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「これ、みんなで昼食を作ったの。良かったら食べて」


 小屋の戸を控えめな調子で叩いたのは、ネグロに気があるというラダだった。豊かな栗毛の髪を結わえず肩に流し、色素の薄い目を潤ませてネグロを熱心に見つめている。

 なるほど、セラトラの言っていたことは事実のようだと、ラダの眼差しを目の当たりにしたクロエは思わず苦笑を浮かべてしまった。

 シャラ族には珍しい小柄な体躯は小動物を思わせる。女のクロエから見ても酷く可愛らしく思えるのだから、そこらの男などいちころだろう。しかし、ネグロはそのこぼれ落ちそうなほど大きな目に見つめられても、動揺どころか表情ひとつ変えることはなかった。


「ああ、いつもすまない。ありがとう」

「ううん、いいの。ひとりだと食事の用意も面倒でしょう?」


 果たしてネグロの頭のなかに面倒などという言葉は刻まれているのだろうか。クロエはそう疑問に思った。進んで面倒事を引き受ける精神はやはり、器用貧乏と言わざるを得ない。


「体の具合はどうだ?」

「うん、もうすっかり良いみたい。ネグロのお薬が効いているのね。お母さんも毎日顔色が良いって喜んでる」

「だが、あまり自分の体を過信しすぎるのは良くない。少しでも調子が悪いと感じたら、いつでも来てくれ」

「ふふ、分かったわ」


 花がほころぶような笑顔とはこのことを言うのだろう。ラダの周りだけが急に明るくなったような錯覚を起こす。

 クロエは自らの頬に手を当てると、そっと口角を持ち上げようと試みた。だが、幼い頃から可愛いげがないと言われて育ってきた女には、微笑みなど真似られるはずもない。

 不意に視線を感じてそちらを見やれば、ロランが不可思議そうにこちらを見ており、クロエは慌てて表情を改めた。まさか見られていたとは思わず、居心地の悪さを引きずりながら顔を逸らした。


「――あら?」


 クロエが気を抜いていると、幕の向こう側からラダが首を傾げるような気配が伝わってきた。どうしたのだろうと再度覗き見ると、ラダが腰を屈めて竈の前に立っていた。


「お粥を炊いたの?」

「ん? あ、ああ、それか」


 ネグロの目が泳ぐのを感じ取り、クロエは思わず額を押さえる。


「それにしては手付かずのまま冷めてしまったみたいだけれど」

「それは、あれだ――そう、クロエに食わせてやろうと思ってな」

「……クロエに?」


 ラダの声色は一変し、明らかに不機嫌そうになる。クロエは頬を掻きながら小さく息を吐き出し、肩を落とした。


「クロエがここにいるの?」

「今は眠っているから、放っておいてやってくれ。まだ長旅の疲れがたまっているんだろう」

「眠っているって、どうしてクロエがあなたの家で?」

「あいつの家は通りに面しているからな、騒がしいのを嫌ったんだと思うが」


 ネグロは内心冷や汗をかいているだろう。しかし、どうやら上手くごまかせたようだ。一度はこちらに向いたラダの足が、再びネグロに向けられた。


「クロエは怪我をして戻ったと聞いたけど、大丈夫なの? 犬狼とやりあったって本当?」

「肩に爪をもらったようだが大事になるほどではない。それよりも心配なのは、あのやつれ具合だな。少し太らせてやる必要がある」

「ふうん」


 自分から尋ねておきながら、ラダのそれは気のない返事だった。本当はクロエになど興味はないが、世間話の一環として少し聞いてみただけという様子だ。これだけあからさまな態度をとられてしまえば、いくら色恋に疎いクロエにでも察しがつく。ラダはクロエに嫉妬しているのだ。


