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四方を小高い山や森に囲われた部落は、丁度落ち窪んだ場所に位置していた。
多くの犬狼が群れを組んでいる森の側に部落を構えるなど、本来であれば無謀な選択だ。しかしながら、何者も足を踏み入れることのない未開の土地ならば身を隠すには適している。
十五年前、戦場から命からがら逃げ延びてきたシャラ族の生存者たちは、ひっそりと慎ましやかに自給自足の暮らしを送っていた。全ての家畜を失い、遊牧する理由もなくなった。着の身着のまま逃れてきた者たちが財産を持つはずもなく、残された数少ない労力で一からやり直すのは容易なことではない。
それでも、やらざるを得なかったのだ。クロエを含む残された子どもたちのためにも、生きて行かなければならなかった。
木を切り、道を整え、小川を引いて田畑を耕した。家を建て、井戸を掘り、漸く安穏な生活を送ることができるようになったのはここ最近のことだ。今では十五年前の悲劇を知らない子どもが増え、かつての子どもたちは大人になった。
「クロエ、怪我してるの?」
大急ぎで駆けてきた少年が、クロエの目の前で足を止めるなりそう言って眉根を寄せた。
「たいしたことない、ただのかすり傷だから」
「嘘、そんなに血が滲んでいるのに」
少年の言う通り、肩の傷からは止血した布にまで滲むほどの出血をしていた。それでも何も言わずに肩を竦めれば、少年はいやに大人びた様子で呆れたようにため息を吐く。
「荷物を貸して。僕が家まで運んであげる」
断る間も与えずにクロエの手から荷を取り上げた少年は、踵を返すと先に立って歩き出した。
「タイ」
その後を付いて行きながら、クロエは少年の名を呼ぶ。すると、タイと呼ばれた少年は歩きながら肩越しに振り返った。
「セラトラはどうしている?」
「そんなの自分の目で見て確かめなよ」
「体調は良さそうか?」
「そういうことは直接本人に聞くか、そうじゃなかったらネグロにでも聞いたら? 僕には分からないよ」
それはもっともなのだが、クロエは何となく気が重かった。
その気持ちを察したのか、タイはにやりと含み笑いを漏らすとクロエの隣まで戻ってきた。
「さては、セラトラに会うのが怖いんだね? またこっそり家出をしたものだから、セラトラが怒ってると思ってるんだ」
「別に怖いわけじゃない」
「だったら堂々と帰りなよ、僕に探りを入れるようなことしないでさ」
そう言ってくすくすとおかしそうに笑う横顔を見て、クロエは微かな違和感を覚えた。前はもう少し低い位置に頭があり、体も小さかったような気がする。
黙ってじっと見つめてくるクロエを不思議に思ったタイは、目を丸くしながら小首を傾げた。
「どうかした?」
「少し見ないうちに大きくなったな、タイ」
「……あのね、クロエは三月もここを離れていたんだよ? 僕だって背くらい伸びるってば」
自分の年齢さえ覚えていないクロエだ、タイが今年で十五になることも知らないだろう。
シャラ族の男は十五で成人を迎えるのだ。成人した男は一人前の戦士として認められ、親元を離れて暮らすようになる。遊牧をしていた頃は新たなユルトが祝いの品として贈られたが、今はそれを必要としなくなった。部落の男たちが総出で住家を新築するのが、今の慣わしだ。
「あ、ほら、見なよ!」
部落のほぼ中心に位置する場所に、大きな水車小屋のある家が建っている。小川の水を汲み上げ、水田に水を流しているのだ。しかし、現在水車は稼動していない。水田で頭を垂れている稲穂の収穫はもう間もなく行われるはずだ。土の水気は涸れて久しく、黄金の実りが風にそよいでいる様子はとても美しかった。
その水車小屋のある家の玄関先に、ひとりの男が佇んでいた。ゆったりとした藍染の衣裳を身にまとい、胸の前で両腕を組んでいる男は、真っ直ぐにクロエとタイを見据えている。
クロエは思わず足を止めそうになったが、再び前を歩き出したタイに引きずられるようにして男の側まで歩み寄った。
「セラトラ、クロエが戻ったよ!」
「タイの大きな声が聞こえていたよ」
にこりと朗らかに微笑んだセラトラは、嬉しげにしているタイを見て小さく頷きかけた。そのタイは何の断りもなく玄関に入っていき、クロエの荷をそこへ置いている。
正面からセラトラと対峙したクロエは、何と言うべきかを考えながらその顔を見上げた。
中性的な容姿をしているセラトラは、不思議なことに数年前から老いというものを感じさせない。クロエの母方の叔父で、曽祖母譲りだというシャラ族には珍しい黒髪、黒目の持ち主だ。クロエとはほとんど似ていないが、唯一の肉親である。
