったほどだ。お前は変わった童だとからかわれるたびに、タイはいつも嫌そうな顔をしていた。

 おそらく、セラトラだけは違ったのだろう。ひとつも自分の考えを押し付けようとはせず、タイの話に耳を傾けた。一己の人間として尊重し、違う考えでもそれを受け入れたのだ。だからこそ、タイは言霊に惑わされなかったのだろう。


「それに、僕はセラトラを尊敬しているけど、セラトラみたいになりたいわけじゃないからね」

「今の話を聞いていればそのくらいのことは分かるよ」

「かといって、タルヴォみたいになりたいわけでもないけど」

「ふうん?」

「タルヴォは酒癖が悪すぎるんだ。僕は将来誰かと結婚することになっても、妻に殴られるような男にはなりたくないよ」


 クロエはその物言いに目を丸くした後、後ろに立っていたネグロと思わず顔を見合わせた。そして、今のタイが存在するのは夫人の努力の賜物だろうと頷き合う。


「じゃあ、タイは将来どういう男になりたいんだ?」


 クロエにそう問われて、タイはようやくセラトラの背中から目を逸らした。そしてネグロを横目に一瞥すると、少しだけ恥ずかしそうに言う。


「ネグロみたいな、薬師になりたいんだ」

「……俺はまたひとつ、タルヴォの旦那に疎まれる口実を手に入れたわけか」


 そううんざりとしたような声色で言いながらも、ネグロは満更でもなさそうな顔で頭を掻いていた。

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