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 クロエは家の外に置いてある長椅子に腰を下ろし、高揚した感情が落ち着くのを待ってから家の中に足を運んだ。玄関先で靴底の土を丁寧に拭い、ただいま、と言いながら居間に顔を覗かせる。

 セラトラはそこにいた。

 窓辺に運んだ椅子に座り、天井を仰ぎ見る格好で目を閉じている。窓から差し込む西日を横顔に浴び、産毛を黄金色に輝かせていた。長い睫毛は微かにも震えず、中性的な容貌のためにまるで蝋人形のようだ。死んでいるようにも見える。

 背筋にぞくりと冷たいものを感じ、クロエは思わず息を呑んだ。

 呼吸はしているだろうか。心臓は鼓動しているだろうか。血潮は通っているか。心はここにあるのか。切なさや心細さに苛まれて、静かに膝が震える。

 いつかは訪れるのだと分かっていても、いつもそれが今日でないことを祈っている。毎日同じことを願い続け、一日の終わりに今日も無事に一日が過ぎたと安堵するのだ。その繰り返しがつらく、耐えられなくてこの家を飛び出した。

 それが家を出た理由の半分であることは、クロエ自身にも分かっていた。父親を探すという名目の元、叔父の死の瞬間を目の当たりにするのが嫌で逃げている。それがあまりに恐ろしいから。


「……セラトラ?」


 聞こえていなかったらどうしようと思いながら、クロエはその横顔に声をかけた。自分の声があまりに頼りなく、心許ない。死というものはある日突然訪れて、大切な人たちを瞬く間に奪っていくのだ。それが今日でないと言いきれる人間など、この世にはいない。

 しかし、セラトラは幸いにもすぐに目を覚ました。瞼を閉じていただけなのかもしれない。黒に濃紺を落とし込んだような色の瞳に西日の橙色が光を与え、生きていることを証明した。


「何て情けない声を出しているんだい?」


 いつもと同じ声の調子にほっと息を吐いたクロエは、その場で崩れ落ちそうになるのを堪え、窓辺に近づいた。その場所は秋の肌寒さからは程遠い、暖かで優しい日だまりに包まれていた。


「死んでいるとでも思った?」

「死ぬのは私がどこか遠くへ行っているときにしてよ。死に目には会いたくないんだ」

「随分と親不孝な娘だね」


 そう言いながらくすりと笑うセラトラの穏やかさに救われ、クロエも冗談を述べた後のように皮肉っぽく笑った。

 逝ってしまった人を送るとき、クロエはどのような顔をすれば良いのかが分からなかった。母親のときもそうだ。下から巻き上がるような風をその身に感じながら、母親の魂が連れていかれるのを黙って見送った。一滴の涙さえこぼさなかった。風が吹くたびに母を感じ、母の残した言葉の通り悲しむことをしなかった。

 部族の男たちはクロエを気丈な強い子だと言い、女たちは母親の死に涙も流さない様を見て非情で冷徹な子だと言った。

 それまでは、死というものは穏やかに訪れるものだと信じていたのだ。誰にでも平等に訪れる通過点であり、いずれ自分も母親のように穏やかな死を迎えるのだと思い込んでいた。

 けれど、そうではないのだと思い知らされた夜から、クロエの概念は一転した。死は暗闇の中から突如として現れる。煌々と炎を撒き散らし、嵐のように訪れるのだ。断末魔の叫びが今も耳について離れない。穏やかだったはずの死は一瞬でもがき、苦しむものへと変わってしまった。

 今はもう、寝台に横たわって静かに息を引き取るセラトラの姿は見えない。苦しげに胸を押さえ、掻きむしり、表情を恐怖に染めて死んでいく姿しか想像することができなくなっていた。

