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クロエは翌日になってから、再びネグロの小屋を訪ねた。
血で汚れた荷の中は一度も改めていない。だが、さほどの重みはないため、たいしたものは入れられていないのだろう。武器の類いがあれば先に取り上げておくべきだが、あのひょろりとした体躯では、子供の相手にもならないに違いない。
「私が拾ってきたのはこれだけだ」
「ありがとうございます」
昨日よりもずっと顔色は良いようだった。ネグロの話では朝と昼に重湯を飲んだと言うので、食欲の面でも心配する必要はなさそうだ。
いつまでも寝台で斯様な姿を晒すことは憚れる――そう言って起き上がりたがるロランを、ネグロは決して許さなかった。それなので、荷を手に訪れたクロエに向かって酷く申し訳なさそうに詫びる様は、世間一般が想像する王家の姿とはあまりにかけ離れているように感じられた。
寝台で壁を背にして座り、ロランは受け取った荷を膝の上に置いた。
少し湿り気を帯びた革の袋を手の平で撫でていたかと思うと、ロランはそれをおもむろにひっくり返す。袋からばらばらと落ちてきたものを見て、クロエは思わず目を見張った。一瞬、この青年が真サルザ王国の王子などではなく、ただの盗人なのではないかと本気で疑ってしまったほどだ。
布団の上に転がり出たのは、宝飾品の数々だった。それもひとつやふたつではない。青玉、紅玉、緑玉――そのなかでも最も高価なものは、見るからに大粒の真珠だろう。
太古の昔は真珠貝と呼ばれる生き物が海に棲み、多くの真珠を生成していたと聞く。だが今ではほとんどの海は汚れ、生き物は壊滅状態だ。真珠は現存しているものがすべてであり、王公貴族の間でさえ手に入りにくいという話だった。クロエも本物を目にするのははじめてだ。
「……これはたまげたな」
クロエの隣でネグロも目を剥いている。
ロランはふたりの様子を苦笑混じりの困惑顔で見上げてから、そのなかのひとつを指先で摘まんだ。それは大振りな琥珀の指輪で、台座はすべて金でできているようだ。
「何かの足しにはなるだろうと思って、急いでかき集めてきたものです。少し傷がついてしまっていますが、好きなものをお持ちください」
「……何だって?」
ロランの言葉にネグロは驚きの声をあげる。今の時代、宝石は財を持つ者の贅沢品であり、庶民には何ら関わりのないものだ。発掘者は原石を愚かしいほど安く買い叩かれ、手元にはそれこそはした金しか残されない。そういうものなのだ。
「もちろん、この程度のもので命を救っていただいた謝礼になるとは思えませんが、今の私にはこのくらいのものしか――」
「馬鹿を言わないでくれ」
ロランの言葉を遮って、ネグロが口を開いた。
「俺はそんな大層なものが欲しくてあんたの傷の具合を見てきたわけじゃない」
予想に反していたのだろう、憤慨した様子のネグロを見てロランは目を丸くしている。クロエは肩を竦めると懐から金剛石の首飾りを取り出し、それをロランの顔の前に掲げた。
「この里で玉に価値を見い出す者はあまりいない。受け取ったところで不必要なものだし、売り払えるような相手もいないんだ。盗品と判断されて取り上げられるのが落ちだよ」
「そんなことは……」
「どこの箱庭で育ってきたのか知らないけど、私たちのような肌の民族には奴隷として買われている者が少なくない。宝石なんて分不相応だ。分かったら早くこれを仕舞って、ネグロの煎じた薬を飲んだらどうだ?」
これ、と言って金剛石の首飾りをゆらりと揺らす。ロランはそっと伸ばした手で慈しむように、包み込むようにしてそれを受け取った。
「ん? それは?」
「大切なものだそうだ」
ネグロの問いにそうとだけ答え、クロエはその場にあった椅子に腰を据えた。
顔を伏せ、どのような表情でその首飾りを見つめているのかは分からない。しかし、それを持つ手は微かに震えていた。どのような感情がその心に働きかけているのか、クロエはそれを観察するようにロランを凝視していた。
「さあ、そんなものはさっさとしまってくれ」
まるで目に毒だとでも言うように、ネグロは眉を顰めながら山になった宝石を一瞥し、薬入りの碗を差し出した。
「俺は自分のすることに見返りは求めない。ほんの少しでも感謝してくれているのなら、どこか別の場所で別の誰かに返してやってくれ」
ロランは心底不可解そうな、ぽかんとした顔でネグロを見上げている。
「俺がこれまでに見てきたものや与えられてきたものは、おそらくあんたの知らない想像を絶するものばかりだろう。そういうものを目の当たりにして生きてくると、今を生きているだけで得をしているような気分になれるものだ。だから、見返りなんてものは必要ない」
