第二章

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 いずれこのような事態に陥るだろうということは最初から予想がついていた。

 先伸ばしにしたところで遅かれ早かれ露見してしまうのであれば、自らの口から語るのが最良に決まっている。それは、そう考えていた矢先の出来事だった。

 部落中の者たちが水車小屋の前まで押し寄せ、ああだこうだと捲し立てている。その先頭に立っているのは、もちろんタルヴォだ。背後に若い衆を従えて現れたタルヴォは、玄関先まで出ていたセラトラに掴み掛かろうかという勢いだった。


「どういうことなのかしっかり説明しろって言ってんだよ!」

「そう大声を出さないでくれないか、耳が痛い」

「お前は昔からそうだ。自分だけは特別だって顔をしやがって、俺たちを高みから見下してやがる。はっきり言って勘違いも甚だしいぞ! 俺たちにだって考える頭くらいあるんだ!」

「私の目が正しく、君の首の上に乗っているものが飾りではないのなら、私が口にした言葉の意味を理解できるはずだ。頼むから大声を出さないでくれ」

「――何だと、この野郎!」

「やめなさい、タルヴォ。みっともないよ」


 タルヴォはセラトラの胸ぐらを力任せに掴みあげた。その様子を影から見ていたクロエは思わず出ていこうとするが、それよりも早くひとりの女が前に進み出る。

 タルヴォは低い声で、モウラ、と呼んだ。

 モウラは鳶色の長い髪を高い位置でひとつに結わえ、馬の尻尾のように揺らしながら颯爽と現れた。セラトラの胸ぐらを掴んでいるタルヴォの手を叩き落し、憤懣した様子を隠そうともしない。

 このモウラこそ、タルヴォが頭の上がらない唯一の人物で、妻だ。もしかしたら自分よりずっと強いかもしれないとクロエは密かに思っている。並みの武術者では相手にもならないだろう。

 モウラは色素の薄い目でタルヴォを睨み付けたあと、僅かにだが表情を和らげてセラトラと対峙した。


「すまないね、セラトラ」

「君が謝るようなことではない」

「でも、あたしの旦那がしたことだからね、謝らせてもらうよ」


 セラトラは衣裳の胸元を正し、皺を伸ばしている。腰ひもを結び直しながらモウラを見ると、僅かに首を傾けた。


「だったら、あれに手綱でも付けて調教し直すようにと忠告しておこう」

「おやおや、それはまた随分な言われようじゃないか」

「冷静さを欠いた言動は見苦しいだけだ」


 後ろから見ているだけでもクロエには良く分かった。セラトラは恐ろしく不機嫌だ。

 ふたりは互いに認め合っている好敵手ではあるものの、セラトラは元々タルヴォを馬鹿にしているきらいがある。タルヴォはそんなセラトラを目の敵にしており、犬猿の仲なのだ。


「でもねセラトラ、あたしもタルヴォと同じ思いだよ。十分に状況を説明してもらわないことには、この事態は収束しない」

「説明もなにも、ここに集まっている君たちはラダの話を聞いてきているのだろう? それがすべてだ」

「それなら、あんたたちは本当にサルジの王子を匿っているって言うのかい?」

「そうだとしたら何か問題でも?」


 半ば投げやりになりつつあるセラトラの応対に、さすがのモウラも表情を険しくさせている。

 ずいっと自らの顔をセラトラの顔に寄せると、細めた目で鋭く睨め付けた。それは物凄い迫力だがセラトラは怯みもせず、面倒臭そうに見返している。


「あんたはこの十五年ですっかり腑抜けになっちまったのかもしれないけどね、あたしたちはただの一日だってこの恨みを忘れたことがないんだ。無惨にも殺されていった仲間たちを、今になっても夢に見る。みんな無念だと言って泣いてるよ。それなのに、あんたっていうやつは――!」

