第9話 宛先のない願い

 「ねえ、シアンはいくつだと思う?」

 唐突な問いかけに、俺は視線を上げた。

 足首の軽い不具合を調整するために跪いた俺の前には、足首の持ち主であるシアンがいる。

 「さあ。いくつなんだ?」

 死んだ時、或いは身体を変えた時、シアンは十四歳だったはずだ。けれども今問いかけられているのはそういうことではない気がする。

 「七十二。」

 それは人の生きる時間として長いのだろうか、短いのだろうか。俺には判断はつかなかった。

  ただ、大人になることのできない足踏み状態で、半世紀を越えていること自体は長いと言わざるを得ないはずだ。まして本人は大人になりたいと渇望しているのだから。

 「昔ね、人類が地球だけで暮していた頃。人が生きる時間ってだいたい八十年くらいだったんだって。百二十歳くらいまで生きる人も中にはいたけど、普通は八十歳ぐらい。」

 それならシアンは人生の殆どを子供として過ごしてしまっているわけだ。もちろんアンドロイドの体である今のシアンに、必ずしもあてはまる話ではないのだが。

 「ねえ、僕はもう随分生きたと思わない? 人の一生に近いくらい、僕は生きた。僕が生まれたときに誰も、僕がこんなに生きるとは思っていなかったと思う。」

 それは、そうなのかもしれない。だが、だからと言ってシアンが自分の生命の限界を決めるような発言をする事には抵抗があった。シアンはずっと生きたがっていたはずだ。そして大人になりたがっていた。十分に生きたと思っているなら、大人になりたがるはずがない。

 「うん、僕は大人になりたい。生きることに満足してなんかない。ここじゃないどこかへ行きたい。」

 シアンが俺の考えを読みっ取ったように答えた。俺の表情にそんな微妙な感情が現れていたとも考え難いのに。

 「でも、でもね、『シアン』が大人になるのなら『シアン』は僕のままでなくてもいいんじゃないかって思う。」

 シアンはそこまで言って目を伏せた。衿から首にかけた細い鎖を引っ張り出す。そこには金とプラチナの二重螺旋の指輪が通されていた。

 「僕は十四歳で死んだ。それからの僕は接木したみたいなものなんだと思う。もしかしたらそこで『シアン』は受け継がれたのかもしれない。遺伝子が継ぎ合わされて未来へと続いて行くみたいに。」

 首から鎖を外し、指輪を手のひらに握る。その手を俺に差し出した。

 「僕は大人になりたい。『シアン』は大人になって生きたい。だからピノ、もしも嫌でなければ『シアン』を受け取って。僕も君もこのままではきっとここから出て行けない。だけど君が『シアン』になればどこへでも行けるんだ。」

 目の前で開かれる小さな拳。

 手のひらには二重螺旋の指輪。

 「それでいいのか? 本当に?」

 カエルムは自分を半ば殺してシアンを受け入れた。けれど俺がシアンの記憶を受け入れても同じように出来るとは思えない。最悪の場合、シアンの記憶をもつ別人になってしまう。

 「だって、シアンは大人になりたいし、僕は十分に生きたもの。」

 そうか、と思った。

 シアンにとってこれは世代交代のようなものなのだ。卵を産んで死ぬ魚のように、覚悟はきまっているのだろう。

 だが、俺にその覚悟はあるだろうか。

 シアンを受け入れて変化していくことへの覚悟は、俺の中にあるだろうか。

 「すまない。少し待ってくれ。ちゃんと返事ができるまで。」

 シアンはがっかりした顔も、ホッとした顔もしなかった。

 ただ、指輪の鎖を再び自分の首にかけて笑った。


 ピノに言った。

 言ってしまった。

 どうかピノが僕を嫌いませんように。

 ピノの弱みにつけ込むように、無理な申し入れをする僕を軽蔑しませんように。

 そして、できる事ならシアンを受け入れてくれますように。

 なんて身勝手で、都合の良い願いだろう。こんなひどい願い事は誰にも願うことができない。どんな慈悲深い神様だってきっとこんな願いは叶えてくれない。

 だから、僕は宛先のない祈りを捧げる。

 卑怯で、卑屈で、弱い者としてしか振る舞えない。

 僕はそんな僕が嫌いだ。

 ピノにとって値打ちがありそうなのはガリマールの名前ぐらいだろうと思う。ガリマール直系のシアンには、簡単には手出しできない。ピノがシアンになってしまえばどこへだって行けるのだ。湖の向こうにあるピノの生まれた場所へだって。

 そして、役にたつのはたぶんそれだけ。

 外見を、名前を、変えて。

 シアンの記憶を背負い込んで、沢山の変化を受け入れて。

 ピノを消してしまうような真似をして。

 そこまでする値打ちなんかあるのだろうか。

 でも、それでも、その僅かな藁に縋りたい。だってきっともうシアンには時間がない。

 ティユールおじさんはすでに九十三歳だ。いつ何があってもおかしくはないし、実際に弱ってもいる。おじさんがいなくなれば、シアンはとても生きてはいけない。

 僕は卑怯で卑屈で弱い。

 半世紀以上も子供のままで、歪な形で生きている。

 シアンは十四で死んだ。

 カエルムはこんなにもつような機体ではなかった。

 僕はこんな形でなければこれほど生きるはずではなかった。

 でも、十分に生きたとわかっていても、生きたい、活きたい、行きたい。

 シアンの生命を消したくない。

 生命を受け継いでいきたい。

 だから、どうか、どうか、どうか。

 お願い、シアンの生命を次へつなげて。

 

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