「クロエが戻って嬉しい?」

「ああ」


 ラダの問いに何の躊躇いもなくネグロは即答した。クロエは頭を左右に振り、そこは違うだろう、とネグロを非難した。


「ラダは嬉しくないのか?」

「え?」


 問い返されて言葉に詰まるラダの反応を見て、クロエは更に苦笑を濃くさせた。


「……あの子はいてもいなくてもこの部落のお姫様だもの」

「お姫様?」


 似つかわしくない表現だと感じたのだろう、ネグロがラダの言葉に大きく吹き出した。珍しい反応が得られたことにラダは気を良くしたのか、その面持ちを僅かに明るくさせた。


「あいつがお姫様だって?」

「だってそうでしょう? あの子が一度旅に出れば、みんなはあの子の心配ばかりしているわ。戻れば戻ったで、今みたいに会話の種はあの子のことばかり」


 閉鎖的、且つ変化の乏しい部落で生活を送っていれば、会話の内容など限られてくるものだ。そのなかに旅好きで無謀な若い女がひとり紛れ込めば、嫌でも話の流れはそちらに向かっていくだろう。


「みんな口を開けばクロエ、クロエって。どこへ行ってもそうよ」


 それを隣の部屋で本人が聞いているとも知らず、ラダは強い不満を露にしていた。


「いいわよね。族長の娘だから好き勝手なことをしていても、誰も咎めないんだもの」

「俺はあいつのその好き勝手さに救われて今ここにいるわけだから、悪くは言ってやれないな」

「……やっぱり、あなたもそうなのね」

「何がだ?」

「クロエを好きなのよ」

「あいつは愚かに思えるほど無愛想だが、なぜが人や動物に好かれる。君は違うのか?」

「私は嫌いよ。大嫌いだわ!」


 甲高い声がそう叫ぶと、騒々しい足音はあっという間に遠ざかっていく。

 吐き捨てられた自らを嫌悪する言葉に何も感じないと言えば、それは嘘になる。けれど、心を痛めるほどではなかった。

 この狭くも思える世界を自分の足で歩き、実際には途方もなく広大なのだと知った日から、自分という存在のちっぽけさをクロエは悟ったのだ。ひとりの人が他者に与える影響などは微々たるものでしかなく、同時に他者から与えられる影響もまた、感情を大きくは左右させない。好きがあれば嫌いもある。それがこの世の摂理というものなのだろう。


「お前、ラダに何かしたのか?」


 ラダが小屋を出て行くと、クロエは目の前の幕をたくしあげた。片手で器用にまとめると紐で結わえながら、ネグロの疑問に小さく首を傾ける。


「さあ」

「何もしないであれほどまでに嫌悪されるものか」

「私には何の心当たりもないけど」


 クロエに言わせれば、自分など道に生えた名もない雑草であるが、ラダこそが芳しい香りを漂わせる高嶺の花なのだ。

 幼い頃から、同じ年頃の少年たちは寄って集ってラダの噂話ばかりをしていたものだ。他のシャラ族の娘らしい強気な子どもたちとは違い、淑やかで優しく可愛らしい容貌は、少年たちの注目の的だったと記憶している。その少年たちとの取っ組み合いさえ辞さなかったクロエなど、異性として意識されることもなかった。もちろん、それは今も変わっていないはずだ。


「ラダは私に妬いているらしい」

「お前を? どうしてだ?」

「ネグロを独り占めしているように見えるんだろうね」


 三月ぶりに帰ってきたというのに、おかしな話だ。反対に考えれば、この三月の間はネグロを独り占めすることができたはずだというのに。


「お前が俺を? 意味が分からん」

「私もさっぱりだよ」


 だがしかし、数年前までは争いばかりの地でこき使われていた男が、今では山奥の森に囲まれた名もない里で惚れた好いたなどと言いながら暮らしているのだと思えば、それもまた幸せなのだろう。


「セラトラの言うところによると、ラダはネグロに気があるんだそうだ」

「まさか」


 そう言って笑う時点で、ネグロにはその気がないのだということが分かる。これはこれで残酷だ。そもそも、その顔はクロエが笑えない冗談を言っていると思っているときの表情だった。


「私は時々間違ったことを言うけど、セラトラは言わない」

「時々な」


 それこそ冗談だろうという顔でネグロは肩を竦めると、たった今ラダが持ってきてくれた料理皿をクロエに向かって差し出した。皿には形を切り揃えられた色とりどりの野菜と、衣をつけて焼かれた鶏肉の餡掛け炒めが盛られていた。まだ湯気が出ているのを見ると、できたばかりのところを持ってきたのだろう。


