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 他者を圧倒するその威圧感に、セラトラは覚えがあった。

 普段は比較的温厚で、呆けていることも珍しくはない。目的の無さそうな横顔で遠くを見つめる目はしかし、どのように高価な宝石よりも美しく輝いて見えた。何が起こっても大抵のことは笑って許し、とるに足りないことだと思わせる。この人だからついて行けると、そう思わせてくれた。

 その人の面差しに、良く似ていた。その人が希に激昂し、怒りの限界を越えようかというその瞬間の顔だ。手がつけられなくなる一歩手前の段階に、クロエはいる。

 上半身を起こした格好で寝台に座っているロランは、クロエを見上げたまま上掛けをきつく握りしめていた。それは関節が白く浮かび上がるほど強く、小刻みに震えてさえいる。ぎりっ、と歯軋りのような音が耳についた。


「き、聞きたいこと……」


 引きつった表情で、ロランはクロエの言葉を繰り返す。まるで蛇に見込まれた蛙のようだった。瞳孔が大きく開き、動揺が前面に出てきている。


「十五年前、私たちの野営地はサルジ族の兵団に襲撃を受けた。それはなぜだ?」

「な、なぜというのは」

「なぜ私たちは殺されなければならなかった? 私たちシャラ族が、あなたたちサルジ族に何をした? 私たちは――父はただ、一族が暮らしていけるだけの小さな土地で構わない、返還してくれと願っただけなのに! サルジはシャラの大地を奪うだけでは飽きたらず、一族を滅亡に導いたんだ!」

「クロエ、落ち着きなさい」

「みんな、ただひたすらに生きていただけだ。殺される理由なんてどこにもなかった。それなのにサルジは過去の大量殺戮を再び繰り返し、罪もない命を奪い尽くそうとした。己が罪を忘れ、それでもその罪に対する報復が恐ろしくて、殺さずにはいられなかったんだ。自らの弱さを認められずに」

「クロエ」

「生きていることが罪だというなら――!」

「約束を守りなさい、クロエ」


 感情の赴くままに怒号を浴びせかけ続けるクロエの手首を、セラトラは強く握った。氷のように冷たいその手は、クロエの手首を握り潰そうとするほど力強く、微かに骨が軋む。

 弾かれたように見下ろしたクロエが目にしたものは、セラトラの冷徹な横顔だった。刺すような眼差しはロランを捉えたまま動かないが、腹の底では怒り狂っているのだと一目で理解することができた。その怒りはクロエに向けられたものか、ロランに向けられたものかは分からない。


「黙りなさい。黙っていられないというのなら、今すぐ出ていくんだ」

「……分かったよ」


 吐き捨てるように言ったクロエはセラトラの手を振り払おうとするが、その手は手首をきつく握りしめたまま放れない。何度も何度も振り払おうとするが、そのたびに力が増していくようだ。


「彼を責めても仕方がないことは、君にも分かっているはずだ。十五年前、彼はまだ幼子だったのだから」

「だから、分かったって」

「分かっていない。君は何も理解しようとしていない」


 どうして自分が非難されなくてはならないのか、クロエはそれを理不尽に思いながら小さく舌を打った。手首から先が赤黒く斑点を浮かび上がらせ、指先から感覚が失われていく。病人とは思えない力強さには、クロエも思わず驚嘆してしまった。


「……分かった、黙って話を聞いている。良いと言われるまで、絶対に口を利かない」


 そう言って観念を示すと、セラトラは拘束していたクロエの手首から手を放した。途端に血の巡りが蘇り、どっと熱が押し寄せてくる。じりじりという痺れが指の先端まで行き渡るのを感じながら、クロエは恨みがましそうな目でセラトラを睨めつけた。手首にはくっきりと、指の跡が痣のように残されていた。


「度重なる姪の無礼には私からお詫びさせていただきます」

「い、いえ」


 ロランの表情は今や窶れたようになり、蒼白になった顔には目の下の隈が目立っていた。目の縁だけが高揚したように赤く染まり、僅かに潤んだ瞳でかろうじてセラトラを捉えていた。


「あなたが十五年前の真実をそう詳しく知らないだろうということは分かっています。殿下は今、おいくつですか?」

「十七です。今度の冬で十八になりますが」

「それでは、当時はたった三つの子どもだったということです。覚えてはおられないでしょうが、十五年前のある冬の夜に、あなた方の民族から成る兵団が我々に夜討ちを仕掛けました。それには宣戦布告もありませんでした。我々はある程度の予測を立てていたにもかかわらず、満足に迎え撃つこともできなかった。元より我々にはサルジと戦う意思はなかったのです。翌朝にはどこか別の土地へ旅立つつもりでいたのですから」


 覚えていない、自分とは無関係な昔の話だ――もしそう言い訳されたとしても、クロエにそれを受け入れるだけの余裕はなかった。

 王家の人間であるならば、その責任を負って生きていく義務が生じるはずだ。知らないではすまされない。知っていなければならないのだ。それを罪として認識していようと、していまいと。