見る者によっては女と見まがうこともあるだろう。線が細く一見頼りない印象だが、その昔は族長に匹敵するほどの戦闘能力を誇っていた。しかし今となっては胸の病に冒され、もう戦うことはできない。
「おかえり、クロエ」
姪が口を利くより早く、セラトラは穏やかな口調でそう言った。
まるでほんの少し野良仕事に出かけていた家族を迎えるような気軽さだ。三月も離れ、顔も合わせずにいた者に対する言い様とはとても思えない。けれど、それがセラトラだった。幼い頃からクロエのやりたがることに強く意見することや、異を唱えることが極端に少なかった。思うところはあるのだろうが、あまり口煩くされた記憶はない。
しかし、部落の者たちまで迷惑を被るような事態の場合は、話が別だ。意見を対立させてしまえば最後、セラトラは折れることが極端に少ない。
「……顔色は良さそうだね」
「君が前に連れ帰ってきた薬師のおかげでね。君の方はぼろぼろのようだけれど」
セラトラは細い顎を持ち上げて、クロエの怪我をしている肩を示す。クロエは否定せずに苦笑いを浮かべた。
「夜更けの森で犬狼と一悶着あったんだ」
「犬狼と?」
クロエの言葉を聞いてはじめて、セラトラの表情が僅かに変化した。その険しくなった面持ちを見て、クロエは少しだけ首を竦ませる。
「……殺したのか」
「仕方がなかった」
「犬狼を殺めることに仕方がないなんてことがあるというのか?」
犬狼の群れの仲間意識は強い。下手をすれば里へ降り、部落の者を皆殺しにするかもしれない。その危険を冒したのだという自覚はあるのかと、セラトラの静かに怒れる眼差しが言っているようだった。
クロエは思わず口を噤むが、そこへ思わぬ助け舟が現れた。
「クロエは人を助けるために犬狼を殺してしまったんだ。そうでしょ?」
荷を置いて玄関から出てきたタイが、ふたりの間に立った。
「ネグロが人を抱えて行くのを見たよ」
「……説明してもらおうか」
クロエは一刻も早く旅装を解いて休みたかったが、セラトラの威圧的な眼差しに耐えうるほどの精神力は持ち合わせていない。もう暫くの辛抱だと自らに言い聞かせ、頬を掻きながら小さく息を吐き出した。
「帰りにそこの森で人を拾ったんだ。深手を負ってはいたけど、息はあったから連れて帰ることにした。まだ生きている人間を放っておくわけにもいかないし」
「それで、血の臭いに誘われてやって来た犬狼を殺めたと?」
セラトラは怒りながらも呆れている。
「ここは彼らの縄張りだ。私たちには従うべき仕来りがある。それを忘れてはならないと何度言えば分かる? 怪我を負った身で犬狼の住まう森に入り込むなど、救い様のない自殺行為だ」
「だったら食われて叱るべきだったとでも言うの?」
「不必要な血を流す必要はなかったのではないかと言っているだけだよ」
「同じことじゃないか」
「クロエ」
半ば吐き捨てるような物言いになったクロエを諭すように、セラトラは静かに名前を呼んだ。それから頭をゆっくりと左右に振り、玄関に足を向ける。
「当面は君の無事を喜ぼう」
「セラトラ」
「早く傷の手当をしてもらってきなさい。タイ、クロエの着替えをネグロのところまで運んでくれるかな。それが済んだら、川で作業をしている皆に彼女の帰りを知らせに行っておあげ」
「うん、分かった」
セラトラは頷くタイの肩に手を置くと、一度も振り返らずにそのまま家の中へ姿を消した。その背中を無言で見送るだけのクロエを見て、タイは仕方なさそうに笑う。
「セラトラにはこの部落を護る義務があるからね、怒るのも無理はないと思うよ」
「……分かってる」
「分かってるって顔じゃないけど?」
「私にも事情があるんだ」
「事情って?」
不思議そうに見上げてくる顔を見て、クロエは何でもないと首を横に振った。自分が見たもののことを話し、実物を突きつければセラトラも理解を示してくれるはずだ。そう思い、今は大人しく引き下がるしかない。
クロエは痛む肩を押さえながら振り返り、タイに声をかけた。
「着替えを頼んだよ」
「あ、ちょっと! まだ話の途中だよ!」
「後で話す」
「嘘吐き! クロエの後では当てにならないんだから!」
「良く分かってるじゃないか」
「クロエ!」
実の肉親よりも口煩い近所の弟分は、立ち去る背中に向かって未だ文句を垂れている。それを聞きながら後ろ手を振ったクロエは、疲れと眠気に襲われながら大きく欠伸をもらした。
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