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狭い小屋のなかに爽やかな香りが漂っている。
退屈に飽いて現れたクロエを招き入れたネグロが、手慣れた様子で香草茶を淹れてくれたのだ。
白い磁器の碗に注がれたそれに息を吹き掛けて冷ましていると、目の前に小振りな壺が置かれた。碗を貸すように言われて差し出せば、木の匙で掬い取られたたっぷりの蜂蜜が香草茶のなかにとろりと落とされる。その匙でくるくるとかき混ぜてから、ネグロはクロエに碗を返した。
「まあ、そうだな。疎まれているだろうとは思っていたが」
たった今タルヴォと話していたことを控えめな表現で伝えてみると、ネグロは表情ひとつ変えずにそう肯定した。
クロエは蜂蜜を入れたことで丁度良く冷めた香草茶を口に運び、ネグロを上目使いに見る。ほんのりとした優しい甘味が口一杯に広がり、何とも言えない幸福感に満たされていくようだった。
「そのタルヴォの旦那は、タイをシャラ族の立派な戦士として一人立ちさせたいわけか」
「元々がそういう部族だからな。最も強い者が部族を治める決まりなんだ」
「ん、そうなのか? 俺はてっきり世襲されるものとばかり」
「大体は世襲されるものだけど、誰もが族長に挑戦する権利は持っているんだよ。我こそはと思うものは族長に挑み、勝利すればそれが次の族長だ。単純だろう?」
「単純もなにも、そんなことで部族として成り立つのか?」
「族長が最強の者であれば良い、ただそれだけだ。サルジ族のように繁栄したわけでもないから部族の総数もたかが知れていたし、比較的穏健な者の集まりだしな」
シャラ族は争いを嫌う。力を求めるのは昔ながらの伝統といっても良い。
先祖がガイア帝国から分断し独立させられた当初は、貴族という家柄に生まれた一人の男が部族の長として立っていた。その娘があまりに美しく求婚者が続出すると、長は最も強い者に我が娘と自らの地位を授けると言い渡した。その古格が今もまだ残されているというだけだ。
そう簡単な昔話を語って聞かせると、机越しに香草茶を飲んでいたネグロはたいして興味もなさそうに相づちを打った。
「俺の目から見る限りでは、タイはそういった強さを求めてなどいないように感じられるが」
「私もそう思うよ。小さな頃はタルヴォと私の三人で良く組手をしたものだけど、自ら望んでという風には見えなかった。かといって不真面目というわけでもなかったけど」
「お前はもちろん自ら望んでいたんだろう?」
「私は早く強くなりたかったから」
自分が男であれば良かったのにと、クロエは良く思ったものだった。周りにもお前が男ならば良かったと、そう何度も言われて育ってきた。それがどうにも悔しくて、クロエは男にも負けないくらいに強くなることを自らの心に誓ったのだ。それで男になれるわけでもないというのに。
「俺にはそういう部族の誉れというやつがいまいち理解できないな。そんなに大事なものか?」
「伝統は廃れてしまえばそれで終わりだ。いずれ忘れ去られて、真実さえなかったことにされてしまう。そう考えれば、伝統は守られて然るべきだという主張も理解できないわけじゃない。だけどタルヴォの場合はただ単に、タイにはシャラの男として真っ当に育ってほしいと願っているだけなんだと思う」
「それが親心というものなのだろうな」
親無しの俺には良く分からない話だと言いながら、ネグロは立ち上がった。
そして、天井から下げられている乾燥した薬草に手を伸ばそうとしたとき、どすん、という鈍い音が隣の部屋から聞こえてきた。
ふたりは咄嗟に顔を見合わせた。ネグロはすぐさま踵を返し、隣の部屋へと駆け込んでいく。椅子を蹴るようにして立ち上がったクロエも、急いでそのあとを追いかけた。
部屋に足を踏み入れた途端その目に飛び込んできたのは、寝台から転がり落ちている青年の姿だった。ネグロはその傍らにすぐさま駆けつけ、うつ伏せに倒れている体を起こしてやろうとしている。
