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 クロエの意識は朦朧としていた。

 目が霞むのは出血ではなく、空腹が原因だ。喉の乾きも尋常ではない。体力の限界は疾うに越え、気力だけが感覚を繋ぎ止めている。今すぐ横になって休みたいという願望だけが唯一の救いだ。それさえも願わなくなれば、恐らく本物の死は近い。

 夜通し歩き続け、漸く森を抜けられたのは太陽が東の空から顔を覗かせた頃のことだった。白んだ空がいやに眩しく感じられ、目の奥が微かに痺れる。

 疲労と眠気が一緒くたに襲い来る感覚は心地よくもあり、気味悪くもあった。このまま眠りに落ちてしまえば人知れず死んでいくような気がして、クロエは一休みしている最中に何度も自らの頬を打たなければならなかった。

 もう当分旅はこりごりだと、クロエは思う。

 今思えば厄介な拾い物もしてしまった。この青年がいなければ犬狼に襲われることはなく、命の危機を感じることもなかったはずだ。

 それでも、首飾りに見た紋章を無視することはどうしてもできなかった。

 真サルザ王国の王家には浅からぬ因縁がある。積年の恨みと言っても過言ではない。この青年がなぜ王家の宝玉を身に付けているかは定かでないが、それが下賜されたものや、最悪盗品だったにせよ、何らかの事情には通じているはずなのだ。

 自らの追い求める真実を知りたい、その一心でクロエは旅を続けていた。

 けれど、誰も追い求めている真実の答えを持たず、教えを説いてくれる者もいなかった。しかし今、啓示とも呼べる存在が目の前に転がっている。これを逃せば、真実は再び遠退いていくに違いない。それが闇の中に屠られることだけは、何としても阻止しなくてはならなかった。諦めるわけにはいかないのだ。この機会だけは、何としても物にしなければならない。


「だから、今死なれては困るんだよ」


 丁度実りと収穫の時季を向かえ、自然は鮮やかに色づいている。

 野に実った葡萄の果汁で喉を潤したクロエは、同じものを青年の喉に流し込んでやると、手首を取って再度脈を計った。青年は昨夜から酷い高熱に浮かされているものの、体は寒さに凍えるようにして震えている。時々うわ言を漏らしていたが、どれも言葉にならず消えていった。

 苦痛を吐き出す呻き声を聞かされるたび、クロエは自らの心に複雑な感情が宿るのを感じていた。

 今更復讐などという滾るような情動に見舞われるなど、クロエ自身思ってもみなかったのだ。それなのにもかかわらず、あの紋章を目にした瞬間、クロエの心には間違いなくそれに近い思いが湧き立った。

 青年は見たところクロエと同じ年頃か、いくらか若い程度だろう。

 十五年前、自国の辺境の地で起こったことなど何も知らないかもしれない。だが、知らないでは許されない。それだけのことが起こったのだ。

 クロエは自分が青年に何を求めているのか分からないまま、再びその体を背負うと重い足を引きずるようにして歩き出した。既に森は抜けていたが、人里からはまだ少し離れている。しかし、人の手が入れられた田畑を横目に農道を歩いていると、心なしか安心感に包まれた。

 森の近くで育てられている野菜や穀物の類は、そのほとんどが森の動物たちに食べられてしまうことになる。だが、それで構わない。食べることも食べられることも、この世界に生きる物には平等に与えられた権利だ。人間は時に森へ入り、動物を狩る。それを食し、寒さを凌ぐために毛皮を剥ぐ。

 けれど、人間ばかりが搾取をしていては不平等というものだ。人間の耕した田畑に種を蒔き、いずれ芽吹いて花をつけると、それが実って動物たちの食べ物となる。収穫期も過ぎて実りが枯れた頃、来年の種を収穫できればそれで十分だった。もちろん、里には自分たちが食べていくための田畑も持っている。

 世の中は持ちつ持たれつなのだと、クロエの叔父は言う。

 人も動物も関係ない。命の重みに違いなどはなく、全てが等しくなければならないのだ。どこかで命を刈り取れば、いずれその代償を払うときがやってくる。しっぺ返しは遅かれ早かれ巡ってくるだろう。それを覚悟した上で、自らの力を振るえば良い。