「顔が近い」


 不満そうに言いながら、セラトラはモウラの鼻の頭を指先で押し退ける。

 鼻の頭を潰されたモウラは、一瞬寄り目になってから慌てて身を引いた。僅かに頬を赤らめるものの、すぐさま非難するような目でセラトラを見上げた。


「君も冷静さを欠くようなら別の誰かと場所を変わってくれないか。私に怒鳴り合う趣味はないからね」

「――貴様、セラトラァ!」


 自身の妻を侮辱されたと感じたのだろう、タルヴォは激昂すると同時にセラトラに飛び掛かろうとする。

 すると、何を思ったのかセラトラは瞬時に構えの体勢を取った。殴り掛かろうとしているタルヴォを迎え撃つように腰を落とす姿を見て、狼狽えたのはクロエだ。


「セラトラ、駄目だ」


 そう言って玄関から飛び出していこうとしたクロエの脇を、黒い影が駆け抜けていった。

 一瞬何が起こったのか分からず足を止めたクロエの前髪が、巻き起こった風でふわりと舞う。行ってはいけないと伸ばした手は、何も掴むことができずに宙を掻いた。



×××   ×××



 農作業風景を横目に、クロエは畦道を進んで水車小屋のある自宅に戻った。

 青年が目を覚まし、少しではあるが話ができるようになったこともセラトラには知らせておこう。そう考えながら歩いていると、家の外で薪を割っているセラトラの姿を見つける。クロエは驚いて駆け寄ると、その手から鉈を取り上げた。

 どのような顔をしていたのか、セラトラはクロエを見上げて目を丸くしている。


「やめてくれ、セラトラ。薪割りなら私がするから」


 その額にうっすらと汗が浮いているのを見てクロエがぞっとしていると、セラトラは苦笑を浮かべた。落としていた腰をあげ、困ったように眉尻を下げる。


「少しくらいは体を動かさないといけないんだよ」

「いいから、そこに座って休んでて。残りは私がする」

「あまり私を甘やかさないでほしいな……」


 セラトラは後ろ頭を掻きながらも、背中を押され促されるままに長椅子に腰を下ろした。


「これでも君がいないときは、全部ひとりで何でもしているんだ」

「だったら、私がいるときくらいはゆっくりすれば良い」

「ネグロに叱られても知らないよ」


 言いながら怪我をしている方の肩を指すので、クロエは利き腕とは逆の手に鉈を持ち直した。そうするとセラトラは諦めたように肩を竦め、外壁に背中を預けてクロエを見上げた。


「私も君も、あの薬師の先生に頼りきりというわけだ」

「腕の良い薬師は探そうと思ってもそうは見つからないからね」

「それは認めよう。でも、だからこそ彼をいつまでもここへ置いておくわけにはいかないようにも思うけれど」


 この時季になると部落の若い衆が薪木狩りに出かけて行き、冬支度のために普段よりも多くの倒木を持ち帰ってくる。恐らくそれの第一陣が届いたのだろう。

 これだけ広大な森に囲われていると、木材に事欠くことはない。薪木を調達するときは倒れて久しい木を探し出して運び、それを切り分けて各家庭に配分する。切り倒したばかりの木では水分量が多く、長時間乾燥させる過程を挟まなくては良く燃えないからだ。

 既に三分の一ほど終了している作業の跡を見てため息を吐き、クロエは一番近くにある木の枝に手を伸ばした。それに鉈を振り下ろしながら、自らの膝で頬杖をついているセラトラを見た。


「それはタルヴォがネグロを追い出したがっていることと関係があるの?」

「それとは無関係だよ。タルヴォが彼を追い出したがっていることは否定しないし、不服を唱えていることは皆も知っていることだ」

「私もついさっきネグロのことで噛み付かれたよ。ネグロのせいでタイが堕落したとでも言いたげな物言いだったな」

「さっさと追い出すように言われたのだろう?」


 くつくつとおかしそうに笑うセラトラを見て、クロエは笑い事ではないと眉を顰めた。


「そもそも、私がネグロを連れてきたのが悪いんだそうだ。もう三年近くも前のことなのに、今更よそ者は追い出せと言われてもネグロだって困るよ」

「君が留守にしている間も、タルヴォは随分騒ぎ立てていたよ。むしろ最近では静かになってきた方だ」

「静かに?」

「クロエが家出をしたすぐ後で、ラダが重い病気を患ってね」


 さらりと口にされた家出という言葉に僅かばかり引っ掛かりを覚えたクロエだったが、ラダが病気をしていたとは知らず心配する気持ちのほうが先に出た。

 ラダというのはクロエと同じ年頃の女で、今は母親とふたりで暮らしている。昔から体の弱い娘だった。


「もう大丈夫なのか?」

「ネグロが三日三晩つきっきりで看病をしてくれて事なきを得たから、心配は要らない。それに、以来彼の存在を疎ましく思っていた者たちも急に大人しくなってしまって、今では彼に不満を抱いているのはタルヴォくらいのものではないかな」


