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「随分早かったんだな」


 クロエとセラトラが連れ立って現れると、それを出迎えたネグロは思わずというように目を丸くした。ふたりの顔を交互に見比べ、まあ入れ、と戸を大きく開く。


「あんたが来るのは早くても明日だろうと話していたところだったんだが」

「では出直してこようか?」


 冗談とも本気ともつかない声色でそのようなことを言うので、ネグロは少し慌てたように首を左右に振った。


「クロエが早くしてくれと駄々をこねるものでね」

「セラトラ」


 余計なことは言わないでくれと釘を刺すと、セラトラは軽い調子でそれに応じる。はいはい、と受け流すように頷く態度は小馬鹿にしているようにも感じられたが、今はいつものような言い争いをしている場合ではなかった。


「彼は隣に?」

「ああ、丁度食事を済ませて薬を飲んだところだ」

「話をしても構わないかな」

「そのために来たんだろう? だが、あまりに長話過ぎるのは遠慮してほしいね」

「善処するよ」


 セラトラはそうしてネグロと言葉を交わしてから、隣の部屋に足を進める。やはり、その足取りには微かな迷いさえ感じられない。


「俺は席を外した方が良いんだろうな」


 ネグロが耳元でそう囁くと、クロエは僅かに顎を持ち上げる。


「この小屋のどこにいたって話は筒抜けだ」

「この薄い壁じゃあな」

「ネグロには外を見張っていてほしい」

「見張る?」

「誰かが訪ねてくるようだったら、先に知らせてくれ」


 クロエはそう言い直すと、既に隣室に入っていたセラトラの後に続いた。

 診察用の寝台は部屋の隅に片付けられ、セラトラとロランを隔てるものは何もなかった。ただ、互いが口も開かず、何も言わずに見合っているだけの異様な空気がそこには流れていた。

 先に目を背けたのはロランだった。それだけで、その場の威圧的な雰囲気が少しだけ薄れたような気がする。


「ロラン」


 クロエがその名を呼ぶと、当人は少し驚いた様子で顔をあげた。


「これが私の叔父のセラトラだ。セラトラ、ロランだ」


 そう簡単に紹介を済ませると、セラトラは寝台に歩み寄ってすらりとした右手を差し出した。


「セラトラといいます」


 しかし、ロランはそれに応じようとしない。どこか呆気に取られたような面持ちでセラトラを見上げ、言葉を失っている。


「あなた方の文化に握手というものはありませんでしたか」


 努めて穏やかに、丁寧な物腰でセラトラは言う。するとロランははっとして我に返り、俄かに慌てた様子でセラトラの右手を握った。


「ロランと申します。あなたが族長でいらせられますか」

「今は族長名代といったところです」


 セラトラは椅子を運んできたクロエを横目に見てから、寝台の隣に腰を下ろした。クロエはふたりから少し離れた場所に立ち、様子を見るように眺めている。


「怪我の加減はいかがですか」

「お陰さまで痛みも和らいで、随分良くなりました。感謝いたします」

「あなたを助け、手当てをしたのは私ではない。感謝をされるような謂れはありません」


 どこまでも優しげな口調であるのにも関わらず、セラトラの言葉には相手を突き放すような冷たい響きを感じた。それを察したのか押し黙ってしまうロランを見て、セラトラはその目をゆっくりと細めていく。


「双子の兄君は生きておいでですよ」

「――え?」


 それに驚いたのはロランばかりではなかった。クロエはここで聞いた話のすべてをセラトラに語って聞かせていたわけではない。ロランに兄がいるということ、その兄がロランを逃がすための囮になったことは、一言も話していなかったのだ。

 セラトラの能力を理解しているはずのクロエでも、これだけの衝撃を受けている。ロランの驚愕は計り知れないだろう。しかも、双子であるということはクロエたちも聞かされてはいない。セラトラには決して知り得ることのできない情報だ。

 だが、ロランの面差しを見る限りでは事実のようだった。先ほどよりも大きく見開かれた目がそれを物語っている。


「ど、どうして兄のことを……」

「セラトラは写鏡だ。そちらの言い方だと、異能というらしいけど」


 そうして横から口を挟むと、ロランは壁を背にして立っているクロエに、一瞬だけ視線を走らせた。


「では、あなたはもうすべてをご存じなのですか?」

「異能は千里眼や地獄耳とは違いますから、すべてというわけにはいきません。ですが、あなたが何者であるかということは分かります」


 その眼差しに絡め取られた者は、何人たりとも逃れることは困難だ。完全に心を閉ざすことができる者は、この世にそう多くは存在しない。


「遠く離れたところにおられる方です、兄君のことは断片的にしか捉えることが叶いません。ですが、あなた方のお仲間が救出したことは間違いないでしょう」

「そう、ですか。良かった……」


 極度の緊張感の中でも、ロランは安心したように表情を和らげる。しかし次の瞬間、意を決したように持ち上げた面差しは覚悟を決めた者の、至極精悍な顔つきだった。


「あなた方が何者であるかは存じ上げません。ですが、真サルザ王国内に白色人種だけで成る部落があるという話は聞いたことがない――もしこれ以上私が何者であるかを詮索せず、ここから立ち去ることを了承していただけるのであれば、ここでのことは一切他言しないとお約束します」