 そんな叔父の姿を見たくはないと、クロエは嫌な思考を取り払うように頭を振った。


「どうした?」

「え?」


 自分の考えていたことが読み取られたのではないかと思い、クロエは一瞬焦る。しかし、セラトラは不思議そうに首を傾げただけだった。


「私に何か話があるのでは?」

「あ、ああ、うん。あのサルジ族のことだけど」


 クロエはあの青年を小屋の外に出すことは危険だと伝えた。

 ただでさえ収穫期で出入りの激しい今は、人目に触れることも多いだろう。今日も突然ラダが訪ねてきて、鬱憤を晴らして帰って行ったと思わず口を滑らせてしまった。


「鬱憤?」

「セラトラが言っていた、ラダがネグロに気があるというのは本当らしい。それに、ラダは私に不満を抱いているんだ。里に留まらず、好き勝手に流れ歩いてばかりいるから」

「そんな不満を抱いているのは何もラダばかりではないよ。分かっていたことだろう? 皆君のやることだと諦めているだけだ」

「それは分かっているけど」

「それに、ラダは小さな頃から体が弱いからね。丈夫なことだけが取り柄のクロエが羨ましいのだろう」


 丈夫なことだけが取り柄と言われても、クロエには返す言葉が見つからない。まったくもってその通りだからだ。

 この丈夫な体も、男にも負けない身体能力に恵まれたのも、ちょっとした怪我ならば唾を塗っておけば治るような治癒力も、すべて父親譲りだった。


「でも、話は分かったよ。クロエの言う通りこちらから出向くことにしよう」

「できれば今日明日のうちに話をしたいんだ」

「せっかちだな」

「嫌な予感がするんだよ」


 ラダが現れたあのとき、クロエは妙な胸騒ぎを覚えたのだ。

 今はまだ良い。隠し通せているうちは何も起こり得ないだろう。だがしかし、もし一瞬の油断が最悪の事態を招いたとしたら、この里には大きな混乱が訪れる。族長の姪がサルジ族を匿い、怪我の治療を施しているという事実だけでも反感を買うはずだ。加えて、その青年が真サルザ王国の王子だということが発覚すれば、家族を奪われ、仲間を奪われ、すべてを失った者たちの怒りは頂点を迎える。

 青年はなぜ逃げ出さなくてはならなかったのか。青年はなぜ怪我を負っていたのか。十五年前のあの日、なぜシャラの一族は粛清を受けねばならなかったのか。そして、族長の処刑は直ちに行われたのか――多くの疑問を正さないうちは、その怒りからも庇いようがない。

 眉間に皺を寄せて下唇を噛み締めるクロエの様子を見て、セラトラは「分かったよ」と言った。


「では、腹ごしらえをしてから――」

「こんなときに?」


 セラトラの悠長な態度にクロエが驚きの声を上げると、呆れたように笑われた。


「腹が減っては戦はできぬと言うじゃないか」

「ただ少し話をするだけなのに」

「あちらでも昼食の頃合いだ。食事時に訪ねていくなんて無粋なことはごめんだよ」


 だが、案の定クロエは食事の半分も喉を通らず、セラトラを更に大きく呆れさせた。そわそわとする姿は落ち着きを覚えない子どものようで、言われるがままに土間に下りて食器を片付けている背中に、セラトラは嘆息する。


「いいから少し落ち着きなさい」

「でも」

「口答えをしない。別に私は明日だろうと明後日だろうと構わないのだからね。落ち着きのない子には留守番を頼むというのも良さそうだ」


 セラトラの言い様にぎょっとしたクロエは、水瓶から汲んだ水をぐっと一気に飲み干し、心を落ち着かせようとした。深呼吸を何度か繰り返すうちに、鼓動がいつもの調子を取り戻し始める。最後に息を大きく吐き出して口許を拭い、もう大丈夫だと自分に言い聞かせた。

 大丈夫だ、絶対に取り乱したりはしない。例え感情が沸騰しそうになったとしても、真実を手に入れるためには、その感情さえ捨て去ってみせる。

 緊張するように強張っていたクロエの肩からゆっくりと力が抜け落ちていく様子を見て取り、セラトラは壁に預けていた背中を離すと玄関に向かって足を進めた。


「我を忘れて掴みかかるなんてことがあれば即刻摘まみ出すから、そのつもりで」

「……分かってるよ」

「どうだろうね」


 返答に至るまでの僅かな間をどのように捉えたのか、セラトラは肩を竦めると部屋履きから編み上げの革靴に履き替え、玄関を出ていった。手にしていた椀を置いて急ぎその後ろ姿を追いかけ、クロエは隣に並ぶ。念のため辺りに視線を走らせるが、見られているような気配は感じられなかった。


「そろそろ山葡萄の収穫に良い時期だね」


 鮮やかに色づいた山並みを眺めながら、セラトラが唐突にそのようなことを言い出した。クロエは不思議に思ったが、そうだね、と応じる。


「でも熊に気を付けないと。冬眠前の蓄え時だから」

「思い出すね。クロエは毎年収穫することよりも食べることにばかり夢中で、口の回りを真っ赤に染めていたっけ」

「……昔の話だよ」

「懐かしい思い出はいつまでも色褪せないものさ」


 くすくすと笑いながら畦道を歩く横顔はとても穏やかで、すべてを受け入れる覚悟が既に整っているのだと分かった。

 しかしなぜ、突然昔話などはじめたのだろう。そのような疑問が脳裏を掠めた頃にはもう、ふたりはネグロの小屋の前にたどり着いてしまっていた。セラトラの細くしなやかな指先が丸められ、小屋の戸に向かって伸ばされる。

 ごくり、とクロエの喉が鳴った。

 セラトラはその音に一瞬動きを止めるが、クロエに一瞥をくれると躊躇もせずに戸を数回叩く。内側から開かれるのを待つ間、クロエはもう一杯だけ水を飲んでくるのだったと考えながら、自らの唾液で喉を潤そうとしていた。

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