この美しく残酷な世界で -第1部-
一色一葉
プロローグ
凍えるほどに寒い、ある年の冬の出来事だ。
その日は丁度満月だった。妙に胸騒ぎのする雰囲気が立ち込めていたのを、幼い少女は熱に浮かされながらも確かに感じ取っていた。刺すように張り詰めた空気が、心臓の鼓動を高鳴らせている。
犬狼から剥いだ毛皮の寝床に横たわり、薄い天幕越しに揺れる人影を朦朧とした意識の中で見つめていた。初めは囁くようだった話し声に耳をそばだてていたが、それは徐々に興奮度を上げていく。
「――やはり、サルジ族が相手では話にならない。あの王妃は一体何様のつもりなのだ。王への目通りを門前払いするだけでは飽き足らず、我々のような野蛮な戦闘部族に与える土地は猫の額ほどもないとほざいたのだぞ!」
「古い友人の頼みも聞けぬとは、まったく見上げたものだ」
「友人とは聞いて呆れる。我々の祖先はサルジの小間使いとして働かされていただけではないか。我々の大地を奪っておきながら我が物顔とは、どちらが野蛮だというのだ」
「やつらは自分たちがシャラ族の土地を侵略したことなんざ、これっぽっちも覚えちゃいないのさ。見ろ、資源を大地から奪い尽くすだけ奪い尽くした結果がこれだ。この周辺を不毛の土地にしちまいやがった」
その低く地を這うような怒声が少女の身を縮こまらせる。まるで自分が怒られているようだと感じながら、思わず耳を塞ごうとした。しかし、小さな両手が耳に蓋をしようとしたその瞬間、酷く場違いに思える朗らかな声が鼓膜を震わせた。
「過ぎたことを言っても仕方がない」
それは、少女の父親である族長の声だった。
少女は両手をそっと毛皮の中に引き戻し、凍えた指先を温めるように擦り合わせた。
「そろそろ安住の地を求めてもいい頃合いだと戻ってはみたが、どうやら俺の見当違いだったようだ。皆には足労をかけただけだったな、すまない。だが、まだその時ではなかったということだ。今は一旦、この地を離れよう。子どもたちには寒さが厳しすぎる」
「ここの寒さは大人たちにも十分に厳しいさ」
そうして入った横槍に、族長の笑う気配があった。
「では、これで決まりだな。明朝、荷をまとめて南へ向かう。皆にもそう伝えてくれ」
両手を打ちならす音が聞こえた後で、族長の声が明るくそう告げる。だが、その合図がまさに地獄絵図の始まりになろうとは、現段階では少女には想像もし得ないことだ。
まず聞こえたのは、騒々しい足音だった。
暗闇の静寂を蹴散らすようなその物音には、少女も思わず寝床から身を起こしていた。何かよくないものが近づいてくる気がすると、胸騒ぎが知らせていた。
「族長、お知らせします!」
それは若者の声だった。
ユルトの中にその若者が駆け込んでくると、天幕がふわりと波打った。
「評議中であるぞ、慎まぬか」
「構わない、丁度評議も終わったところだ。話しなさい」
若者を怒鳴り付けた嗄れ声を遮って、族長は静かに言った。若者の様子が尋常ではないと感じたのか、その声色は僅かに棘を含んでいる。
揺れる炎に照らし出されていた天幕の人影が、思い出したようにその場で膝を折ると、若者は話し出した。
「はい、申し上げます」
ごくり、と唾を飲む音が静寂の中に聞こえた。
「北東の方角より、武装したサルジ族と思しき戦士たちが、こちらに向かい進軍しているとのことです」
「なんだって?」
「それは確かか」
「間違いありません」
「……武力を以てしてまで我々を締め出したいというわけか。しかし、夜も更けた頃に攻め入ってくるとは穏やかではないな」
「やつら、寝込みを襲うつもりなのか?」
荒げられた男たちの声が周囲の興奮を煽り、そこに集っていた者たちは次々と声をあげた。少女は血液が体内で激しくうねるのを感じ、目眩を覚える。犬狼の毛皮を握り締めた自分の拳を見下ろし、恐怖に震えていることを自覚した。
実際に何が起ころうとしているのか、少女には理解が及ばなかった。ただ、男たちの空気を震わせるような激昂が恐ろしかった。思わず発狂したくなるほどの不安感を押し込め、少女は毛皮に深く潜り込んだ。