 それに、と言いながらセラトラは人差し指を唇に添えて悪戯な笑みを浮かべ、僅かに声を潜めた。


「ラダはネグロに熱を上げているそうだよ」

「ふうん」

「おや、気にならないのかい?」

「どうして? それはふたりの問題であって、私には関係ないことだ」

「……その言い様では、ネグロが不憫でならないね。同情するよ」


 何を言っているのだと首を傾げるクロエを呆れたように見やり、セラトラは頭を振る。


「私もネグロがいてとても助かっているし、本人がこのまま滞在したいと言うのであれば、そうしてもらって構わないと思っている。でも、それが彼のためになるのかどうかは分からない」

「ここへ来る前、ネグロは自分には行くところも帰る場所もないと言っていた。家族もなく、親しい友人もいない。だから連れて帰ってきたんだ」

「それで、結果はどうなった? 彼は私たちに質の良い治療や薬を与えてくれる。だが、私たちは彼に何も与えることができていないとは思わないかい?」

「住む家と食べ物がその対価だ」

「住む家と食べ物なんて、どこで暮らしていてもどうにかなるものだよ。彼にはそれだけの才能がある」

「……セラトラもネグロを追い出したいの?」

「追い出したいわけではない。ただ、彼にはその自由があると言いたいだけだ」


 確かにその通りだ。ネグロにはここを出て行く自由がある。

 それどころか、この部落に住むすべての者たちに、その自由は与えられているのだ。セラトラは最初に去る者は追わないと約束をしている。そして、幾人かがこの里を去っていった。同様に、ネグロも好きなときにここを出て行けるのだ。


「ここで暮らしていくよりも、ずっと良い生活を送れるだけのものが彼にはあるんだ。その可能性を潰して後悔しないほど、ここでの生活が彼にとって良いものなのかどうか、私には断言できないな」

「要はネグロが何をどう望むかってことは分かるけど」

「所詮私たちは流れ者だ。いつまでこうした暮らしを続けていけるか分からない。サルジ族の彼がここへ着たことで、それが脅かされることだってあるわけだ」


 クロエが鉈を振り下ろすと、周囲に乾いた音が広がる。からん、と転がった薪を拾いながら、未だ黄金の稲穂が揺れる田畑の向こう側を見た。あの掘っ立て小屋のような、それなのに酷く居心地の良い家の中に、ここではよそ者と呼ばれる男たちがいる。


「……あの男が目を覚ましたよ」


 手を止め、ぼんやりとした口調でクロエがこぼすように言った。


「目覚めた顔を見たとき、最初は殺してやりたいと思ったんだ。それなのに、次の瞬間には哀れに思っていた。それっておかしいかな」

「思うことは人それぞれだよ」

「自分がどうしたいのか分からなかった」

「それが普通だ」

「どうしたら良いのかも分からないんだ」

「これから考えれば良い」


 クロエがこぼす言葉に、セラトラが穏やかに答える。

 視線をゆっくりと戻して、長椅子に座っている顔を見上げる。セラトラもその目をネグロの小屋に向けていた。


「私も一緒に考えるよ」

「……自分は何も知らないと言ったのに?」

「知らないとは言ったけれど、話を聞かないとは言っていないだろう?」


 セラトラは言いながら長椅子から立ち上がった。そしてクロエを一瞥すると、こちらに背中を向けて片腕を持ち上げた。


「薬師の先生が良いと言ったら、私のところへ連れておいで」

「セラトラ」

「……どうしたら良いのか分からないのは、私も同じだ」


 幻聴ではないかと思うような微かな声でセラトラが言う。

 クロエの手の平から鉈が滑り落ちた。セラトラを追いかけようと立ち上がった格好のまま立ち尽くす。

 迷っているのは、惑っているのは自分ばかりではないのだと思うと、クロエはほんの少しだけ気持ちが軽くなるような気がした。

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