-8-
青年が目を覚ますのを待って、早三日が過ぎていた。
ネグロの話によると日に何度か瞼が持ち上がることはあっても、意識を取り戻すには至らないらしい。朧げな眼差しで周囲をぐるりと見回したかと思うと、途端に寝入ってしまうのだという。呼びかけにそれらしい反応を示すことはあっても、返事は期待できない状態のようだ。
一方クロエはというと、里の者たちがあくせく働いている姿を遠くからぼんやりと眺めながら、あまりの退屈さにうんざりとしていた。
少しだけならば大丈夫だろうと思い稲刈りの手伝いを買って出ようとしたところ、運悪く薬草摘みから戻ってきたネグロに見つかってしまい、こっ酷く叱られてしまった。
里の者たちはクロエが家の外で長椅子に座らされ、くどくどと説教を食らっている姿を不憫に思ったのだろう。お前はもう手伝わなくて良い、大人しくしていろと早いうちから釘を刺されてしまっていた。
「……退屈だ」
食事の手伝いさえ手出しさせてはもらえず、クロエは外の長椅子で膝を抱えるようにして座り込んでいた。家の外壁を背凭れにして空を仰ぎ見ながら、大きく息を吐き出す。どれほどこの平穏を待ち望んでいたことか知れないというのに、いざ手に入れてみると三日で飽きてしまうのだから現金なものだった。
「すっかり呆けているな」
ぽっかりと空に浮かんでいる雲をぼんやりと目で追いかけていると、道の方から呆れたという声をかけられた。
「随分と良いご身分じゃねぇか」
ゆっくりと視線を地上に下ろしていくと、小川越しにクロエを見ている男の姿があった。
「タルヴォ」
「鍛練も積まずに怠けているから怪我を負うようなことになるんだよ」
「タルヴォも犬狼五頭に囲まれてみればいい」
「俺がそんな失態を演じると思うか?」
もちろん思わない――クロエはそう考えながらも口には出さず、椅子から立ち上がって小さな橋を越え、タルヴォと呼んだ男の元へ歩み寄った。
タルヴォはタイの叔父で、見上げるほど背の高い屈強な大男だ。元々は色白の肌を赤く焼き、屈託のない笑顔を見せると口許から白い歯が覗いた。赤いざんばら髪を後頭部で小さく結わえ、そばかすの散った顔を剥き出しにしている。緑色の瞳は驚くほどまっすぐで、同時に恐ろしいほど鋭かった。
「まったく、俺の弟子が聞いて呆れるぞ」
セラトラの口から箝口令がしかれ、クロエがサルジ族の青年を連れて帰った事実は今のところネグロとタイまでで止まっている。元々が気の利くふたりだ、余計なことは吹聴しないだろうとクロエには分かっていた。
そうでなくとも、青年の肌の色を見ればある程度は予測できるはずだ。
サルジ族の間では奴隷を買うことが合法であり、そして売られている奴隷の多くはシャラ族の血を引く者を含む白色人種ばかりだ。しかも、この部落の者たちは多くがサルジ族を恨み、憎んでいる。クロエが森で行き倒れていたサルジ族の青年を拾い、連れ戻ったなどと知れれば恐ろしい事態になりかねない。黙っていることが得策だということは、四人全員が理解していた。
「タイはたいした傷でもなさそうだと言っていたが、どうなんだ?」
「ネグロが口煩すぎるんだよ」
「旅も良いがな、そう生傷が絶えないと身が持たねぇぞ。こう言ってやるのも癪だが、家で待っているセラトラの身にもなってやれ」
「もう諦めているものと思っているけど」
「諦めるなんてことがあるものか、自分の娘のことだぞ!」
自分はセラトラの娘ではないのだがと思いながらも、クロエは突然語気を強めたタルヴォを呆れたように見上げた。
「もしサカリがお前に悪影響を受けたらと思うと、父親としては気が気ではないんだ」
「サカリなら心配はいらないよ、間違っても私のようにはならないから。大人しい子じゃないか」
「お前も昔は大人しかっただろうが」
「控え目だっただけだ」
馬鹿を言え、口答えをするなと言うように、タルヴォはクロエの頭を掻き撫でる。クロエはその手を軽く叩き落とし、乱れた髪を撫で付けた。
