-6-
着替えを済ませてから家に戻ってみると、そこにセラトラの姿はなかった。
しかし、居間には食事の支度が整っており、食卓に置かれている鍋はまだ熱いほどだった。梅の実を塩辛く漬けたものや、小魚の骨を一度油で揚げ、それを甘辛く炒めたものなどの付け合せも用意されている。
「……セラトラ?」
部屋にいるのかと思い声をかけてみるが、返事はない。
入れ違いでどこかへ出てしまったのだろうかと思いながら椅子に腰を下ろしたクロエは、我慢できず敷物の上に鎮座している鍋の蓋に手を伸ばした。ふわりと湯気が立ち昇り、甘く蒸されたような香りが漂ってくる。芋粥だった。やわらかく炊かれた白米の中に、小さく切り分けられた黄色い芋が鮮やかに見える。
黒い漆器の碗を手に、クロエは粥を取り分けた。湯気に顔を埋めると、えも言われぬ幸福感を覚える。温かい食事など何日ぶりだろう。唾液が口の中に滲み、胃の辺りが僅かに縮むような心地がした。
同じく漆で加工された匙で粥を掬うと、クロエはそれを口に運んだ。一口含むと同時に微かな塩気を感じ、芋の甘味が鼻を抜けていく。
美味しかった。思わず笑みがこぼれるほどだ。これを食べると、帰ってきたのだという実感が湧く。
食事を続けながら窓の外に目を向けると、道を歩いてくる人影が視界に現れた。誰も彼もが服を濡らしていることに首を傾げていると、人影から離れて道を曲がり、こちらに駆けてくるタイの姿が目に入った。そのままやってくるのかと思いきや、タイは水車小屋を通り過ぎてネグロの小屋に走っていく。
鍋に炊かれていた粥は控え目な量だったが、今のクロエには丁度良いものだった。米粒ひとつ残さずにすっかり平らげると、クロエは汚れ物を洗うために椅子から腰を上げる。すると、ネグロの小屋から戻ってきたらしいタイが家の中に入ってきた。
「忙しそうだな、タイ」
「誰のせいだと思ってるの?」
「さあ」
分からないと首を傾げるクロエを見て、タイは憮然とした表情を見せる。それから水瓶に溜めてある水を使って食器を洗い出したクロエの隣に立ち、話し出した。
「セラトラとタルヴォが話しているのを聞いたんだけど、これから何人かで森に入るんだって」
「森に?」
「死んだ犬狼をそのままにはしておけないだろうってさ」
土鍋や漆器の碗、匙などを木の皮で編んだ笊の上に反して置く。濡れた手を麻の手巾で拭い、クロエは小さく息を吐いた。
「クロエも一緒に行きたがるんじゃないかと思って、大急ぎで走ってきたんだよ」
「それはご苦労だったね。でも残念だけど、私は一緒に行かないほうが良い」
「どうして?」
「犬狼は私の匂いを覚えているはずだ、昼間だからといって安心は出来ない。それに、ネグロから安静にしているように言われているからね」
「なぁんだ、だったらわざわざ走って知らせに来ることなんてなかったじゃないか」
むっとするタイを横目に見て苦笑いを浮かべたクロエは不意に思い出して、土間を上がったところに置いたままになっていた荷を手に取った。その中から絹の巾着を取り出すと、それをタイに向かって差し出す。
「……これ、なに?」
「ガイア帝国にいたとき、とある要人の警護を頼まれて、その時にもらったんだ。タイにあげるよ」
タイは首を捻りながらそれを受け取ると、巾着の中から本体を取り出した。
その手に取ったのは、一冊の分厚い本だった。表紙は良くなめした牛革が用いられ、百頁ほどの文章が羊皮紙に記されている。
それを目の当たりにした途端、タイの目の色が変わった。
「クロエ! こ、これ!」
「うん?」
「薬草の植物図鑑だよ!」
「ああ、そうらしいね」
「そうらしいね、って」
タイはクロエの反応を見て絶句してしまっている。
「原本ではなく写本だという話だけど、有名な学者先生のものだそうだ」
「これがどんなに高価なものか分かってる!?」
「分かってるよ。でも、私には必要のないものだ。タイが要らないなら、それはネグロに――」
「ああ、駄目! いらないなんて言ってないよ!」
ネグロがこの部落で共に暮らすようになってからというもの、タイが薬師という仕事に興味を持ち始めていることはクロエも気がついていた。
雇い主は賊から大量の荷と命を護ってくれた礼として多額の謝礼金を支払うと言ったが、クロエはそれを受け取らなかった。その代わりとしてこの本を譲ってくれないかと交渉したところ、要人は快く差し出してくれたのだ。