「族長、どうするんですか」
「尻尾を巻いて逃げる必要なんかないぜ、族長。やつらがその気なら、俺たちはやってやるさ」
「……まあ、待て」
憤慨している男たちの中でただひとり、族長だけが酷く落ち着き払った声音をしていた。彼は大きく息を吐き出すと、諭すように語り出した。
「無駄な殺生は避けるべきだ。お前たちの気持ちは分かるが、ここは抑えてくれ。我々が安住の地を求めるならば、それが例え十年後、百年後になろうと、この大地以外には考えられないだろう。ここが我々の帰るべき場所であるからだ。だが今は、彼らに従おう。立場的に考えてサルジ族を刺激するのは得策とは言えない。彼らの言うような本物の野蛮人に、我々が成り下がる必要はない。そうだろう?」
男たちは納得がいかない様子ではあったが、それが族長の下した決断ならば従うより他になかった。
急に静かになった男たちに向かい、族長は吐息のように笑った。それから入り口近くで膝をついている若者に声をかける。
「悪いが、皆を起こしてきてくれないか。荷をまとめておくよう伝えてくれ。だが、注意は怠るなよ」
「心得ています。それでは」
その足音が遠退くと、他の影も順番に立ち上がった。
それぞれが退室して行く中で、ふたつの影だけがその場に留まっている。完全に人の気配がなくなるのを待ってから、ふたりは密やかに唇を開いた。
「わざわざ皆が寝静まった夜更けを狙ってくるということは、そこに話し合いの余地はないということでは?」
「そんなことは、お前に言われなくても分かっているさ」
大きく息を吐き出した族長は、男の助言に悩ましげな声を出した。
だが、その声はやはり穏やかで、少女は誘われるように毛皮の影から外を覗き込む。すると、天幕を片手でたくし上げていた族長と視線が交わり、彼は垂れた目尻を余計に和ませて微笑んだ。
「やあ」
族長は朗らかにそう言った。
「起こしてしまったかな」
少女は申し訳なさそうな男の声を聞いて、首を横に振った。盗み聞きしていたことを叱られると思ったのだ。しかし、族長は僅かに怯えた様子の我が子を見ると、ゆっくりと近付いていく。傍らに膝をつき、あやしつけるように背中の辺りを毛皮の上から優しく触れた。
「心配することは何もない。眠れるまで傍にいよう」
低く穏やかな声は少女にとって酷く心地がよく、背中を一定の調子で撫でる手には安心感を覚える。深い眠りに落ちていくまで、さほど長い時間を必要としなかった。
夢も見ない眠りが続いていたかと思えば、少女を眠りの深淵から引きずり戻したのは、悪夢のような断末魔の叫びだった。最初は、本当に悪夢でも見ていたのだろうと少女は考えていた。
だが、それが夢ではないのだと察したのは、女や子どもたちの悲鳴が後に続いたからだ。猛々しい男たちの声が混ざり、逃げ惑うような足音が地鳴りのように響いている。
背中に何か冷たいものが滑り、少女は身体中に寒さとは別の悪寒が駆け巡るのを感じて、ぞくりと身震いをした。
このユルトの外では、何かよくないことが起こっている。ここで大人しく息を潜めていれば、それもやがて終わるだろう。そうしたら外に出て、何が起こっていたのかを確かめればいい。そう思うのに、少女はじっとしてはいられなかった。毛皮を握り締めたまま立ち上がり、がくがくと膝の震える足は確実に玄関を目指している。
人間の好奇心というものは、実に残酷だ。
怖いもの見たさに外の惨劇を目の当たりにした少女は、しっかりと、きつく握り締めていたはずの毛皮を足元に取り落としていた。
少女はその時、確かに人間ではないものを見たと思った。そこにいるのは、人間の殻を被った得体の知れない生き物だとすら感じた。血走った目の男たちが、白目を充血させ、憤怒の表情でひ弱な女や子どもたちを追いかけ回している。その手には決まって鋭い刃が握られ、てらてらと血濡れたそれで容赦なく少女の見知った人々を斬りつけていく。
