-7-

 夢を見ていた。恐ろしい夢だ。

 そうとは分かるのに、目が覚めてみると夢の内容はひとつも覚えていない。そういうことが、クロエには何度もあった。飛び起きると同時に肩が痛み、噛み締めた歯の隙間から苦痛の声が漏れる。酷い動悸がしていた。額には汗が浮き、呼吸も乱れている。

 まただ――クロエは思った。

 どこにいてもこの感覚は付きまとう。一体何に怯えているのだろう。その答えが分からないうちは、いつまでもこの夢に魘され続けるのだという漠然とした確信だけはあった。

 衣裳の上から胸を押さえ、クロエは動悸が治まるのを待った。流れるほどに浮いた額の冷や汗を拭い、寝台から立ち上がる。喉がからからに渇いて、水を欲していた。

 窓の外は既に真っ暗だった。どこまでも静まり返っている。遠く聞こえる犬狼の遠吠えに耳を傾けながら、肌寒さを覚えて毛布を肩から羽織った。あの声はまるで仲間の死を悼んでいるようにも聞こえ、いつもより物悲しげに思えた。

 クロエは毛布を被った格好のまま部屋の戸を開ける。すると、隣の居間からは暖かな空気と橙色の灯りが冷えた部屋のなかに溢れてきた。


「ああ、起きたのか」


 居間ではセラトラが椅子に腰を下ろし、煉瓦で囲った暖炉の炎をじっと見つめていた。しかしクロエが起きてきたことに気が付くと、肩越しに後ろを振り返る。


「寒くなかったかい?」

「うん、大丈夫」

「そうか」


 後ろ手に戸を閉めたクロエはそのまま土間に降りていき、水瓶の中から柄杓で水を掬い取った。昼間使った漆の器に水を移し、喉が鳴るほどの勢いで一気に飲み干す。そして二杯目はゆっくりと時間をかけて飲むと、大きく息を吐いて器を置いた。


「ごめん、少し寝たらすぐに起きるつもりだったんだけど」

「別に構わないよ。疲れているのだろうから、無理に起こす必要はないと皆も言ってくれていたからね」


 木工仕事をしていたようで、セラトラが座っている周囲には木屑が散らばっていた。机の上にはまだ作りかけの木箱が、組み立てられる前の状態で並べられていた。


「まだ寝ないの? 夜更かしは身体に障るよ」

「里によそ者がいるというのに、部族を預かっている私が眠ってもいられないだろう?」

「あれに誰かを襲えるような力が残っているとは思えないけど」

「手負いの獣ほど油断は出来ないものだよ」


 居間の手前に立ったまま動かないクロエを横目に見たセラトラは、何も言わずに席を立つと暖炉の炎を小さくさせた。部屋は僅かに暗くなったが、手元は燭台の蝋燭が照らすので問題はないようだった。


「それにしても、君はいつも大変なものばかり拾ってくるね」

「そうしたくてしているわけじゃないんだ」

「だったら放っておけばいいものを、君はそうすることができないんだから」


 セラトラは呆れたとばかりに息を吐き出し、椅子に座り直すと作業を再開させる。がり、がり、と木の削れる音が静寂の中に溶け込んで、クロエは不意に昔のことを思い出した。

 クロエがまだ幼い頃だ。今日と同じように、耳鳴りがするほどの静寂に支配されていた夜のことだった。

 がり、がり、と木を削る音がして目を覚ました。犬狼の毛皮は優しく小さな体を包み込んで、またすぐに眠りの世界へと誘おうとした。けれど、幼いクロエはそれに抗うと、寝床を這い出して音の聞こえる方へと歩いていった。


「……父さま?」


 灯りの中に父親の大きな背中があった。何かを抱え込むように背中を丸くして座り、がり、がり、と音を立てて木を削っている。


「何をしているの?」

「ああ、すまない。起こしてしまったか」


 手にしていた小刀と木片をその場に置くと、父親は少し照れくさそうな顔をしてクロエを振り返った。


「クロエに良いものを作ってやろうと思ってな」

「良いもの?」

「見せてあげよう。こっちへおいで」


 微かな灯りにも眩しさを覚える目を擦りながら、クロエは言われるがまま父親に近付いていった。差し出された手を掴むと、膝に抱きかかえられる。


「ほら、ごらん。何に見える?」

「……お馬?」


 木彫りの小さな馬はまだ作りかけで、頭と前足まではあらかた完成していた。器用だった父親の木彫り細工はとても精巧で、なびく鬣には躍動感を覚えるほどだった。

 子どもたちの遊びといえば藁を絡ませて引っ張り相撲をしたり、誰が一番早く最も大きな牛の尻に触ってこられるか、という程度のものしかない。誰かが何か特別な遊び道具を持って現れただけで、子どもたちは羨望の眼差しを注いだ。