「そういえば、サカリは今年でいくつになる?」
「あ? 何だ、急に」
「タイが今年で十五になるから、サカリはどうだったかと思って」
「あの子は今年で十二だ」
男とは違い、女は十三で成人だ。十三になった女たちは親の取り決めに従い成人した男と結婚することが常だったが、最近ではその習わしも薄れつつあった。昔ながらの慣例に従うならば、クロエは当の昔に結婚相手を決め、子を成していなくてはおかしい。
「だったら祝いの品は今度で構わないんだな……」
「何だって?」
「いや、こちらの話だ」
もし他にも成人する者がいれば、タイばかりを特別扱いしてしまったことになる。そうならずに済んで良かったと内心では胸を撫で下ろし、クロエはタルヴォがまた妙なことを言い出さないうちに話を切り上げようとした。
しかし、一瞬の判断の遅れが立ち去ろうとするクロエの足を引き留めた。
「お前が連れてきたあの男のことだがな」
「――へ?」
タイに限って話すわけがないと信じきっていたクロエは、タルヴォの思わぬ言葉にすっとんきょうな声をあげてしまった。
ここは白を切っておいた方が良いのだろうか、それとも素直に認めておくべきなのだろうか。瞬時に頭を悩ませながら黙していると、タルヴォが不審そうに眉を顰めた。
「何て声を出しやがる」
「あ、いや、なんでもない」
慌てて首を振るクロエをそれでも疑わしげに見ていたタルヴォだったが、またすぐに難しい表情を作った。
「お前が連れてきた、あのネグロとかいう男のことだ」
「……」
すっかりサルジ族の青年のことを言っているものとばかり思っていたクロエは、安堵のあまり思わず言葉を失ってしまった。良かった、やはりタイはまだ誰にも話してはいないのだと、人知れず息を吐く。
しかし、タルヴォはクロエの様子などには構わず、今度こそ先を続けた。
「あいつは一体いつまでこの里に居座るつもりなんだ?」
「は?」
クロエは全く別の意味で絶句すると、大きく見開いた目でタルヴォを見つめた。するとタルヴォは更に表情を険しくさせ、ネグロの住まう小屋を忌々しげに横目で睨み付けた。
「あいつが来てからというもの、タイはあの小屋に入り浸ってばかりだ」
「良いじゃないか、別に」
「良いわけがあるか! もうすぐ十五になるというのに、タイはまだ人並みにも戦えないんだぞ。鍛練もせず怠けてばかりいるようではシャラの名折れだ。最強の戦闘部族が聞いて呆れる」
「武闘派であることばかりがシャラの誉れとは限らないんじゃないか?」
「お前が! 俺の弟子であるお前がそんな口を利くのか!」
タルヴォは本気で憤慨していた。まるでクロエに覆い被さるような勢いで前のめりになり、太く武骨な指先で額を押さえ付けてくる。
「大体、お前があんなやつを連れてくるから悪いんだ」
「タルヴォ、もう三年も前の話だよ。何を今更――」
「今更なんかじゃない。俺はずっと考えていたんだ、よそ者がここにいて良いわけがねぇとな。これまでにだって何度セラトラに言って聞かせたか分からんぞ。それなのにセラトラは、あれはクロエが連れてきたものだからクロエに言えとしか言わない。だが、肝心なときにお前はいつもいないじゃないか!」
怒鳴り散らすタルヴォの声は自身の体と同じように大きく、存在感を主張していた。周辺を行き来している者たちは、また始まったという目でふたりを眺めている。この里にとって、ふたりの口喧嘩など久しぶりということはあっても、珍しいことでは決してないのだ。
「大人げないな、タルヴォ。世話になるときだけ薬師を頼って、あとはよそ者扱いか?」
「俺はあいつに頼った覚えなどないぞ」
「サカリが熱を出して寝込んだときに、ネグロの煎じた薬を飲んだはずだ。あのときは効果覿面で翌日にはすっかり熱が引いた」
「あれは俺じゃなくてモウラが――」
「タルヴォでもモウラでも同じことだ」