暗く冷たい地面には、幾ばくか前までは間違いなく人間だったものが、重なりあうようにして倒れていた。それは今にもむっくりと起き上がり、他の者たちと同じように血走った目でこちらに迫ってくるのではないかと思うと、少女は恐ろしくて仕方がなかった。
鼻を刺すような不快な臭いは、近くにある血溜まりからだった。大きく目を見開き恨みがましそうにこちらを見上げていた女が、隣のユルトで暮らしていた三人の子を持つ母親だと気づき、少女は声にならない悲鳴を漏らす。少女とさほど年格好の変わらない子どもが、その傍らで蹲るようにして息絶えていた。
その実に無慈悲であり、惨たらしい残忍な仕打ちを、まだ五つほどの少女が目の当たりにしたのだ。昨日までは笑い、明日も今日と同じ朝を迎えられると信じていたのに、少女の思い描いた明日はもう決して戻らない。
「――伏せろ!」
まるで、耳元で叫ばれたかのような声が激しく言い放った。
それが自分に向けられた言葉だとは思わず、しかし少女は惹き付けられるように声の方向を見やる。すると、普段からは想像もつかないほどおぞましい形相を浮かべた族長が、こちらに駆けてくるところだった。
だが、その視線は少女ではなく、その彼方を捉えている。
視線を追いかけるように少女が振り返ると、そこには太刀を大きく振りかぶった男が、今にもそれを振りかざそうと言わんばかりの格好で立ちはだかっていた。
少女の頭は真っ白になった。人間の殻を被った得体の知れないものに、自分も、もぬけの殻にされるのだ。
手も足も自由を奪われたかのように、身動きが取れなくなった。だが、伏せろと言われるまでもなく、力の抜け落ちた足腰では地面を踏みしめていることもできない。次の瞬間にはその場に膝をついていた。すると風のような速さで少女の上を越えていった族長は、肘を敵の顎の下に入れ、その速度を借りたまま地面に押し倒す。
呻き声が聞こえたと、そう思ったのはほんの一瞬だった。
少女は族長に抱きかかえられ、駆ける振動に目を回す。揺れる頭に視野が追い付かず、思わず目を閉じて身を竦ませた。
「目を開けているんだ」
少女を見ることなく族長はそう言い、何者かを探すように周囲を見渡していた。
恐々と瞼を押し上げた少女の目は次に、ごうごうと音をたてて燃え上がる炎を見た。数十に渡るユルトが燃え、人すらもその体に炎をまとってのたうち回っている。ああ、それはまさに悪夢以上の地獄だった。凍てつく夜を熱し、舞い上がった灰の中を少女と族長は駆け抜ける。
「セラトラ!」
「ルウ!」
族長の呼び声に振り返った男は、血濡れた体の族長とその腕に抱えられていた少女を一瞥した。そして表情に驚愕の色を滲ませるが、族長は首を横に振る。
「大丈夫だ、俺とこの子のものではない」
それを聞くと、男は些か安堵したような表情を浮かべた。
「では、その覚悟ができたと?」
「……いや」
隣ではユルトが激しく炎上している。頬が焼けるように熱く、火の粉が無数に舞っていた。その揺れる炎の向こう側では、既に勝敗など決まりきった戦が無情にも続いている。
男たちはなぜ戦うのか。女たちはなぜ逃げ惑うのか。子どもたちはなぜ殺されねばならないのか――その解はどこを見回しても得られない。
「この子を連れて逃げるのは俺じゃない」
また、最期の悲鳴が少女の耳を貫いた。しかし今度は、目を瞑ることはしなかった。いや、出来なかったのだ。少女の正面、男の肩越しに見える炎の先で首が飛んだ。鉛が落下したような音をたてて地面に転がった。それは、濁った瞳で少女を睨んだ。
少女の緊張の糸が切れたのは、その瞬間だった。激しく手足をばたつかせ、空気中で溺れた魚のように暴れ出す。闇をも引き裂かんばかりの悲鳴は、どの断末魔よりもけたたましく響いた。
血の燃える臭いは実に不快だった。今までは遠くで知っていただけの死という概念が無理やりに引き寄せられ、その恐怖に耐えられなくなる。混乱を起こした意識は徐々に理性すらも支配し始め、感情を容赦なく蝕んでいった。
「頼む、この子を連れて逃げてくれ。既に何人かは森へ向かっている。お前が先導するんだ」
