第一章

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 雨足は強くなるばかりだった。

 泥でぬかるんだ地面は女の歩みを遅々とさせ、徐々に体力を奪っていく。雨に打たれた身体は寒さに凍えはじめていたが、その視線は力強く彼方を見据えていた。頭上を覆う森の木々に護られ直接雨風に晒されることはないが、木々の枝葉を伝って冷たい雫がぽたり、ぽたりと滴ってくる。

 月の満ち欠けが三度巡るだけの期間を旅に費やしてきた彼女、クロエは久しぶりに家と呼べる場所へ帰ろうとしていた。

 クロエは生まれてから物心がつくまでの数年を、放牧の民として暮らしていた。一所に留まり続けることが居心地悪く感じられ、こうして家族の住む家へ戻ることは年に数度しかない。旅慣れていると言えば聞こえは良いが、実際には腰を据えることが恐ろしいだけの根無し草だ。十五になった年から旅をはじめたことは覚えていたが、自分が現在何歳であるかをクロエは覚えていなかった。

 ガイア帝国から辺境の国々を渡り歩き、クロエは現在家のある真サルザ王国の国境付近まで後半日程の距離にいた。景色の変わらない道なき道の目印は、時折木に括りつけられている色褪せた紐だけだ。それすらも腐敗し見えなくなったときは、正確な方向を見つけるまでに暫く掛かる。新たな目印を括りつけながら進む作業は意外に手間取り、天候も相まってかなかなか前へ進めずにいた。


「今夜はどこかで野宿でもするか……」


 木々の合間から微かに覗く曇り空を仰ぎ見ながら、クロエは深く被っていた頭巾の下で呟くように言った。

 犬狼が活動している深夜の森を闊歩するなど、自殺行為に等しい。かつては食物連鎖の頂点にあったという人類すら凌駕するそれに、滅ぼされる部族は少なくないのだ。

 そう、今では少数部族の絶滅など珍しいことではない。病や飢えによる自然消滅、不毛な争い、他を追随する才華を恐れるが故の虐殺や、粛清と言い換えただけにすぎない民族浄化という残虐行為。

 いくら時代が移り変わろうとも、歴史は何度でも繰り返される。そう思わざるを得ない物事の反復に絶望していても、人類はなにひとつ変わらない。滅ぼされてはじめて、その事実に気づかされるのだ。遅すぎたのだという失望から、そこからの旅立ちを胸に抱くまでの時間は人それぞれだが、滅んでしまえばそれさえも叶わない。

 野宿に備えて雨風を凌げる場所を探しながら、クロエは顔にまとわりつく髪の毛を拭った。長い時間その身に浴び続けることで、体に害を為すという雨だ。目に見えずとも体は徐々に蝕まれていく。

 さて、と巡らせた視線の先に、クロエは朽ちて横たわった古木を見つけた。周囲には腐敗した枯れ葉が敷き詰められ、それが苗床となって新たな植物が芽吹きはじめている。

 樹齢は千年近いだろう。先端が焼け焦げているのを見ると、落雷が直撃したようだ。水を吸い上げなくなった根が少しずつ痩せて腐り、残りの幹を支えることができなくなったのだ。


「立派な木だったんだな」


 横たわる幹に近づき、クロエはそれに触れながら囁いた。

 森は一度死ねば甦ることはない。空気が汚れ、土が毒されはじめているからだ。その地に新たな木々が育つことはまずない。だが、この古木を苗床として若い芽が発芽しているのであれば、この森はまだ暫く生き続けることができる。

 今夜はこの辺りで休み、明日の朝早くに出発しようとクロエは考えた。そして、内側を何者かにくり貫かれたような朽ち方をしている幹を覗き込む。

 すると、彼女は何かを訝しむような表情で眉根を寄せ、次の瞬間には息を飲んだ。

 その古木の空洞は、人が入って休むには十分な広さがあった。座ることも、横になることもできる。雨風を凌ぐためならば、クロエでなくても確実にこの場所を選ぶだろう。

 クロエはその空洞の中に、人間の姿を見つけた。正しくは人間の足が見えているだけだったが、奥の方は暗く視界が不鮮明だ。幹に手をかけたままその場に膝をつき、恐る恐る倒れている体に手を伸ばした。