「大丈夫か?」
戸のない框に立ち尽くし、クロエはふたりの様子を呆然と眺めていた。
青年は小さく呻き、差し出されたネグロの腕に力なくすがっている。背中に腕を回されてどうにか立ち上がろうとするが、手に力が入らず、再びずるりと床に倒れ込んだ。
「クロエ、ぼさっとしていないで手を貸せ」
「……ああ、うん」
クロエの脳裏に一瞬だけ、青年の喉元に小刀を突き付けている自分の姿が過った。青年を殺そうとしていることは一目瞭然だ。無抵抗な体を押さえ付け、首を掻き切るなど簡単なことだろう。
「クロエ!」
「分かってる」
頭を振ってその幻影を脳裏から消し去ると、クロエは診察用の寝台を回り込んでネグロの隣に膝をついた。
ネグロの手によって仰向けにされた青年はうっすらと目を開いていた。僅かに茶色みを帯びたその瞳は、ぼんやりとではあるがまっすぐにクロエを捉えている。
「俺はこっちを支えるから、お前は頭の方を頼む」
こくりと頷き、クロエは青年の頭の方に回り込んだ。息を揃えてその体を持ち上げると、そのまま寝台に寝かせる。しかし、青年の眼差しはクロエから逸らされない。
「気分はどうだ? 俺の言っていることが分かるか?」
ネグロはクロエを押しやり、寝台の脇に膝をついた。
「……はい」
未だに朦朧としているのが分かるほど、青年の声は不自然に震えている。自由が利く方の腕を持ち上げると額に手の平を当て、ぼうっとした目で天井を見つめていた。
ネグロは青年の手首を取ると脈を測り、顔の前で左右に指を振る。青年はその指の動きを無意識に視線で追いかけていた。
「ここは……?」
「名もない小さな部落さ」
大丈夫そうだと呟きながらも、ネグロは寝台から落下した衝撃で青年の傷が開いたのではないかと気にしている。衣裳の上から手の平を這わせ、傷口の様子を伺っているようだ。
「ぼくは――」
「そこに突っ立ってる女が森の中で倒れていたあんたを拾って、ここまで背負ってきたんだ。感謝するんだな。さもなければ、あんたは犬狼に食い殺されていたぞ」
ふたりのことを高い位置から見下ろしていたクロエの頭のなかは、驚くほど真っ白になっていた。不思議なことに、殺意を追い出した頭では何も考えることができなかったのだ。ただ少しずつ動悸が激しくなっていくのは、複雑な感情が自らのなかでひしめき合っているからだろう。
この青年を殺したところで何の解決にもならないことは、クロエにも分かっていた。それどころかクロエの思惑は端から失敗に終わってしまう。
漸く見つけた父親への手掛かりを失うわけにはいかない。十五年の時を経て、やっと真実を問うことができるのだ。だがしかし、もし父親の処刑が執行されていたとしたら。父親の死を肯定する事実しか得られなかったとしたら、どうしたらいいのだろう。
十五年間信じ続けてきた父親の生を否定されてしまったら――そう考えると、クロエは自分の膝が震えだすのを感じた。そもそも父親の死を疑い、生きているはずだと信じ込んでいたのも、幼い頃のクロエがそうに違いないと盲信したからだ。ただ風が吹かなかったというだけで、確固とした証跡があるわけではない。
「それは――ありがとう、ございます」
その弱々しい声色を聞いて我に返ったクロエは、寝台から立ち上がろうと上半身を起こそうとしている青年の姿を見た。
「このような命を救っていただき、どのようにして礼を尽くせば良いか分かりません」
「あ、おい、まだ無理をするな」
そう言ってネグロが止めるのも聞かず、青年は寝台の上で姿勢を正すと膝を折って座った。そして深々と頭を下げようとするものの、脇腹の痛みで微かに唸り、顔を顰めて寝台に片手をつく。斜めになった体を支えることすら苦しそうだ。その顔面は蒼白で、脂汗が浮いていた。
「……別に、頭を下げられるほど大層なことをしたわけじゃない」
「いいえ、ぼく――私のような者の命を拾っていただいたこと、感謝いたします」