「……私たちを脅しているつもり?」


 ロランの凛とした表情を目の当たりにしたところで微塵も屈せず、クロエは思わずこぼれる失笑を禁じ得なかった。


「私たちが何者であるかも知らずに?」

「ですから――」

「笑わせる」

「クロエ」


 セラトラの低い声がその名を呼んだ。


「今すぐ摘まみ出されたくなければ、その減らず口を閉じているんだ」


 僅かに刺すような鋭さを帯びた声を受けて、クロエは仕方なく口を噤む。立っているのも億劫になり診察用の寝台に腰を下ろすと、不満を露にするように鼻で息を吐いた。


「姪の非礼をお許しください」


 セラトラの態度は何ひとつ変わらない。だが、クロエにはそれが反対に不自然に思われた。何か考えがあるに違いないと感じながらも、唇を引き結んでいることは息をするなと言われるくらい難しいことのように思えていた。


「でも、あなたは少し勘違いをされているようだ」

「……勘違い?」

「ここを出ていくことは、もちろんあなたの自由です。お望みとあれば今すぐにでも出ていって頂いても構いません。ですが、これ以上の詮索をしないようにと言われたところで、私にはあなたが何者であるかが視えています――真サルザ王国第五王子、ロラン殿下」


 隣の部屋から、がしゃん、と何かが落ちて割れた音が聞こえてくる。セラトラの言葉に動揺したのだろう、ネグロがそれをごまかそうとするように小さく咳払いをした。

 果たしてセラトラの目には世界がどのように見えているのか、クロエには到底推し量ることはできない。前にそれを尋ねてみたこともあったが、ただ分かるのだ、という返答があるだけだった。分かり、聞こえ、視えるのだと。

 今もその細められた目には、青年の過去が見えているのだろう。過去に見聞きし、思い、感じたことの多くが怒濤のように押し寄せてくる。


「兄君はロルフ殿下と仰るのですか」

「……あ、あなたは何を」

「いけませんね、殿下。あなたは本来そのように人を脅すような方ではないはずだ。何をそんなにも焦っているのです?」

「わ、私は――!」

「なぜあなたのような末端の王子が、国王の首飾りを持っているのです」

「あなたはまさか、ち、父上のことまで……」


 ロランの唇は見る見る色を失っていき、怯えるようにわなわなと震え出した。傷が痛み出したのか、脇腹を手で押さえている。

 こちらの様子を垣間見ていたのだろう、ネグロがすぐさま駆け寄ろうとするが、クロエが手を伸ばしてそれを制した。咎めるような眼差しを向けられるものの、首を縦には振らない。


「……王家の諍い事とは、何ともおぞましいものだ」


 セラトラはまた、あの穢らわしいものでも見るような面持ちを浮かべ、眉を顰めていた。


「あなた方サルジ族は、今も十五年前も、それどころかずっと以前から何も変わっていない。血で血を洗い流し、自らの手が赤黒く染まっていることにも気づかずにいるのか」


 怒りに我を忘れてしまうのは自分ではなく、セラトラなのではないか。クロエはそう思ったが、セラトラは未熟な小娘のように愚かではなかった。その声は低く地を這うようではあったが、冷静さは失われていない。ただ、燃えるような怒りがその背中からは感じられていた。

 対するロランは自分を見るセラトラの眼差しを受け止めてはいるものの、絶句したまま言葉を発せずにいる。

 だが、どこか困惑したようなその表情は刹那、驚駭したように強張った。


「……今、十五年前と仰いましたか」


 それに応える声はない。代わりに向けられる眼差しが、その答えだった。


「あなたたちは、まさか――」

「サルジ族に根絶やしにされた一族の後裔だ。正確には、こうして生き残りがいたわけだけど」


 憎しみを奥歯で噛み締めながら、クロエは絞り出すように言った。それを諭すセラトラの声はない。ロランは震える手で口許を覆い、顔面を一層蒼白にさせた。


「では、やはりシャラ族の……」

「私がなぜ自分の命さえ顧みずにあなたを助けたと思っていた? 言ったはずだ、私は思っているほど善人ではないと。死線を越えてまであなたをここまで運んできたのは、善意からではない」

「あの首飾りを見て、お分かりになったのですね」

「あれはサルザ王家の紋章だ。忘れるものか」


 あの日、あの夜、大勢の兵が大挙として押し寄せてきた。

 その胸には皆一様に、その紋章を模した記章を抱いていたのだ。そして悪魔のごとき兵団が、一族の命を無慈悲に狩り取っていった。


「復讐されるおつもりで、私をここへ連れてきたのですか?」

「復讐?」


 クロエは思わず笑ってしまった。意図せずもれる自らの乾ききった笑いに、冷徹ささえ感じたほどだ。


「復讐するつもりなら、最初からその死に損ないの体を犬狼に食わせ、痛みにもがき苦しみ、悶え叫ぶ姿を存分に堪能してやったのに」


 心の片隅ではそうしておけば良かったと、クロエはそう思っている。


「あなたを殺すかどうかは、今のところ問題にしていない。私たちは真実を知りたいだけだ」


 クロエは腰を下ろしていた寝台から降りると、迫るように寝台へと足を向けた。ネグロはただならぬ様子に立ち尽くしていたが、それを引き留めようと肩に手を触れようとする。しかしその手をするりと逃れると、クロエはセラトラの隣に並んで立った。


「あなたに聞きたいことがある。嘘は許さない。セラトラに嘘は通用しないから」


 そのとき、セラトラはここへ来てはじめてロランから視線を逸らした。そして隣に立つクロエを見上げ、思わず息を呑む。

 そのクロエの形相はまるで、獲物を前にした犬狼のごとき面差しだった。

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