「族長は停戦を申し入れようとしました。我々は害を成す存在ではない。敵意はなく、領地を占領する意図もない、と。ですが、それらは一切聞き入れられなかった。明日になれば退去するという我々に、その兵団は情け容赦なく襲い掛かりました。女も子どもも関係なく、兵士たちは矢を引き絞り、剣を振りかざした」


 空からはどこからともなく火矢が降り注ぎ、辺り一体を焼け野原にした。何もかもが燃えてしまった。

 炎の中で転がる見知った者の首から上を、クロエは今でも夢に見ることがある。平常でも炎のなかに同じものが見えるような気がして、今でも大きな火を見ることは恐ろしかった。


「これは当時五つでした」


 セラトラがクロエを指して言った。


「その年齢で地獄を目にしたのです。年齢的にも当時の記憶は鮮明に残り、今でも夢に魘されている姿を見ることがあります。それを残酷と思いますか? 哀れだと、そう思っていただけますか?」


 しかしロランは答えない。いや、答えられないのだ。

 返答に細心の注意を払わなければ、恐らく逆鱗に触れるだろう。セラトラの様子は、胸ぐらを掴まれ、頭から怒声を浴びせかけられるよりもずっと、精神的に恐ろしく感じられるものだった。

 静かな、眈々とした怒りの感情は、対峙する者に大きな警戒心を与える。


「そのような子どもは数多くいました。ですが、生き残れただけ幸いです。住む家も、家畜も、財産もすべてを失いましたが、死ぬよりは良い。しかしながら、我々は生きていく気力までをも失い、これまで通りの遊牧の暮らしを続けていくことはできないだろうという判断に至りました。そこで、人の立ち入らない犬狼の棲む森の深部を切り開き、そこで生きていくことを決めたのです」


 クロエは下唇を噛み締め、セラトラとの約束通り口を開かないよう必死に努めていた。間もなくして唇が切れたのか、舌の上には鉄の味が広がる。それでもぎりぎりと力を弱めずにいると、それに気がついたネグロがぎょっとして近づいてきた。


「やめるんだ、クロエ」

「何を」

「血が出ている」


 血が何だというのだ。生きていれば血ぐらい出るだろう。地も涙も流すことのできなくなった同胞のことを思えば、この程度はただのかすり傷だ。

 クロエはネグロの手を払い落とし、顔を逸らした。唇を舌先で舐めると、一層濃い血の味がした。


「けれど時を同じくして、サルジの兵団によって連れ去られた族長が公開処刑されたという噂が聞こえてきました。白色人種に対する見せしめのために、殺されたのだという噂です」


 セラトラは背後で起こっていることなど気にする素振りも見せず、話を先に進めていく。もはやその声には感情さえ込められていなかった。半分据わったような目でじっと凝視されたロランの心情は推し量るべくもない。


「私の姉は生前良く話していました。人は死ぬとき、風に運ばれていくのだと。そして魂を運ぶ風は縁ある人々のもとを訪れ、最期の別れを告げる。姉のときは確かにそうでした。あの夜討ちの夜更けにも突風が吹いた。だが、義兄の――族長の死を知らせる風はなかった。たったそれだけの何の根拠もない理由で、クロエは今も彼が生きていると信じ、この世界をあてもなく漂い続けています。まるで生にすがりつく亡霊か何かのように」


 クロエはセラトラの物言いに目を剥いた。何年も口を噤んでいたかと思えば、自分のことをそのように思っていたのかと心の中で悲憤した。しかし次ぐ言葉を耳にした瞬間、思わず涙しそうになる。


「愚かだと思われるでしょうが、私も姪の存意に同調しているのです。たった五歳だった少女の言葉に、今でもまだすがっています。そして、父さまは生きている、死んでなんかいないという言葉を盲信した」


 ぷっくりと脹れたクロエの下唇から、真っ赤な鮮血が滴った。ぽたりと床に落ちる音が全員の耳に届くほど、室内は静まり返っていた。

 だからこそ、室外の音が良く聞こえてしまったのだろう。

 じゃり、と土を踏み締め、ぱきん、と乾いた枝の割れる音が聞こえた。その不自然な音で我に返ったクロエは、すぐさま窓に駆け寄って外の様子を確かめた。


「――ラダだ」


 恐らく、影に隠れて話を聞いていたのだろう。自らのたててしまった音と窓に駆け寄るクロエの気配に恐怖し、慌てて走り去ろうとしている背中がまだそう遠くない場所に見えている。

 クロエは舌を打つと窓の縁を叩き、ラダの後を追いかけようとした。嫌な予感は見事に的中したのだ。この話は瞬く間に部落中に広まるだろう。そして、屈強な軍勢が列をなして押し寄せてくる。未だサルジ族に恨みを抱いている者は少なくないのだ。


