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 ネグロの住んでいる小屋は水車小屋のすぐ傍にあった。

 以前は米や麦などを蓄えておくための貯蔵庫として用いられていたが、後に水車小屋が建てられたために無人のまま放置されていた。所々壊れてはいたがネグロが自らの手で修復し、そこへ住むようになって三年近くが過ぎている。

 クロエがネグロとはじめて出会ったのもその頃だ。以前旅をした、現在は東ガイア地区となっている国境近くの町で、ネグロは薬師として働かされていた。しかし、その肌の色で人々からは辛く当たられ、休む間もなく薬を煎じさせられては最低限の食べ物しか与えられず、酷な生活を何年も送っていたという。

 当時は丁度領地争いの最中にあり、町は混乱状態だった。足枷をつけられたネグロは逃げ出すことも出来ず、それを救い出したのがクロエだったのだ。そして行き場をなくした男を、この里に連れてきた。

 水田のあぜ道を歩いて小屋の前までやってきたクロエは、半開きになっていた戸を叩いた。


「ネグロ、入るよ」

「ああ」


 ふたつしかない部屋の奥の方から、ネグロの声が聞こえてくる。

 小屋の中に足を踏み入れるとまず感じられるのは、独特な濃い香りだった。壁には上から下まで棚が取り付けられ、白い陶器の壺がいくつも並べられている。室内に漂っている匂いは、その壺の数々に保存されている薬草や香草のものだ。それ以外にも、乾燥途中の草木が天井から大量に下げられていた。

 後ろ手に戸を閉めたクロエは、部屋の中央に陣取っている机に目をやる。そこには薬研などの器具が使いかけのまま放り出され、その周囲は作りかけの生薬などで散乱していた。竈には火が焚かれ、湯がぐつぐつと音を立てて沸いている。


「そっちに行っても大丈夫か?」

「ああ」


 何かの作業に集中しているのか、ネグロの声はどこか上の空だ。それでも、戸のない布で隔てられているだけの框から隣の部屋をひょっこりと覗き込むと、ネグロはクロエの姿を横目に捉えた。

 短い縮れ毛の頭に帽子を被り、両方の耳たぶには赤い小さな宝石が輝いている。透き通るような水色の瞳は、いつ見ても神秘的だった。


「脇腹の傷は刃物で切りつけられたもののようだが、幸い内臓までは到達していないようだ」


 衣裳を破かれ上半身を裸にさせられた青年は、診察用の寝台に横たえられてネグロの治療を受けていた。すっかり血の気を失い、ぐったりとしている様は酷く痛々しい。


「死にそうなのか?」

「お前な……」


 クロエの心無い一言にネグロは面食らった顔をする。


「だったら言い換える。助かりそうか?」

「脇腹の傷口は縫い閉じた。肩には矢を受けて、それを無理やり引き抜こうとしたらしい。中には折れた矢尻がまだ残されている。出来る限りの手は尽くすが、今はまだ何とも言えないな。傷もそうだが問題はこの高熱だろう。妙な感染症にかかっていなければいいが」


 脇腹は糸で縫い閉じられた後、地黄で手当てをされた痕が見て取れる。アカヤジオウという植物の根を地黄といい、生薬として様々な怪我や病に用いられていた。外用すれば患部の熱を取り去り、肉芽を形成してくれる作用があるといわれている。


「一応ここへ来るまでに痛み止めと解熱の薬は舐めさせておいたけど、あまり用をなさなかったみたいだな」

「紛い物でもつかまされたんだろう」


 微かににやりと笑ったネグロは、クロエを置いて隣の部屋に姿を消す。

 刃金同士が触れ合うような高い金属音を聞きながら苦笑を浮かべたクロエは、後を追いかけることはせずに近くの椅子に腰を下ろした。すると、漸く一息吐けたような気がしてため息が漏れた。


「ネグロの煎じる薬が当該一だよ」

「珍しく嬉しいことを言ってくれるじゃないか」

「言わなくても分かっているものとばかり思っていた」

「あいにく俺はお前の叔父上のような霊異な能力は持ち合わせていないものでな」


 シャラ族には稀に、霊異な能力を持って生まれてくる者がいる。そのような者たちは写鏡と呼ばれ大切に扱われた。

 写鏡は自らの魂の目で他者の心を読み、真実を引き出す。彼らの前では何者も己を偽ることが出来ない。真サルザ王国やガイア帝国では畏怖の対象として隔離され、目を潰されることさえあるほどだった。

 セラトラはその能力を、その身に宿らせている。嘘は絶対に通じないのだ。


「だが、いくら世辞を言ってもお前の治療は後回しだぞ」

「早く寝台で横になって休みたいんだけど」

「少し我慢していろ」


 しかし、椅子に座った格好のままうたた寝をしたことは言うまでもないだろう。怪我を負っているにも関わらず、男を背負って夜通し歩き続けたのだ。ぼんやりとしていた意識はあっという間に暗転し、すとんと眠りのなかに落ちてしまう。それに購う術を、クロエは持ち合わせていなかった。


「あれ、クロエってばまだ寝ているの?」


 浮き沈みを繰り返している意識の彼方で、何者かがそう言う声を聞いた。よく知っている声のはずなのに、それが誰のものなのか分からない。肩のじくじくとした痛みよりもまどろんでいる心地よさの方が勝り、クロエはいつまでもこの感覚に抱かれていたいと思う。