 朦朧とした意識の中で、クロエは昨夜殺した犬狼のことを思い出していた。

 殺してしまったことに対する罪悪感が心をざわつかせる。死ぬ必要のなかった命だ。例え狩らなければ狩り取られていたのだとしても、無駄な殺生であったことに違いはない。

 クロエは犬狼が好きだった。美しく気高い、孤高の生き物だ。犬狼のようになりたいとさえ思っていた。

 後で必ず供養することを心に誓いながら、クロエは背中の命を背負い直した。果たしてこの命に価値などあるのかどうか、今はまだ判断を下すことが出来ない。だが、叔父の言葉を借りれば、命は皆平等なのだから、価値の有無など考えるまでもないことなのだろう。

 太陽はすっかり高くまで昇ってしまった。しかし、そこはもう見慣れた景色だ。遠くの方には民家も見えている。

 ああ、帰ってきたのだと安堵の息を吐き出したかと思うと、クロエは小さな石に躓いてその場に転倒した。上手く受け身を取ることもできず、無様に倒れ込む。背負っていた青年も道に転がるが、小さく呻いただけで目も覚まさない。

 体中から力が抜けて立ち上がることも出来ず、クロエは暫くの間名前も知らない青年と並んで道に横たわっていた。穏やかな風が頬を撫で、暖かな日差しが全身に降り注ぐ。

 あまりの心地良さに意識を手放しかけたクロエだったが、徐々に近付いてくる足音に気がつくと、半ば閉じかかっていた瞼をゆるゆると持ち上げた。


「――クロエ? クロエなのか!?」


 最初は半信半疑そうに、しかし次の瞬間には確信を持って自らの名前を呼ばれると、クロエは寝転んだまま応えるように手を挙げた。あまりの懐かしさに、口角がゆっくりと持ち上がるのが分かる。


「お前、そんな道の真ん中で何をやっているんだ!」


 驚きと呆れが入り混じった声で叫びながら、その男は真っ直ぐに駆けてくる。

 クロエは何とかその場に起き上がると、くらりと眩暈を覚える頭を支えながら胡坐を掻いた。


「やあ、ネグロ」

「やあじゃないぞ、まったく。この三月もの間どこをほっつき歩いていたんだ」

「その辺りだよ」

「その辺りだと? 人を馬鹿にするのも大概にしろ!」


 クロエが顔を上げると、そこには長身の男が立っていた。黒い肌に青い目をしたその男は、眉根を寄せてこちらを鋭く睨みつけている。


「そう恐ろしい顔で睨まないでくれないか。悪いとは思っているんだ」

「ああ、そうだろうとも。だがお前は反省というものをしない」

「分かった、分かった」


 クロエは案の定反省の態度をこれっぽっちも窺わせず、ネグロと呼んだ男に向かって手の平を見せた。


「次に出ていく時はネグロにも声を掛けるよ」


 そのぞんざいな様子を見て、そういうことではないとネグロは余計に表情を険しくさせた。だが、漸くクロエの隣に転がっているものが視界に入り込んだようだ。驚きに目を見開き、一瞬だけ絶句する。


「なんだ、それは」


 それとは随分な物言いだとクロエでさえ思いながら、苦笑を浮かべつつ隣に目をやった。


「森で行き倒れていたのを拾った。怪我をしているから、見てやってくれるか?」

「あ、ああ……」


 困惑しながらも傍らに膝をついたネグロだったが、首筋に手を触れた瞬間その顔を苦々しげに歪めた。空色の目をすっと細めると青年の閉じた瞼を持ち上げて眼球を診てから、すぐさまその体を横抱きにして立ち上がる。


「これは俺の家に運ぶぞ。お前もさっさと挨拶を済ませたら肩の怪我を見せに来い」


 口に出さずとも無意識の内に庇っているのを目敏く察し、ネグロは去り際に釘を刺していく。軽口を叩くように了解と言って頷く姿を横目に確認してから、早足で立ち去ってしまった。クロエはその大きな背中が少しずつ小さくなっていくのをぼんやりと眺めていたが、そこに小さな影が駆け寄っていくのを見ると、頭をもたげて背筋を伸ばした。

 小さな影はネグロと二言、三言口を利いてからこちらを振り返り、大きく手を振ってくる。クロエは小さく手を振り返すと、重い体に鞭を打ってゆっくりと立ち上がった。足がもつれて転びそうになるが、どうにか踏み止まると衣裳についた砂を叩き落とす。弟分に無様なところは見せられないと思った。


「クロエ!」


 部落中に響き渡るような少年の声が叫んだ。

 これでクロエの帰還が全員に知れ渡ったことだろう。こっそり戻るつもりが、そうもいかなくなってしまった。


「おかえり!」


 嬉しそうに満面の笑みを浮かべた少年が、全速力で駆けてくる。クロエはその言葉の響きを照れ臭く感じながら、小さく「ただいま」と返事をした。

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