 一度は死んでいると思った。しかし、すぐにそうではないと分かる。手を置いた胸元が、僅かに上下しているのを感じ取ったのだ。

 クロエは小さく安堵の息を吐いたが、その指先に触れたぬるりとした感触にはっとした。暗がりの中で見下ろした手の平は黒く染まり、鉄と微かな刺激臭に顔を顰める。

 腰を屈め、クロエは幹の狭い隙間に身体を捻じ込ませた。荷から手探りで取り出した光虫の明かりで空洞を照らし、それを片手に掲げたまま倒れている人物を見下ろした。

 横たわっていたのは男だった。酷く蒼白な顔をしている。黄色人種にしては色白で、頬にある切り傷だけが赤く生々しい。それ以外は血の気がなく、黒髪はじっとりと雨に濡れていた。恐らくサルジ族だろうと、クロエはすぐさまそう判断した。

 短く舌打ちをしたクロエは、その苦しい体勢のまま男の体を改めた。どうやら傷は肩と腹にあるようだ。脇腹の出血が特に酷い。呼吸は浅く、虫の息とはこのことだろう。どこかで内紛に巻き込まれ、なりふり構わず逃げてきたのだろうが、このままでは命も危うい。


「この臭いでは犬狼が嗅ぎ付けてくるのも時間の問題だな」


 血の臭いが移ってしまったクロエも、同じ脅威に晒されている。彼らは必ずこの臭いを嗅ぎ付け、どこまでも追いかけてくるに違いない。

 だが、自分ひとりならばどうにかなるかもしれない。いずれにせよ、もうこの男は助からないだろう――クロエがそう考えた瞬間、明かりに反射したのか男の胸で何かが煌めいた。

 眩しさに一瞬だけ細められたクロエの目が、驚愕に見開かれる。

 胸元に提げられていた首飾りの紋章が、クロエには見覚えがあった。純白の鳥を毒蛇が絡め取ろうとしているその紋章は、真サルザ王家のものに他ならない。

 クロエは一瞬のうちに感情が沸騰し、水面に波紋を広げて、少しずつ治まっていくのを感じていた。そして同時に、何としてもこの男を生きて連れ帰らなければならないと覚悟する。そうしなければならないだけの理由が、クロエにはあったのだ。犬狼に対する恐怖はどうしても拭えないが、男を背負って戻る他に手段はなかった。

 早急にその場凌ぎの手当てを終え、薬を無理矢理にも飲ませると、クロエは男を木の幹から引きずり出した。

 男の身長はクロエよりも少し高い程度で、やはり女のように細い体をしている。多少癖のある黒髪で目元は隠れているが、鼻筋は通り、血の気を失って変色した唇は薄かった。纏っている衣裳は上等なものだが、旅装に適した格好ではない。

 いつからこの場所で雨を凌いでいたのか、男の体は完全に冷え切っていた。その体を背負ったとき、紋章の刻まれた金剛石がクロエの背中に押し付けられ、固い痛みが背筋を駆けた。


「ん、あれは――」


 そう遠くない場所から、犬狼の遠吠えが聞こえてくる。血の臭いを嗅ぎ付け、仲間を呼び寄せているのだ。

 早くこの場から立ち去った方が良いと考えていたクロエの目に、白馬の姿が映る。それは四足を投げ出し、既に事切れていた。この馬に乗り、駆けてきたのだろう。外傷は見当たらないため、過剰な運動による心臓発作が死因かもしれない。

 可哀想だが、このまま放っておけば多少の時間稼ぎにはなるはずだ。

 クロエは馬のそばに投げ出されていた水浸しの荷を拾い上げ、囁き声で詫びる。そして森の更に奥を目指し、早足で歩き出した。

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