族長は我を忘れて叫び散らしている少女を、男の胸に押し付けた。男の手は族長と同じくらい血に汚れ、純潔な少女を抱くにはあまりに汚れてしまっていた。
「駄目だ、ルウ。そんなこと――」
それでも反射的に少女を抱き止めてしまった男は、困惑したように眉根を寄せる。
いつものように心を見透かそうとする眼差しで族長を見据えながら、自分の腕の中で猫のように爪を立てている少女を、ほとんど片腕で押さえつけていた。
「俺は部族の長としてここから逃げ出すわけにはいかない。そして、我々の血をここで絶やすわけにもいかないんだ、分かってくれ」
「ふざけるな! この僕があなたを置いて逃げ出せるなんて、本気で思っているのか? 死んだ姉さんにどう申し開きをしろというんだ!」
「お願いだ、俺とこの子のために逃げてくれ。お前なら逃げ延びられる、妻も許してくれるだろう」
絶句して動けずにいる男を、族長は力一杯突き飛ばした。すると二人の間には見計らっていたように武装した敵兵が立ちはだかり、少女を抱えた男に襲いかかろうとする。確かに、少女を抱えている男の方がずっと手負いだろう。
しかし、族長がそうはさせなかった。腕を伸ばし、背後から男の首を締め付ける。そして燃えるユルトに敵兵を投げ入れると、彼の髪は燃え、肉が燃えて焼け爛れた状態のまま這い出し、熱さに身もだえながら息絶えていった。
「行け! 俺に構うな!」
「しかし」
「俺の代わりに娘を頼む!」
「……くそっ」
涙を流さずに喚き散らすだけの少女を力ずくで黙らせ、男は一瞬とも永遠とも思える間だけ族長の背中を見つめていた。だが、小さく悪態を吐くと意を決したように森へ向かって走り出す。
男は後ろを振り返らなかった。ただ、行く道を妨げ、邪魔をする者たちを順番になぎ倒し、確実に息の根を止めていくだけの単純で残酷な行為を続けるだけだった。
その数日後、サルジ族に捕縛されたシャラ族の族長が見せしめのために公開処刑されたという噂が、命からがら逃げ延びた男と少女の耳にも飛び込んできた。苦渋に顔をしかめる男の隣で、表情をなくした少女はただ真っ直ぐに空を見上げていた。
『――風の中に私を感じるのよ、クロエ』
母が今際のときにそう囁いたことを、少女は思い出していた。
『風は死者を運ぶの。風は私を連れ去るけれど、またいずれあなたの元に運んでもくれるわ。だから、どうか悲しまないで』
母はその言葉の通り、風と共に命の灯火を消した。それはユルトの中にいても感じるほど大きく、空に向かって巻き上がるような不思議な風だった。
以来、頬を撫でる優しい風が吹くたびに、少女はいつも母を感じていた。巻き上がるような風が吹くたび、どこかにいる誰かの死を悼んだ。嵐の夜は自分たち一族のように、一夜で絶えた者たちを強く思った。
「……父さまは生きてる」
ぽつりと漏らした少女の横顔を、男は驚いて見つめる。
「母さまが言ってた。人は死ぬとき、風が迎えにくるんだって。その風に乗って、お空に昇るんだって」
「クロエ……」
もし族長が処刑され死を迎えたのだとしたら、少女の元へその魂を乗せた風が訪れたはずだ。けれど、あの夜が明けてからは一度も風が吹いていない。
「父さまは死んでなんかいない」
確信めいた少女のその口振りに、男は複雑そうな面持ちになった。
けれどそれを否定できないのは、男自身もそう信じたいと思ってしまったからだ。部族一の手練れである族長が敵兵に捕らえられるなど、本来であればあり得ない。何か理由があるはずだと、自らに言い訳をせずにはいられなかった。
「では、そう信じよう」
まだ少し体温の高い少女の肩を抱き寄せ、男は言った。
この目でその死を確かめるまでは、少女の言葉にすがっていよう。新たな長を迎えることはせず、再建した部族を粛々と差し上げることができるように。
それまでは、この腕に抱いた少女を我が子のように愛し、育てるのだと、男は固く誓っていた。
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