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これまでの長旅で、クロエの体は既にぼろぼろだった。
癒されない疲れが蓄積されていた。長い休息を求めての帰還だったが、心休まるにはまだ暫く時間を有しそうだ。
微動だにしない男を背負った背中が妙に熱を持っている。頬を伝う汗は拭うこともできず、雨水と混じり合って顎を伝い、地面に落ちた。
疲労を強く訴えかけるように、クロエの体は骨を軋ませていた。膝は進もうとする意思を拒むように震え、歩行さえ困難にさせる。だが、足を止めるわけにはいかなかった。切れてしまいそうな意識の糸を寸前のところで繋ぎ止め、少しだけならば、という内なる誘惑の声を聞かないよう頭を振る。
完全に太陽の恩恵を失った世界は暗闇に支配されたが、夜目の利くことが幸いし、クロエが方角を見失うことはなかった。心配していた雨足も僅かずつではあるが遠退き、雲間からは星空が覗きはじめている。月明かりは眩しく下界を照らし、木漏れ日のように足元を飾った。
一体どのくらい歩き続けただろうか。景色は目に見えて変わり、周囲は岩場が剥き出しになった登りの傾斜が続いている。水筒の水も底をつき、飲み水はなくなってしまっていた。体は火照り、僅かに開いた唇からは荒い呼吸が繰り返されていた。
開けた視界は安心の他にも様々な危険を生む。身を隠す場所がどこにもなく、逃れる術がないからだ。
そして案の定、クロエの嫌な予感は現実になった。
ぴたりとその場で足を止めたクロエは、身動きをしないよう息を潜めながら周囲を見回した。低い唸り声が四方から聞こえ、鋭利なもので岩を削り取るような恐ろしい物音が空気を振動させている。
ここは犬狼たちの領域だ。その森に足を踏み入れた時点で、それなりの覚悟は必要だった。じりじりと詰め寄ってくる五頭の群れは、既に一度目の食事を終えているのか、鋭い牙の生えた口元を赤黒い血で汚していた。
「……今更犬狼の餌食になるなんてごめんだからな」
クロエはそう独白した。
呼吸がますます微弱になってきた男の体を刺激しないよう地面に下ろし、腰に下げていた小刀を抜き取る。体勢を低く身構えると、一頭の犬狼が牙を剥き出しにして威嚇を更に強めた。
森に住まう部族の男たちならば、力自慢に犬狼を狩ることはあった。一頭に対して複数の戦士たちで立ち向かうのが通例だ。五頭もの犬狼を、クロエただひとりで撃退できるはずがない。しかも、疲労は頂点にも達しているのだ。
だが、そのような窮地に立たされていようとも、眠る男を庇うように立つクロエの表情は驚くほど精悍な顔つきだった。
「私はお前たちが思っているほど美味くはないよ」
両足を踏みしめて腰を落とすと同時に、先頭に立っていた犬狼が高く跳ね上がった。それは、クロエの身の丈よりも高い跳躍力を見せつける。
膝を折り、身を深く沈めて、クロエは牙を剥き出しにして頭上から襲い来る犬狼を正面から受け止めた。鋭い爪が肩に食い込み、皮膚に弾けるような痛みが走る。しかしそれさえも構わず、クロエは強く握りしめた小刀を犬狼の心臓に精確に突き立てた。怯んだ一瞬の隙を見逃さず、小刀を更に深く押し込むと、犬狼の下から滑り出る。
心臓を貫かれた犬狼は大きく痙攣をしたかと思うと、口から大量の血を吐き出して二度と立ち上がることはなかった。
クロエの生まれた部族はシャラ族と呼ばれる戦闘部族だ。男女問わず、強き者が皆の尊敬を獲得することができる。自身も幼い頃から大人たちに稽古をつけてもらい、それなりの心得があった。剣術、棒術、弓術なども扱えるが、基本的には己の体を武器として用いることを好んでいた。けれど、犬狼を相手に素手で立ち向かうのは無謀というものだ。
だが、小刀を失ったクロエは丸腰だった。残る犬狼は四頭だが、クロエは既に満身創痍だ。血の臭いで興奮状態にある四頭の犬狼に打ち勝つ術などあるはずもなく、背筋に寒々しい風が吹く。
これまでに幾度となく修羅場を潜り抜けてきたクロエだったが、今回は殊更強く命の危機を感じ取っていた。しかし、クロエも簡単に殺されてやるつもりはない。
「頼むから」
見逃してほしいと思う気持ちと、もうこれ以上傷つけたくないという思いが重なりあって、クロエの口から懇願の言葉が漏れた。
犬狼は美しく、神々しい森の支配者だ。クロエたちの部族では、無闇やたらと殺すことはしない。襲われたときにだけやむを得ず反撃に出るが、それ以外は刺激しないよう暮らしてきた。だが、狩られれば食われ、狩れば食う。犬狼でもそれ以外の動物でも、血液一滴無駄にしないのが互いに対する礼儀だ。