 その中でもクロエは変わった子どもで、同じ年頃の子どもたちと一緒にいることよりも、大人たちの傍にいることを好んでいた。早くから字を覚えたがり、武術を学びたがった。大人たちは自分たちの仕事の合間に相手をしてくれ、それぞれが可愛がってくれるのをクロエは心地良く感じていた。

 しかし、父親の考えは違っていたのだろう。大人たちに囲まれているより、同じ年頃の子どもたちと一緒に遊んでもらいたがっていたに違いない。だからこそ、小さな木彫りの馬を遊び道具として作ってくれたのだ。


「見ていろ、こうやって作るんだ」


 父親はクロエを膝に抱いたまま、小刀と作りかけの馬を手にして木片を削っていく。しかしクロエは完成を見届けることなく、その腕に抱かれたまま眠ってしまった。翌朝目を覚ましてみるとクロエの体はいつもの寝床にあり、その枕元には完成した馬の木彫りがそっと置かれていた。

 しばらくが過ぎて馬よりも犬狼の方が好きだとクロエが告白すると、父親は苦笑を見せた。けれどその数日後、棚に置かれた馬の隣に犬狼が並べられていたことを思い出す。


「――クロエ?」


 物思いに耽っていたクロエを見て、セラトラは不思議そうな顔をしていた。何でもないと首を横に振り、向かい合う位置にあるもうひとつの椅子に腰を下ろす。


「そういえば、タイに本をあげたんだって? とても喜んでいたよ」

「ああ、うん」

「でも、クロエがタイの成人を覚えていたなんて意外だね」

「……成人?」


 クロエはセラトラの言葉に目を丸くする。するとセラトラは木を削る手を止め、呆れたようにクロエを見つめた。


「覚えていたのではないのかい?」

「すっかり忘れていた」

「君の場合は忘れていたのではなくて、考えもしなかったの間違いだろう?」


 返す言葉もなく黙り込むしかないクロエは、机の上の木屑を指先でつまむと、それを弄びながら小さく咳払いをした。居心地が悪そうに視線をさ迷わせていると、セラトラは作業を再開させる。


「君が森に置いてきた犬狼だけれどね」


 間もなくして、セラトラが何でもないことのように唐突に口を利いた。クロエはそっぽを向いていた目をセラトラに戻し、姿勢を正した。


「クロエが眠っている間に供養は済ませておいたよ」

「……そう」

「毛皮はタイが干して焚き染めておいてくれるそうだ」

「私はもう毛皮を持っているから、誰か別の人にあげれば良い」

「自分が手にかけた犬狼の責任は自分で負わなくてはね。その罪から目を背けることはできても、逃れることはできないのだから」


 クロエの持っている犬狼の毛皮は父親から譲り受けた、幼い頃から使い続けているものだ。

 十五年前、大人たちだけがあの場所に戻って惨状を目の当たりにしたが、価値あるものはほとんどが持ち出された後だったという。それがサルジ族の仕業だったのか、山賊が荒らしていったのかは分からない。

 けれど、大人たちは思い出の品だけでもと燃え残ったユルトを掻き分け、セラトラはクロエに毛皮を持ち帰ってくれたのだった。


「だけど、あの犬狼の死はクロエが連れ帰った彼にも責任はある。高値で取引されるものだ、喜んで受け取ってくれるのではないかな」

「そういうのは嫌だ。金のために殺したわけじゃない」

「そんなことは当たり前だよ」


 セラトラの鋭い眼差しが一瞬だけクロエを睨んだ。たったそれだけで心臓を射抜かれたような寒々しい心地がするのだから、これ以上不愉快な思いをさせるのはやめておいた方が良いに決まっている。

 それなのに、クロエにはセラトラに話しておかなければならないことがあった。この懐に隠したままの、首飾りのことを話さなくてはならない。

 どう切り出したものかと悩んでしまうのは、問題の上に問題を積み重ねることにしかならないからだ。この忙しい時期に何をしてくれるのだと罵られかねない。だが、黙っていたところでいずれ知られてしまうのならば、自分の口から語るのが一番だろう。


「セラトラ」

「何?」

「これ、なんだけど」


 クロエは言いながら懐から首飾りを取り出した。それを木屑でいっぱいの机の上に置くと、セラトラはその目を向ける。

 それは金剛石の首飾りだった。親指の腹よりも一回り大きな青い金剛石だ。白金の鎖に繋がれた金剛石の裏側に、クロエの見た紋章がある。


「これは?」

「あの男が持っていたものだ。裏を見て」


 クロエがそう促すと、作業を中断させたセラトラは首飾りに手を伸ばした。どこまでも底の見えない透き通った湖のような色の金剛石に触れ、しかしセラトラは弾かれたように手を引く。けれど、すぐに鎖を掴んで金剛石を顔の前に掲げ、眉間に微かな皺を寄せた。