「もう半刻もこの状態のままだ」

「みんながクロエに会いたいって外にいるんだけど、仕方がないね。戻って後にするように言ってくるよ」

「ああ、そうしてやってくれ」


 足音が早足で走り去っていく。それが遠退いていくにつれて意識がはっきりとしはじめ、クロエは唐突にまどろみよりも肩の痛みを強く感じる。体を動かすと軋むように痛み、思わず苦痛の声を漏らした。


「やっとお目覚めか?」


 うなり声をあげながら肩を押さえ、クロエは頭をもたげる。

 すると正面に座って寝台に頬杖をついていたネグロが、椅子からゆっくりと立ち上がった。先ほどまでそこで横になっていたはずの青年は衣服を改められ、奥にあるネグロ自身の寝台に移されていた。


「体の疲れが感覚を麻痺させていたのだろう、今まで痛みを感じにくかったのはそのためだ」

「痛み止めが効いていたんじゃなかったのか……」

「あとでそいつを持ってこい、調べてやる。まあ、十中八九偽物だろうが」


 ネグロがそう言いながら空になった寝台を叩くので、クロエは痛む体に鞭を打ちながら腰をあげ、体をそちらに移した。


「服を脱いでくれ、肩が出ればそれでいい」


 クロエはネグロに言われるがまま衣裳の襟を寛がせると、傷のある肩をさらけ出そうとした。しかし、赤黒く固まった血液が傷口に布をこびりつかせているために、上手く脱ぐことができない。途端に面倒になってしまったクロエは勢いよく剥ぎ取ろうとするが、ネグロの手がそれを止めた。


「馬鹿、肉まで一緒に剥ぐつもりか」


 ネグロは患部を湯で少しだけ湿らせると、柔らかくなったところから徐々に衣服を剥がしていった。僅かに引っ張られるような感覚はあるものの、大きな痛みは感じない。

 だが、クロエの傷口の全容を目の当たりにしたネグロは、思わずと言うように顔を顰める。


「犬狼と接触したのか?」

「五頭の群れだった」

「よくもまあ無事でいられたものだ」


 傷口はまるで抉られたようにぱっくりと開いていた。弾けた柘榴のように肉が覗いている。

 ネグロは血の固まった傷口を丁寧に消毒し、地黄の生薬を擦り込むようにして塗っていく。染みると言うよりも刺されるような痛みを覚え、クロエは眉根を寄せて小さく呻いた。

 すると、ネグロの指先は傷口を離れて首筋をゆっくりと撫で上げる。


「そそる眺めだな」

「……うるさい」

「口を慎んだ方がいいんじゃないか? もっと苦痛を味わえる薬を使ってやってもいいんだぞ」


 くつくつと愉快そうに笑いながら言う声に邪気はなく、冗談半分であるということが分かる。しかしクロエはネグロをきつく睨み上げると、首を這う手を叩き落とした。


「お前もそろそろいい年なんだ、少しは淑やかさを身につけたらどうだ?」

「そういう扱いをされるのが嫌で男の身なりをしているんだ。放っておいてくれ」

「一生ひとりでいるつもりか?」

「だったらなんだ?」

「いいや、別に」


 ネグロはこれ見よがしに大きく肩を竦めて見せると、今度は嫌らしさを少しも感じさせない指先でクロエの体に包帯を巻きはじめた。今度は反撃に出ることなくされるがままに身を委ね、クロエは自らの節くれだった手を見下ろしていた。


「だが、叔父上殿はお前の子どもを楽しみにしているだろうな」

「まさか」

「彼はお前の親も同然だろう? 親なら孫の顔を見てから死にたいと思うものだ」

「セラトラは私にそんな期待をしていないよ」

「どうしてそう言い切れる? 本人に聞いて確かめたことでもあるのか?」

「聞かなくても分かる」

「俺には、お前がその話題から逃げ回っているようにしか思えないがな」


 さあこれで終わりだと、ネグロは包帯の上から傷口を軽く叩いた。それだけで体中が痺れるような痛みを感じ、クロエは思わず声を上げる。


「朝晩に必ず包帯を取替えに来い。それから、暫くはあまり激しい運動をしないこと。明日から稲刈りが始まるらしいが、間違っても手伝おうなんてするなよ」


 返事もせずに恨めしそうな顔で自分を睨むクロエを見て、ネグロはふんと鼻で笑った。


「そっちの部屋にタイが持ってきたお前の着替えが置いてある」


 クロエは痛む肩を優しく撫で擦りながら寝台から立ち上がった。ネグロは手当てに用いた道具や器具を片付けながら、その様子を横目に見ている。


「お前は――」


 クロエは何かを言いかけるが、ネグロと目が合うと視線を逸らして少し迷うような素振りを見せた。しかし頭を左右に振ると、表情を改めて部屋の隅にあるもうひとつの寝台に目を向けた。


「そいつは?」

「ん? ああ」


 ネグロは腰に手を当て、寝台で眠っている男を見下ろす。


「とりあえず一晩様子を見て、それからだな」

「何か必要なものは?」

「今はまだ大丈夫だ」

「そうか」

「お前は人の心配よりも、まず自分の体を心配しろ。何か腹に入れたら少し休め」


 うん、と頷きながらも、クロエの目は青白い顔をした青年に向けられていた。それからそっと懐を撫でると、そこに硬いものが触れるのを確かめる。青年が身につけていたものは全て枕元にまとめられていたが、あの首飾りだけはどこにも見当たらない。

 青年の首から奪い取ったこの首飾りをどうしたいのか、クロエにも分からない。谷底に捨て去ってしまいたいのか、粉々に砕いてしまいたいのか。

 だが、今はまだこれを誰にも見せるべきではないことだけは確信していた。

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