「ネグロは他人に施しを与えて悦に浸る特異な性癖の持ち主なんだ」
そうしてクロエが横から口を挟むと、ネグロは聞き捨てならないという顔をした。
「何て言い様だ? 俺がいつ悦に浸った? ありもしない性癖を持ち出すな」
「何の見返りも求めず、良くも知らない誰かに親切にできるほど、お前のように出来た人間は多くないっていうことだよ」
「……お前は俺を褒めているのか? 貶しているのか?」
「本人の捉え方次第だ」
そう言ってにやりと笑うクロエを横目に見て、ネグロは肩を落とす。そして薬がなみなみと注がれた碗をロランに握らせると、隣の部屋に戻っていった。
残されたふたりは暫く沈黙を守っていたが、意外にも先に声をあげたのはロランだった。
「ぼく――いえ、私が生きてきた世界では、施しにはそれ相応の対価を支払うのが平素の行いでした。お気を悪くさせてしまい、申しわけありません」
「あなたの生きてきた世界こそが常なんだ。その認識を改める必要なんてないんじゃないか? たまたまここにいるふたりが、その常識から外れているというだけのことだ」
「そう、でしょうか」
「自分が生きてきた世界を否定するより、新しい世界を受け入れようとすることの方がずっと難しい」
「……あなたにはそれが?」
「さあ、どうだろうな」
クロエが顔を傾けて顎で促すと、ロランは手にしていた碗を酒のように大きく煽った。その生薬があまりに酷い味だったのか、一瞬吐き出そうとする素振りを見せたが、どうにか飲み下すと口許を手の甲で拭う。
からん、とその手から床に滑り落ちた碗を拾ってやり、クロエは指先でそれを転がした。
もしこれに毒を混ぜたとしても、青年は疑いもせずに飲み干してしまうのだろうと思いながら、その表情は微塵も動かさなかった。
「族長があなたに会いたがってる」
「え?」
何の前触れもなく呟かれた言葉に、ロランは少なからず驚いている。手にしていた碗を机に起き、クロエはその目でまだ幼さの残る顔を見た。
「もちろんあなたの体が良くなって、ネグロの許可が降りてからの話だけど」
「どうして、僕なんかに……?」
「話がしたいから連れてくるようにと言われただけだ」
嘘は言っていない、クロエはそう自分に言い訳をする。
お前がサルジの王子だということは分かっている、積もる話もあるなどと正直なことを言ってしまえば、弱った体に鞭を打って逃走する可能性も否定はできない。そのときがくるまで、本当のことは話さずにいたほうがいいだろう。
「族長殿の家はすぐ隣だ。今日一日様子を見て大丈夫そうなら、明日にでも挨拶に呼ばれてくると良い」
隣の部屋からひょっこりと顔を覗かせたネグロを見上げ、ロランは見るからに不安そうな表情を浮かべた。
「は、はい……」
「別に人を取って食うような人ではないから、そう緊張する必要もないと思うが」
「いえ、そのような心配をしているわけではないのです」
「もしそれが差別的なことならば――」
「いいえ、違います」
そう明確に否定はするものの、その顔はうっすら青ざめているようにも感じられる。何がそれほどまでに恐ろしいのだろう。シャラ族を蔑んできたのは、サルジ族の方だ。報復を恐れているのだろうか。
「僕は、ただ」
「ただ?」
ロランはそう言いながら、思わせ振りな眼差しでちらりとクロエを見やる。
視線を投げ掛けられたクロエはそれを不可解に思うが、その目はすぐさま逸らされた。
「……人見知りが激しいので、それで」
なんだそんなことか、と言って笑うネグロの声がなぜか空しく聞こえる。照れたようにはにかむロランの表情もどこか作り物めいていて、クロエは不信感を募らせた。
「ここの族長はこいつとは違って話の分かる方だから、快く滞在を許してくれるだろう。クロエとは似ても似つかないが、人徳のある叔父上殿だ。俺がここに来たときも――ん?」
「どうした?」
話している途中で突然首を傾げたネグロに、クロエが問う。
ネグロは隣の部屋からこちらにやって来ると、壁に背を預けて腕を組んだ。
「ああ、いや。俺はあの時、ここに留まることを了承してもらえたのかどうか、今更だが心配になってな」
「多分だけど、セラトラは一度も良いとは言っていないと思うよ」
「……やはりそうか」
がっくりと肩を落とすと同時に項垂れるような仕草を見せ、ネグロは大きく息を吐き出した。クロエはその様子に苦笑を浮かべ、肩越しに振り返ったまま言う。
「面と向かって出ていけと言われないかぎりは平気だよ。ネグロには感謝していると言っていたし、おかげで体調も落ち着いている」