ため息混じりに言うクロエを、タルヴォは忌々しげに見る。
「ネグロにはもう行く場所がないんだよ、タルヴォ。ここにいてなぜ悪い?」
「ここを何とか人が住める里にするまで十年かかった。この里はシャラのものだ。よそ者はいらない。よそ者は災いを呼ぶ」
「理由になっていないし、そもそもここはシャラのものとは言えない。真サルザ王国の領地を勝手に拝借しているだけだ」
「元々はシャラのものだった!」
「今は、サルジのものだ」
激昂するタルヴォとは対照的に、クロエは酷く冷静で落ち着き払っていた。
それは性格ばかりではなく、武術の性質にも反映されている。クロエの術はタルヴォのように剛腕からは程遠い。どちらかといえば水の流れるような静けさを思わせた。クロエの師は確かにタルヴォだったが、幼い頃に目にしていたセラトラの身のこなしが基盤になっているのだろう。
「それに、ここが自分たちの里だからといって、よそ者を追い出そうとするのはおかしい。そんなことをすれば、やっていることはサルジと何も変わらないよ」
「俺のことでサルジを引き合いに出さないでくれ、反吐が出る」
「だったら、よそ者にももう少し寛容になることだ」
掴みかかって来るのではないかという迫力にも臆することなく、クロエはタルヴォと見合っている。
クロエの硝子玉のような瞳に見つめられたタルヴォは、何かを言いかけて口を開いた。だが、意気阻喪したようにため息を吐くと、額に突きつけていた人差し指でクロエの頭を軽く小突いた。
「ごちゃごちゃ言われるのが嫌なら、俺の前をうろつくなと言っておけ。それから、タイに妙なことばかり吹き込むなってな」
「……分かったよ」
言ったところで何かが変わるとも思えなかったが、クロエはそう返事をしておいた。
タルヴォのようによそ者を受け入れたがらず、はじめはネグロの存在を毛嫌いしていた者たちにも、今では徐々にではあるものの受け入れようという態勢が築かれつつある。
何事にもまめで面倒見が良く、気の利くネグロはいずれ里の女たちに気に入られるだろうと、クロエはずっと思っていた。そしてそれは現実となり、女たちは怪我や病のたびにネグロを頼るようになっていた。
タルヴォは妻のモウラがネグロを気に入っている手前、表立って不満を漏らすことができないのだ。シャラ族の間では強い妻のいる家庭が円満な夫婦関係を築けるといわれ、彼の家庭も例に漏れずタルヴォは夫人に頭が上がらない。その上娘のサカリを溺愛しており、密かに甥のタイと結婚させる計画を立てているのだという。だから余計に、タイにはシャラの男らしく勇ましい戦士に育ってほしいと考えているのだろう。
「でも、困ったな」
三年前に連れてきたネグロにでさえ、タルヴォは未だ敵対心を露にし続けている。しかも、よそ者であるというだけでだ。もしそのネグロの小屋にサルジ族の、それも王家の人間がいると知られてしまったらと思うと、クロエはぞっとしてしまった。
さて、どうしたものか――クロエは頭を掻きながら、困ったように苦笑を浮かべる。
タルヴォは既に稲刈り作業をしている集団のなかに混ざり、鎌を振るっていた。クロエとの会話を引きずらず、隣り合っている男たちと口を利いては機嫌良く笑い声をあげている。
男たちが刈り取った稲を束にして干し藁で結び、それを子どもたちがせっせと稲木まで運ぶ。それを受け取った女たちが手際よく稲木に引っ掛け、口ばかりを動かしている男たちを焚き付けていた。
いつもと同じ、秋になると毎年訪れる忙しいながらも和やかな風景だ。だがしかし、その風景の裏側には地雷のような悪夢が密やかに潜んでいる。
「困った……」
クロエはもう一度そう呟くと、踵を返して小川を渡った。
とりあえずはネグロの元へ行き青年の具合を問うことにしようと、頭痛のする頭を抱えながら水田の畦道を進んだ。
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