第5話 シアンの話
「眠れない?」
声に振り返ると、ティユールがいた。満点の星の輝く庭の、天球儀のそば。シアンと出会った場所。
「眠る必要はないんです。休止するだけで。知っているでしょう。」
「そうだね。」
俺は生き物ではないから眠ることも夢を見ることもない。ティユールはもちろんわかっている。
ティユール·ガリマール博士。地球在住のアンドロイド研究者だ。同時にガリマール財閥の総帥でもある。
地球に暮らすのは特権階級であり、保護された人々でもある。かつて地球から出ていった人類はその新しい環境にあわせて様々に身体を変えた。極端な例では水中生活に適応した例もある。今やもともとの人類の身体を完全に保っているのは希少で、「原種保護法」のもとに地球上で保護されている。管理された幾つかの家系の一つがガリマール家だ。
原種家系は財閥や星間組織の名目上の役職などにつくことが多いが、ガリマール家は数少ないもともとの財閥総裁の一家でもあった。正真正銘の特権階級なのだ。
「ジェベットが地球に興味を持っていたのは知っていたよ。でも居住許可を手に入れたのは知らなかった。こんな近くにいると知っていたら会いに行ったのに。」
ティユールがそっと、天球儀にふれる。本当に大事そうに。愛しいものに触れる手つきで。俺は気になっていた事を聞いてみることにする。
「ここにいるのは、シアンですか。」
「そうだよ。」
ためらいなく答えが返る。
俺が出会ったシアンは、アンドロイドだった。なのに自分が人間であるかのように振る舞っている。ティユールのことを父ではなく、叔父と呼ぶ。
シアン、という甥がティユールにはいたのだ。アンドロイドではない人間の。
「今ぐらいの季節だったよ。金木犀が咲いてた。シアンは植え込み迷路で倒れて、そのまま目覚めなかった。」
天球儀は墓標なのだ、そのシアンの。
「よく、わかったね。サイボーグだとは思わなかった?」
俺は首を横にふった。
「シアンは時々、まるでシアンが別にいるみたいに振る舞うことがあるので。」
シアンは俺に話をねだる。
シアンが喜ぶからと。
「そうだね。あのボディにはカエルムが残っているから。」
「カエルム?」
初めて聞く名前だった。
「あのボディのもとになっている子だよ。私が作ったんだ。シアンのために。」
ティユールの視線が天球儀に注がれる。
「シアンは体の弱い子でね。生まれると同時に余命宣告を受けてしまうような子だった。最初は『お誕生日を迎えるのは難しい』で、次は『三歳まで持てばいい方』。シアンが三歳になる前に兄夫婦、シアンの両親が事故で死んだんだ。それで私が研究所からこちらに戻った。」
「それまでにもしょっちゅう戻ってはいたんだ。シアンの体をサポートするのに私の研究はうってつけだったから。シアンの三歳の誕生日プレゼントは歩くための足だったんだよ。兄夫婦がやっと同意してくれて。その調整のためもあって、私はあの時炉辺荘にいた。」
炉辺荘というこの屋敷の名前は、シアンの母親が付けたそうだ。古典文学の愛読家だったとかで、炉辺荘の名前もそこからつけたのだとシアンが言っていた。
「最初は声だったな。一緒に言葉。身体の中に機材を埋め込むのとは違う、足を置き換える手術はなかなか許可が出なかったんだ。シアンは生まれたときからずっとモニターして記録をとってきたからカエルムにデータを載せるのも難しくなかった。失われた連続性は一日もないよ。」
使えなくなったボディからデータを載せ換えた。そうしてシアンを「助けた」ということらしい。
それは同じことなのだろうか。
シアンが生きているという事と、シアンの記録が連続して存在しているということは。
アンドロイドなら、記録の移植に寄って存在を救うことができる。アンドロイドの個性というものは初期設定の上に積み重なった記録そのものだからだ。
しかし人間の存在も同じようなものと考えてしまっていいのだろうか。
「シアンを失いたくないんだ。」
ティユールは年老いて、彼こそいつ失われても不思議ではないように見える。ちょうど俺の父のように。
シアン=カエルムは決して強固なボディではない。改良は加えているようだが、子供向けのコンパニオンアンドロイドが原型で、体つきも十歳前後の子供の姿をしている。それほどハードで長期間の使用を前提としているようにはみえない。つまり使用限界が近づいているのだろう。
「手を貸してくれ。君の力をかりたい。」
それはつまり、俺の中にある父の知識と技術が欲しいということだ。
俺はゆっくりと頷いた。
僕は死んでしまったことがある。
死にかけた、ではなくて本当に死んでしまったことが。
あれは冷たい風の吹く秋の日で、金木犀が咲いてた。ちょうど今くらいの季節だ。
僕はいつものように庭で遊んでいて、カエルムも一緒だった。きゅうに視界が暗くなって、手足の力が入らなくなった。カエルムが、僕の体を支えて叔父さんを呼んでくれたけど、間に合わなかった。
それで、僕は死んだ。
死ぬとき、風が強くて金木犀の花が渦を巻いて吹き付けて、僕はその中に閉じ込められてしまいそうで怖かった。甘い香りの金の花。虫を閉じ込めた琥珀のようだ。だから今でも金木犀の花は少し苦手だ。それでもあの生け垣迷路に通うのは、あそこに天球儀があるからだ。叔父さんは言わないけど知っている。あそこにはシアンが眠っている。
目が覚めたときカエルムはいなかった。僕がカエルムだったから。
僕は誰なんだろうって時々思う。
シアンが生まれてからのすべての記憶が僕にはある。同じようにカエルムの記録も持っている。この体の元々の持ち主はカエルムで、だから本当は僕はカエルムであるべきなんじゃないかとも思う。
でも、僕はやっぱりシアンなんだ。自分の名前を思うとき、どうしてもまずシアンが浮かぶ。
シアンは生きているのだろうか。
生きているって言えるのだろうか。
でも、もしも僕が生きていないなら、この気持ちはどこから来るのだろう。
遠くへ行きたい。
ここじゃない何処かへ。
誰も見たことのない場所へ。
消えることのない気持ち。
ふるえるような憧れが、いつでも心に爪をたてている。
僕は、ここから出てはいけない。
この屋敷の中でしか僕のボディは機能しない。炉辺荘と僕は一体のシステムなのだ。
襟元の二重螺旋の指輪を探る。
僕が受け継いだ生命。
身体を失っても、まだ僕の内側に息づくもの。
いきたい 生きたい 行きたい
僕はぎゅっと目を閉じる。
シアンの生命は僕が守るよ。
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