第6話 羨ましいという気持ち
炉辺荘にはいってから、追手の姿を見ていない。
俺の逃走方法が功を奏したということなのか、ティユールの言う「ガリマール」の力故なのか、俺には判断がつかなかった。
ただ、可能なのであれば研究所の様子を見に行きたいとは思う。
それが危険な行為であることはわかっていたが、気がかりである気持ちを捨てることはできなかった。
ティユールと研究についての情報交換をするようになって、ティユールの発想の豊かさに驚きもした。
父の研究成果である俺は、父の理論や方法論なら一通り記録を持っているが、ティユールのそれは見事に父と補い合う部分が多く、二人が若い頃親しかったと言うことに納得できる。きっと二人はそれぞれの理論を吸収し合いながら研究を深めていったのだろう。
ティユールはまさに甥を取り戻そうとしていた。
シアンの今の体、カエルムはティユールとしても仮の措置で、炉辺荘に頼らない独立型のボディを用意したいらしい。
「シアンがこの先もちゃんと生きて行けるように。」
ティユールにとってのシアンは、今も「生きて」いるらしい。
シアンが何者なのかは、俺の中でなかなか形にならなかった。
シアンという人間の記憶をのせた、もとはカエルムと呼ばれていたアンドロイド。
人を人たらしめる何か、それを魂と呼ぶのだとして、それは何に宿るのだろう。
ティユールはたぶん、それを記憶だと考えている。生まれてすぐからモニターし続けたシアンの生涯の記録。そこにティユールは自分の甥の存在を見つけ出そうとしている。
もしかしたら、ティユールにも確信はないのかもしれない。ただ信じたいということだけなのかもしれない。自分のたった一人の家族がすでに失われていることを、認められないだけなのかもしれない。
ただ、それだけでは説明しきれない何かが、シアンに感じられるのも確かだった。
俺はアンドロイドで、だからそれほど複雑な感情を持たない。人の錯綜し、時に矛盾する感情は、俺には望むべくもない。
しかし、シアンには名状しがたい表情を浮かべる瞬間がある。
それは例えばあの天球儀に触れる時に、金木犀の生け垣迷路を抜ける時に、そしてティユールを見つめている時に、ふと浮かび上がって消える。表情の種類も一様ではなく、時と場合によって揺れ動く。
シアンのビスクドールめいた外見は、むしろ人間らしさから離れたもののはずなのに、その表情の複雑さは驚くべきものだ。
正直、羨ましいと思う。
それは俺には望むべくもないものなので。
アンドロイドを作る時、人間を目指さない研究者は多分いない。俺の父もそうだった。だから俺は兄姉ほどに整った姿はしていないのだ。人間らしくあるために。
なのに、外見的にはずっと人間離れたシアンのほうが俺より遥かに人間らしい。
ティユールが信じているように記憶に魂が宿るなら、俺も長く記憶を積み重ねていけば、少しは人に近づけるのだろうか。
夢を見た。
螺旋の夢だ。
絡み合う二重の螺旋。
記憶と想い。
ひかれあってまわる天体のように、ぐるぐると渦を描く。
目を覚まし、顔を洗う。
鏡にうつるのは
10歳にならないぐらいの、あどけない顔立ちに深い青の目。
もう何十年も見慣れた姿。
たくさんの機械の補助を受けていた僕の体はあの時だって、ほとんど生身の部分を持たなかった。足は両足とも付け替えていたし、脳にも相当の補助が入っていた。内蔵関係だってかなり生身じゃなかった。
でも、あの時僕が死んだのは心臓が生身だったからだ。心臓が止まってしまって、僕は死んだ。
この季節になると、ほとんど四六時中あの時の事を考えている。それはたぶん、金木犀が香るからだ。とろりと濃い香りの金色の花の咲く生け垣迷路が、僕の死に場所だった。
最近、生け垣迷路や天球儀のところでピノと出会うことが多い。ピノは叔父さんの研究の手伝いをしているのだけど、考え事があるとあのあたりをうろつくらしかった。
天球儀はピノが現れたところで、湖の向こうにはピノが生まれたという研究所があるらしい。
スラリと背の高いピノの姿が、僕には眩しくて羨ましい。僕はもう何十年も子供のままだ。きちんと大人になれない僕はやっぱり死者めいているような気もする。
きっと体と魂って全く別のものではないんだ。子供の体に宿る魂は、大人にはなれない。植木鉢に植えた木みたいに、大きくなれずにとまってしまう。
昔、シーラカンスという魚が発見された事があったそうだ。僕の部屋のお気入りのオブジェのもとになった魚だ。
シーラカンスはそれまで遠に絶滅したと思われていた太古の魚で、深海で人知れず生きのびていたのが、偶然釣り上げられて話題になった。
シーラカンスにしてみれば、きっと変わらず深海で生きてきただけなんだと思う。眠っていたわけでも、突然時間を越えたわけでもない。淡々とした日常がきっと太古から続いていたに違いない。
僕も同じ。
あの日から、いいやその前から、僕の日常はここにあって、ずっと同じように続いてきた。
だけど、きっとここは太古の海なんだ。
外から見れば僕だって、太古の海の夢の中で眠っているみたいに見えるだろう。それだって多分間違いじゃない。だって変化しないということはきっとおかしなことだから
生命はいつだって知らない場所を目指す。
魚が海から陸に上がったように
鳥が空を飛ぶように
そして人が地球を飛び出していったように
時々、ピノが僕を見つめている。
それは叔父さんが僕を見ているのとはどこか違う。
探るように、訝しむように、それから、
もしかしたら羨むように。
ピノは何が欲しいんだろう。
何を大切に思っているのだろう。
僕にはそれを想像することもできない。
僕はピノが羨ましい。
大きくて、どこにでも行ける力を持っているから。
僕もあんなふうになれるならいいのに。
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