「待て、お前はここにいろ」

「ネグロ」

「まだ話は済んでいないだろう」


 ネグロはそう言い残すと、ラダを追いかけて小屋を出ていった。平坦ではない畦道を走ることは難しく、ラダは足をもつれさせている。ネグロが追い付くのも時間の問題だ。


「セラトラ、このままだとまずいことになる」


 クロエの声は届いているのだろうか。そう思わずにはいられないほど、セラトラは微動だにしない。


「セラトラ!」

「分かっているよ」


 分かっているとは到底思えない。だが、黙っていると約束をしてしまった手前では、これ以上の口答えは許されないように思えた。


「口止めをしたところで、彼女はここで聞いた話を里の者たちに話して聞かせるでしょう。そうすれば、皆ここへ寄り集まってくる」

「まさか……」


 セラトラはラダが小屋の外で盗み聞いていることを最初から知っていたのだ。そこにラダがいると知っていて、それでも話を続けた。その先にある筋書きなど、分かりきっていることだというのに。


「私たちが知りたいことは、ひとつだけです」

「……はい」


 黙って話を聞いているだけだったロランが、かすれた声で応じた。ネグロがいればすかさず湯冷ましを運び入れるところだろうが、当人は窓の外でラダと口論を繰り返している。


「十五年前、シャラ族の族長は本当に処刑されたのか否か」

「そ、それは、私でも記録を見てみないことには……」

「もちろん、それは理解しています」

「それに記録を見るにしても、今の私では宮城に近づけません。ですが、もしも――もしも、その族長の名がルウと仰るのなら――」

「そうだ!」


 クロエは黙っていろと言われたことも忘れ、大股で寝台に駆け寄った。セラトラの脇を素通りし、寝台に片膝を上げると身を乗り出すようにしてロランの両肩に掴みかかる。


「ルウは私の父の名だ! 父は生きているのか!?」


 どうなんだ! そう怒鳴り付けながら細い肩を揺さぶると、ロランは目を白黒とさせながらクロエの腕を押さえつけようとする。しかしその力はあまりに弱く、クロエの動きを封じるには至らない。


「処刑されたという噂は虚偽なのか? 黙っていないで早く言え!」

「君がそう強く揺さぶっていたのでは、彼も話すに話せないだろう?」


 椅子から立ち上がったセラトラが、クロエを羽交い締めにしてロランから引き離した。乱れた呼吸を整えながら胸を押さえていたロランは、大きく息を吐き出してからふたりを見上げた。


「私が直接お目にかかったのは一度だけです。その方が何者なのかは知りませんでしたが、叔父は確かにルウ殿とお呼びしていました」

「それはどのくらい前のことです?」

「十年近く前のことだったと思います。それがもし同一人物だったとしたら、公開処刑は行われなかったのでしょう」

「でも、だったらどうして……」


 父は生きているのだという希望がクロエの脳裏を過った。暗闇の中から光が差し込み、世界が急に明るくなったかのように思われた。だが次の瞬間には、別の疑問が不意に頭をもたげる。

 だったらどうして、帰ってきてはくれないのだろう。生きているのなら、なぜ無事を知らせてはくれないのか。

 クロエは十五年間待ち続けた。ただ生きていることだけを信じて、待ち続けてきたのだ。死んでいないという理由を探して、生きているという現実を求めていた。

 だからこそ、少しも疑問に思わなかった。生きてさえいてくれば、それで良いと思っていたのかもしれない。だがしかし、本当は目を背けていただけだ。真実を知ることが恐ろしかった。帰ってこない理由を知りたくなかった。生きていようと、死んでいようと。

 その矛盾に気がついてしまったクロエは、愕然として言葉を失った。

 背後から体を押さえつけていたセラトラはゆっくりと解放してやるが、クロエは反応を示さない。ただ呆然と立ち尽くしている。


「やはり、君はそこまで考えてはいなかったのだね」


 クロエの心を読み取ったかのようにセラトラが言った。振り返れば複雑な面持ちでクロエを見下ろしていたが、その目はすぐに窓の外へと向けられる。


「とりあえず、今は場所を移そう。どうやら薬師の先生は説得に失敗してしまったようだからね」


 小屋の外ではネグロがラダに突き飛ばされ、刈り入れの済んだ水田に転がり落ちたところだった。


「移すって、どこに」

「私たちの家にだよ。ここに火でも掛けられたらネグロが不憫だ」


 良いですね、とセラトラが問うと、ロランはこくりと頷いた。

 ロランは上掛けを剥いで寝台から足を下ろし、立ち上がろうとする。しかし体がぐらりと揺らぐのを見て、クロエは無意識のうちに手を差し伸べていた。背中に腕を差し入れてから、自分の仕出かしたことを理解した。後悔したところで後の祭りだ。

 クロエが不快そうに眉を顰めるのに対して、ロランは小さく息を呑んでから「ありがとうございます」と慎ましやかな声で囁いた。

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