「お前も食うか?」

「いらないよ」


 首を横に振るクロエに不思議そうな顔を見せ、今度はロランを見やる。


「あ、いえ、私も結構です」

「そうか」


 見るからに美味しそうな見た目と香りには食欲をそそられるが、クロエと一緒に美味しくいただいた、などと言われては余計に反感を買ってしまう。そのような既成事実は作らずにいる方が無難だ。

 クロエは背後できらきらしい音を奏でながら、装飾品を革の袋に仕舞うロランを振り返った。寝台に近づいていくとロランはゆっくりと顔をあげ、前髪の奥に見えているクロエの灰色の瞳を捉えた。


「下らない話を聞かせて悪かった」


 ロランは何も言わずに首を横に振った。


「……やっぱり、ここにセラトラを連れてきた方が良いみたいだ」


 ロランの黒い瞳をじっと見つめ返したまま、クロエは後ろにいるネグロに向かってそう言い放った。


「彼をラダに見られては事だから」

「どうぞ、仰せのままにいたしますよ、お姫様」

「ネグロ、冗談でもやめてくれ」

「お前は黙ってじっとしていれば美人なんだがな、実にもったいない。非常に残念だ」

「うるさい、黙れ」


 たまらず振り返ったクロエを見るネグロの眼差しは、してやったりとでも言いたげだ。遊ばれていただけだと知ったクロエは髪をくしゃりと掻き上げると、再びロランに向き直る。


「とにかく、セラトラはここへ連れてくることにする。都合は本人に聞いてみないことには分からないけど、それで構わないか?」

「はい、お任せします」

「一両日中には来られると思う」


 クロエは自身が我慢強い方だと自負していた。だが、いつまでもこの状況が続くのは精神衛生上よろしくない。白でも黒でもはっきりさせなければ、まともに眠ることもできないのだ。

 ロランの瞳は、まるで研磨された黒曜石のような輝きを帯びている。時間をかけて大切に磨きたてられ、塵ひとつ付着していない。曇りのない眼差しは純粋さを感じさせた。

 この青年が本当にあのサルジ族の王家に属しているのか、クロエは思わず疑問に感じてしまった。


「……少しセラトラと話してくる」

「あ、おい。ちょっと待て」


 ロランの目を見ていられずに踵を返したクロエの後ろを、ネグロが追いかけてくる。小屋を出て間もなくのところで腕を捕まれると、前に回り込んで道を塞がれた。


「お前は普通を装っているのだろうがな、戻ってから様子が変だぞ」

「そんなことはない」

「あの男が原因なのか?」


 言い返そうと一度は口を開こうとするが、余計なことは言うまいと唇を引き結んだことが不要な憶測を生んでしまったようだった。


「彼らの民族はお前や俺の民族を蔑視しているかもしれないが、彼がどうかは分からないだろう? お前は人を外見で判断するようなやつだったか?」

「そういうことじゃないんだ、ネグロ」

「だったらなんだ」

「……自分で言ったろ? 私たちは訳ありなんだ」

「それとこれに何の関係がある」

「セラトラを交えて話そう。その方がいい」


 ネグロの大きな手の平はクロエの腕を掴んだまま解放しなかった。

 それでもクロエは口を利かない。ネグロは澄み切った空色の目で、灰色の目をじっと見据えていた。

 ネグロの目は恐ろしく感じられるほどに美しい。だが、本人はこの目を嫌いだという。それがなぜなのか、ネグロは絶対に話したがらない。


「どうしてその目が嫌いなんだ?」

「……何?」

「それと同じことだ。人には立ち入られたくない問題がある。その時がきたら聞けば良いことだ」


 そしてその時は、間もなくやって来るだろう。

 クロエはネグロの手を揺するようにして振りほどくと、肩をとんと叩いてからその場を後にした。背中を呼び止める声に振り返らず、刻一刻と迫るその時を感じながら、言い知れぬ不安と奇妙な高揚感をその胸に抱いていた。

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