クロエは調子が狂わされるのを感じていた。全くもって想定外の反応だったのだ。
宮中で育った者の考え方などクロエには到底分かるものではないが、王家の者が平民を相手に遜るような物の言い方をすることも、手をついて礼を述べるなどということも、あり得ないということだけは理解している。それなのに目の前のこの青年は何の躊躇もなく、それらふたつのことをやってのけたのだ。
「こいつにとって人の命を救うというのは、そのときの気紛れで野良猫に餌を与える程度の感覚と同じなんだ。そう畏まってやる必要はない。さあ、そんなことより横になるんだ」
言葉をなくして立ち尽くすクロエを横目に見てから、ネグロはいやに明るい口調でそう告げた。青年に手を貸してその体を横たえさせると、手の甲を首筋に当てて熱を診ている。
「喉が渇いただろう? すぐに白湯を用意するから待っていてくれ」
ネグロはそう言って立ち上がると、頼んだと告げるようにクロエの肩に手を置いた。いや、もしかしたら余計なことはするなと暗に忠告したのかもしれない。その背中が隣の部屋に戻っていくのを待ち、クロエは再び青年に目を向けた。
黄色人種と呼ばれるわりには色白の肌に、今は伏せていて見えないが濃い茶色の目をしていた。良く整った眉は中央に寄り、顰められている。青紫に変色した唇は気分の悪さを如実に語っていた。
青年はクロエが思っていた以上に幼い印象が強かった。見たところ外見は十六、七というところだろうか。まだあどけなさが残っているようにも感じられる。子どもとまでは言わないが、大人にも見えない。
「……どうしてあんなところにいた」
クロエは目を伏せている青年に抑揚のない声色で訊ねた。すると青年は伏せていた瞼を上げ、声の聞こえた方へと目を向ける。しかし、何かを答えようとする気配はない。
「なぜ森の中で倒れていたんだ?」
もう一度そう問いかけると、青年はクロエから視線を逸らした。
「肩は矢に射られ、腹は刃物で切りつけられている。どこかで紛争にでも巻き込まれたのか? 言っておくけど、馬の背から落ちて、なんていう使い古された言い訳だけは聞きたくない」
「クロエ、そう威圧的になるな。彼は目を覚ましたばかりなんだ」
白湯を持って戻ったネグロがそうして助け船を出すが、クロエには取りつく島もない。青年をじっと睨んだまま、微動だにしなかった。
「すまないな、ええと――」
「……ロランです」
「ロラン? ああ、それがあんたの名前か。俺はネグロだ」
名前などどうでも良さそうな様子で自己紹介をしたかと思うと、ネグロは青年の首裏に手を差し入れて体を少しだけ起こしてやり、運んできた湯冷ましを口許に運ぶ。ロランと名乗った青年はゆっくりとそれを飲み干し、最後に大きく息を吐き出した。
「すみません、ありがとうございます」
「腹はどうだ、減っていないか?」
ロランは枕に頭を下ろしながら、力なく首を横に振った。クロエでさえも、ロランが食事のできるような状態でないことは分かる。けれどネグロは困ったように唸ったあと、そうだ、と言って腰を上げた。
「檉柳梅の蜂蜜がある。それを溶いたものなら口にできるだろう」
甲斐甲斐しく世話を焼きたがるネグロを横目で見送り、クロエは近くにあった椅子を引き寄せるとそこに腰を下ろした。足を組んで背凭れに体を預け、胸の前で両腕を組み合わせるとロランを見据える。
「私はネグロのように優しくはないからな」
「優しくなければ、見知らぬ男を担いで夜の森を抜けるなどということをしてはくださらない」
「……起きていたのか?」
「断片的にですが」
ロランは脇腹を押さえて再び呻いた。縫った傷口が引きつって痛むのかもしれない。けれど、痛いという言葉は一言も口に出さなかった。
「私は、あなたを男性かと」
「最高の褒め言葉だよ」
クロエの靴の踵が椅子の足に当たり、ごつん、と鈍い音が鳴った。
「ここはどこですか?」
意識がはっきりとしはじめたのだろう、今度は確かな声でそう問いかけてくる。クロエは少し考えてから答えた。