「それを聞いて安心した」
本当にほっとしているように感じられたのは、自分のしてきたことが間違いではなかったと確信できたからだろう。迷惑に思われてはいなかったのだと知り、安堵している。義理堅いネグロらしい心配だとクロエは思った。
すると、ふたりの話を聞いていたロランがおずおずと口を開いた。
「……叔父上様はご病気を?」
「胸を患っているんだ」
答えたのはクロエではなくネグロだった。
「今すぐどうにかなるというものではないが」
「そうだったのですか……」
「まあ、この里の人たちは色々と訳ありのようだから、あんたのこともそうしつこくは詮索しないだろう。俺のように居座ろうとしないかぎりはな」
「ネグロさんは、どこか別の場所から来られたのですか?」
「俺はガイア帝国の生まれだ。国境近くの、いつも紛争ばかりしているようなところで、生まれてからつい最近まで延々と働きづめだった」
さも何でもないことのように語るネグロにしてみれば、それまでの日々は至極当たり前の連続でしかなかったのだろう。つらい、憎い、苦しい、様々な負の感情に苛まれながらも、逃げ出そうという気すら起こすことができないほど、それを日常として受け入れてしまっていた。
「とある紛争の折りにこの小娘に助けられてな」
「手を貸しただけだ」
「今では家や食料の面倒まで見てもらっている」
「私はここへ連れてきただけで、後は何もしていないよ」
クロエは己のやりたいようにやっているだけなのだ。手を差し伸べ、話を聞き、では一緒に来るかと提案した。それに頷くか、首を振るかはネグロの自由だったはずだ。そして、それから後のことも。
やはりセラトラの考えは正しいのだろう。クロエは改めてそう実感する。
「あんたはどこの国の生まれなんだ? 見たところサルジ族のようだが」
その指摘にどきりとしたのは青年よりもクロエだったろう。
ぎょっとしてネグロを振り返るが、目が合ったところでクロエの意図が汲み取れるはずもない。ほんの僅かに肩をすくめられるだけだった。
「え、ええ、そうです」
若干答え難そうにして見えるのは、自分の目が曇っているからだろうか。クロエは椅子の上で片膝を抱え込みながら、そう考える。
「あそこの王都では王位争いが続いているそうだが、その内紛にでも巻き込まれたのか? 刀と矢なんて、その辺りをふらふらしているだけではもらえるものでもないからな」
「……実は、町を出ようとしたところで憲兵に見咎められて、馬で逃げ出してきたのです。それで追っ手がかかり、手負いとなってしまいました。それでもなんとか撒いて森に入ったところまでは覚えているのですが、後のことは意識が朦朧としていて」
「まあ、俺には災難だったなとしか言ってやれないが。あんたの家族は? 大丈夫なのか?」
「兄が一緒でした。ですが、私を逃がすための囮となって、今はどうしているのか……」
「そうか。無事だと良いな」
「はい」
ネグロはその話を疑おうともしていない。だが、クロエには嘘か本当か判断がつかなかった。セラトラならば分かるのにと思いながら、黙って口を噤んでいる。
「ですから、私だけがこうしていて良いのかどうか……できることなら今すぐにでも、兄の無事を確かめに行きたいのですが」
「それは無理だ。立って歩くだけでもやっとというくらいだろう? そんな体ではこの森は抜けられない」
「それは、分かっていますが」
「分かっているなら、大人しく養生することだな」
真実兄のことを心配しているにせよ、早くここを逃げ出したいが為の嘘だったにせよ、今の状態で森に入れば無駄死にすることは目に見えていた。話を聞き出した後ならばいざ知らず、そうでなければここへ連れてきた意味もなくなってしまう。無駄に命を懸けたわけではない。
「幸い今は収穫期で、一年で一番忙しい時期だ。家やここへ訪ねてくる者もそういないから、ゆっくり休めるはず――」
そう言いかけた瞬間、まるで図っていたように小屋の戸が叩かれた。
クロエはすぐさまネグロに目配せをし、唇に人差し指を添える。それだけで意図を察したネグロは小さく頷くと、ふたつの部屋を隔てる幕を降ろして姿を消した。
「あ、あの、どうかしましたか?」
「あなたがここにいることはみんなに話していないんだ。色々と訳ありでね」
ネグロの言葉を借りてそう呟き、クロエはロランにも黙っているよう指示をする。音をたてないように椅子から立ち上がると壁にぴたりと身を寄せ、幕の隙間から隣の部屋をそっと覗き込んだ。
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