「……サルザ王家の紋章だね」

「どう思う?」

「どうっていうのは?」

「あの男が王家の人間だと思うかどうか」


 クロエの問いにセラトラはすぐには答えなかった。ただ、しげしげと首飾りを凝視している。その眼差しはここではない、どこか遠くを見つめているようにも感じられた。


「これは彼のもの、と言えるかどうかは分からない」


 クロエはセラトラの言い様に眉を顰める。

 セラトラの指が一瞬だけでも青色の金剛石に触れたとき、間違いなく何かを見たと思ったのだ。


「紋章を施されし青の石は領土を統べる王者が擁するべし、とここに書かれている」


 そう言いながら、セラトラは首飾りをクロエに向かって放った。それを片手で受け止めたクロエは宝石の裏を返し、セラトラが読み上げた文章を探す。

 紋章を縁取っている線だとばかり思っていたものが、細かく彫り削られた文字だったようだ。確かに、セラトラが読み上げた通りの文面がそこには記されていた。


「書かれていることが正しければ、この首飾りを所有できるのは国王のみということになる。現在の真サルザ王国の国王陛下は齢五十を越えていたはずだ。クロエが連れてきた彼は――」

「私と同じか、いくらか若いくらいだと思うけど」

「それなら彼が国王足り得ないことは明らかだ」

「だからって王家の人間じゃないとは言い切れない」

「私は彼が王家の人間でないと口にした覚えはないよ」


 話は最後まで聞きなさいと言うように、セラトラは小さく息を吐いた。


「外界のことなら私よりも君の方が詳しいはずだけれど、サルザ王家には五人の王子と二人の姫がいるそうだね」

「うん、確か」


 この旅の帰りにもガイア帝国から真サルザ王国を抜けてきたが、都の側は故意に通らず戻ってきた。しかし王位争いが飛び火し、内紛が頻発しているという噂はクロエも耳にしている。


「王子か姫かは分からないけど、王位争いで何人かが暗殺されたとかどうとかって」


 帰り道は既にへとへとで、周囲の噂話を真剣に聞く余裕さえなかったのだ。それに食料と飲み水をいくらか補充した後は、すぐに町を離れてしまった。


「彼はその中のひとりだ」

「え?」

「私にはそうとしか言えない」


 セラトラはそう言うと、まるで穢らわしいものでも見るような目でクロエの手の中にある首飾りを睨んだ。クロエは訳が分からずに絶句し、手元の首飾りとセラトラを交互に見る。


「……宝石に触れたとき、何を見たの?」

「何も」

「嘘だ」

「私は何も知らない」


 そう言って席を立ったセラトラは、木工道具や木屑はそのままに居間を去っていこうとする。


「セラトラ、待って――」

「机回りは明日起きたら片付けるから、そのままにしておいて構わない。その首飾りは私の目の届かないところにやってくれ」

「まだ話は済んでいない」

「頼んだよ」


 セラトラが口を閉ざすと決めたのならば、その口を開かせることは容易なことではない。そう分かっていても、クロエは椅子から立ち上がって叔父の背中を追いかけずにはいられなかった。


「あの男がサルザ王国の王子だと言うの?」

「私は何も知らないと言ったはずだよ」

「だったら、あの男の一族が父さまを連れ去ったんだ」

「それは君の憶測に過ぎない」

「でも、あの男が王族の家系だというならそのはずじゃないか!」

「とにかく、現段階で私の口から言えることは何もない。真相を知りたければ本人が目を覚ますのを待てばいい。そのつもりで連れ帰ったのだろう?」

「もしこのまま目を覚まさなかったら? あのまま死んだら、真実はまた遠退いてしまうんだ。私は本当のことを知りたいだけなのに――!」


 クロエはセラトラに追い付くと、その背中に掴み掛かろうとした。

 だが、セラトラは背後に目を向けることもなくするりと身をかわすと、そのまま自分の部屋に姿を消す。目と鼻の先で戸を閉められたクロエは額を強打し、その場に蹲ると声も出せずに身悶えた。


「――っ」


 心を掻きむしられるようなもどかしさしか感じられず、クロエは思わずセラトラの部屋の戸を力一杯に殴り付けようとした。しかし寸前のところで思い止まると、振り上げた拳を一気に振り下ろす。

 その手に握られている首飾りを、力の限り睨め付けた。行き場をなくした怒りの感情を吐き出すこともできず、大きく叫び声をあげたくなるほどの息苦しさを覚える。セラトラとならばこの思いを共有することができると確信に似た気持ちを抱いていた分、その失望は大きかった。

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