「真サルザ王国の領地内だ」
「そうですか」
その口調はどこか落胆しているようにも聞こえ、クロエは僅かに首を傾げた。
「どこを目指していた?」
「とにかく遠くへ行きたくて、無我夢中で馬を駆りました。森の中ほどまで着たところで突然馬が苦しみだして、それからのことは覚えていません」
「あの馬は恐らく心臓発作を起こしたんだ。休まず駆り続けたせいだろうな」
「かわいそうなことをしてしまいました」
ロランは呻きながらも身を起こそうとしている。クロエが見かねて立ち上がろうとすると、手の平を見せて結構ですと首を横に振った。
何とか枕を背にして座ることに成功すると、冷や汗の浮かぶ額を手の甲で拭う。しかし何か大切なことを思い出したのか、一瞬はっとした面持ちになると自分の胸に手を当てた。弄るように触れていたが、青白かった顔がますます蒼白になっていくのが見て取れる。
「荷物なら私の家に置いてある。あとで持ってくるよ」
「あ、ありがとうございます。それで、あの……」
「あの首飾りのことを言っているなら心配は要らない。背負うときに邪魔だったから外させてもらったんだ」
小さな表情の変化も見逃すまいと、クロエはロランの様子を注意深く観察していた。
ほっと息を吐き出したロランは、明らかに安堵しているようだった。青白くなった反動で、耳の先がほんの少し赤くなっている。頬の血色も良くなり、こけた面差しに僅かな生気が戻ったように感じられた。
「あまり質問攻めにするなよ、クロエ。話すだけでも体力は消耗するんだ。ましてや彼は目を覚ましたばかりで――」
「分かってるよ」
口煩いやつだと思いながら、クロエは隣の部屋から投げかけられる声に応じる。肩を落としてため息を吐いているクロエを、ロランは真っ直ぐに見つめていた。
「あなたは、あの首飾りを……」
「首飾りがどうかしたか?」
「……いえ、何でもありません」
クロエが咄嗟に白を切ると、多少の不安は働くものの強く追求することは避けることにしたのか、ロランは視線を逸らしてもう一度自分の胸に触れた。
その心許なさそうな様子を見ていると、クロエはなぜか幼い頃の自分を思い出した。父親のぬくもりを求めるように、犬狼の毛皮にしがみついて眠る夜が毎晩のように続いていた日々のことだ。
幼い自分に引きずられまいと、クロエは下唇を噛んで意識を取り戻す。
「じゃあ、私はそろそろお暇しよう」
そう言ってクロエが立ち上がると、用を済ませて部屋に戻ってきたネグロが名案だとばかりに同意した。
「ああ、そうしろそうしろ。お前がいると彼は休むに休めないだろうからな」
「あ、いえ、私のことでしたらお気になさらず」
「どこへ行っても邪魔者扱いされるだけだ、家に帰って昼寝でもしているよ」
こいつが目を覚ましたことを、セラトラにも知らせなければならないし――隣に立ち並んだとき、ネグロにしか聞こえてないような小声でクロエが呟いた。ネグロは横目をくれただけで、何も言わなかった。
「待ってください」
後ろ手を振って出て行こうとするクロエの背中をロランが引き止めた。
奥歯をぎしりと噛み締めながらも足を止めたが、クロエは振り返らない。框に手を添えながら立つ後姿に、ロランは再び声をかけた。
「本当にありがとうございました。このご恩はいつか必ずお返しします」
「……あまり期待しないで待つよ」
クロエはやはり自分がどうしたいのか、実際のところはどう感じているのかも良く分からないまま、投げ捨てるようにして言葉を吐き出すとネグロの小屋を後にした。殺したいほど憎いというのに、弱々しい姿を哀れにも思うのだ。それが人間の性であると言われてしまえば、そうなのかもしれない。
だがクロエには、その哀れみの感情が自分を裏切っているように感じられて仕方がなかった。
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