タイは照れ笑いを浮かべながら、その本を胸の前で大切そうに抱き締めていた。微かに頬を赤らめてクロエを上目遣いに見上げ、へへっ、と笑う。
「ありがとう、本当に嬉しい」
「喜んでもらえて良かったよ」
荷の中には、他にも方々へ届けて回らなくてはならない代物が詰められている。手に入りにくい生薬や植物の種、手作業に用いることの多い小刀も喜ばれるだろう。女たちには櫛や髪飾りを買ってくることもあった。
これは、自分ひとりが好き勝手なことばかりをしている後ろめたさから、ご機嫌取りに行っていることなのかもしれない。そう感じながらも、部落の者たちが喜んでくれる顔を思い浮かべるだけで、クロエは旅先で見かける物珍しい品に手を伸ばしてしまうのだ。
「そういえば、みんなは川で何をしていたんだ?」
「釣りに行っていたんだよ、魚が遡上してきているからね。冬籠りの準備もしなくちゃ」
「ああ、もうそんな時期か……」
「そうだよ、明日からは稲刈りだってはじまるし」
森の木の葉が色付けば、後はもう冬が間近に迫るばかりだ。この辺りは雪が多く冬場の活動は最低限まで制限される。春までの食料は今のうちに十分蓄えておかなくてはならない。
冬越えに足りないものがあれば、本格的な冬が訪れる前に男連中が陣を組み、収穫したばかりの新米や金目のものを持って一番近くの町まで出掛けていくのだ。一番近くとはいっても数日の距離で、行き来にはそれなりの危険が伴う。動物もそうだが、問題は山賊の類いだ。鍛えられた男たちにとっては山賊など取るに足りないが、極力目立たないよう努めている者たちにとっては避けて通りたい道だった。シャラ族の生存者がここに部落を構えて暮らしていることは、知られてはならない。
「っと、僕もそろそろ戻らないといけないんだった。午後からは川へ砂金取りに行くんだよ」
「昨日の雨で水量が増えているだろう?」
「釣りに行ってた大人たちが大丈夫だろうって。クロエも来る?」
「いや、遠慮するよ」
クロエは堪えきれずに欠伸を漏らし、目尻に浮かんだ涙を拭った。
「私は少し眠らせてもらうから、気を付けて行っておいで」
「うん」
タイはそう頷くなり出て行こうとしたが、玄関の外で足を止めるとこちらを振り返った。
「クロエ」
「ん?」
「これ、本当にありがとうね」
とても照れ臭そうにそう言ったかと思うと、タイは返事も待たずに全速力で走って行ってしまった。クロエは道を駆けていく背中が小さくなり、一軒の家に入っていく姿を見届ける。
タイは生まれる前に父親を、生まれてすぐに母親を亡くし、今はクロエと同じように叔父の家で一緒に暮らしていた。そういう自分と似たような身の上だからこそ、どうしても気にかけてしまうのかもしれない。
クロエはそのようなことを考えてからもう一度大きく欠伸をし、三月も戻ることのなかった自らの部屋に向かった。
その部屋はとても質素なものだった。木の机に椅子、古びた燭台、棚はがらんどうとしている。無駄なものは何ひとつない。必要なものは全て持ち歩いているからだ。クロエにとって大切なものなど、ひとつの麻袋を一杯にするほどもない。
埃っぽくなっているだろうとクロエは考えていたが、どうやらセラトラが部屋の掃除をしてくれていたようだった。寝台は整えられ、新たに毛布も準備されている。
クロエは、犬狼の毛皮が敷かれている寝台の上にゆっくりと身を横たえた。随分薄れてはいるものの、毛皮に焚き染めた白檀の甘い香りが鼻孔を擽る。その香りがクロエの意識を徐々に眠りの世界へと誘っていき、足許から深く沈んでいくような感覚を与えた。
「――まったく、手のかかる子だね」
頭の片隅で覚醒している意識の部分で、誰かがそう言うのをクロエは聞いたような気がした。丸くなって眠る体にそっと毛布が掛けられるのが分かる。それでも瞼を持ち上げることはできなかった。体が沈み込むように重く、指先さえ動かすことができない。
「よくおやすみ、次に目が覚めるときまで」
優しく囁くような声がそう告げる。それを遠くのほうで聞きながら、クロエは今度こそ誰に邪魔をされることもない暗く深い眠りの深淵へと、あっという間に落ちていった。
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