仲間を殺され目の色を変えた犬狼たちは、頭を低くするとそれぞれに唸り声をあげはじめた。目の奥が赤く輝き、背中の毛を膨らませて怒りの感情を露にしている。
クロエは恐怖の感情を腹の底に押し込めて、一頭の犬狼と対峙した。その目をじっと睨み、片時も逸らすまいとする。瞬きも忘れて凝視すれば時が止まっているようにすら感じられ、その瞬間が訪れるまでの時間が永遠にも思えた。
月明かりを反射させる白銀の毛並みは眩く、輝いている。豊かな尻尾は自らの縄張りを主張し、こちらを牽制するように立ち上がっていた。鼻先には深い皺が寄り、耳は微かに震えて後ろ側に倒れている。
その様子をすっかり観察できるだけの時間が経過し、そして変化は起こった。
先に動いたのは、対峙した犬狼だった。一頭が跳ねた次の瞬間には、残りの三頭が続くようにして地面を蹴る。それでも、クロエが見ていたのは一頭だけだった。大きく開かれた口に捕らえられでもすれば、クロエの頭など瞬時に砕かれてしまうだろう。
その危険性を考慮しながらも、クロエは一切怯まなかった。怯んだ瞬間に待ち受けているものが死ならば、形振り構わず何でも出来る、そう思った。それが無謀な行為だったとしても、今は足掻くしかない。
「――っ!」
深く息を吸い込み、クロエはその場から一歩身を引いた。
目前にまで迫っていた犬狼の口が目と鼻の先で閉じ、牙の合わさる乾いた音が一拍遅れて聞こえてくる。一歩身を引いた状態から素早く体を旋回させ、軸足を踏み込むと同時に勢いよく回し込んだ足の踵を犬狼の頭に叩きつけると、石を砕くような鈍い音が静寂の中に消えた。
犬狼は蹴り飛ばされ、甲高い声を発しながら岩肌の地面に叩きつけられる。
じんっという痺れが踵から足の付け根に向かって駆け上るのを感じながら、クロエは急には殺せない勢いごと軸足を引きずられるように回転し、小さくよろめいてその場に留まった。
踵が地面に着地すると、かつん、と高い音が鳴る。革の靴の踵には鉛が仕込まれていた。これもシャラ族独特の仕様だった。
詰めていた息をゆっくりと吐き出しながら、クロエはこちらに飛びかかろうとする気配を見せていたはずの犬狼を見据えた。すると、残りの三頭は肩を落とすようにして身を低くしながら、一歩、二歩と後ずさっていく。尻込みしているのは明らかだ。
もう一押しだと考えたクロエは大きく息を吸うと、空気をも震わす怒号を浴びせかけた。
「去れ!」
尻尾を巻いて逃げていくわけではない。渋々と、自らの置かれた状況を未だ理解しきれていないという様子で、犬狼たちはゆっくりと森の中へ姿を消した。あの様子では、いつ仲間を引き連れて戻ってくるか分からない。
だがしかし、クロエは自分に僅かな休息を許した。腰が抜けて動けなくなってしまったと言った方が正しい。その場に崩れ落ちるように座り込み、気の抜けた息を吐き出した。
「ああ、散々だ……」
今になって心臓の鼓動が激しくなり、目眩を覚えた。止まっていた血の巡りが解放されたのか、冷えきっていた指先も熱を帯びはじめる。肩の傷口はじくじくと痛みを思い出して、遠退いた意識を容赦なく手繰り寄せた。
生きていることを喜ぶより、体中の痛みがつらかった。
空を仰いで、月の光を浴びる。
その時、汗で額に張り付いていた頭巾がするりと背中に落ちた。
露になったのは透き通るような青白い肌と、煌めくような金色の長い髪だった。形の良い柳眉の下の目は、髪と同じ金色の睫毛で縁取られている。灰色の瞳は丸い月を映し込み、硝子玉のように冷たく輝いた。
「全く、酷い目に遭わされたよ」
乾いた唇から紡がれた声は微かに震えていたが、安堵しているようでもあった。だが、蹴りを食らい意識を失っている犬狼が低く唸るのを耳にし、クロエは視線を地上に戻す。いつまでも悠長にはしていられない。
ゆっくりとその場に立ち上がって青年の元へ向かったクロエは、首筋にそっと手を触れると、まだ脈があることを確認した。
荷の中から引っ張り出した外套の端を引き裂いて、肩の傷口を覆う。思っていたほど深い傷ではないようだ。次いで、既に事切れている犬狼の心臓から小刀を引き抜き、大きく見開かれたままだった目を閉じてやった。
クロエは張りのある毛並みを優しく、慈しむように撫でた。後ろ髪を引かれる思いに苛まれながらも、この場を後にしなければならない。
「ごめんな」
まだぬくもりのある躯をこのままにしておくことは忍びないが、致し方なかった。もう一頭は意識を取り戻せば自ずと群れに戻るだろう。
今は何よりもまずこの場を離れ、身の安全を確保することが先決だった。
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