第4話 炉辺荘

 シャワーと着替えを借りてさっぱりすると、温室に招かれてコーヒーを振る舞われた。

 そこここに植えられた何本かの木と、片隅に咲く鮮やかな花。煉瓦の床には厚い敷物が敷かれていて、たっぷりの詰め物を詰めたクッションがいくつも無造作においてある。小さなトレイにコーヒーとクッキーをのせたものを、クッションにもたれて膝に載せる。コーヒーの香りを深く吸い込んで、俺はゆっくりと息をついた。

 「クッキー美味しいよ。」

 すぐそばでココアを飲みながらシアンが笑う。

 「私の服が着られてよかったよ。」

 シアンの「叔父」だというティユールもコーヒーを片手に安楽椅子に座っていた。

 「すみません、助かりました。」

 「いや、旧友の子の役に立てたならよかったよ。ジェベットは元気かい。」

 にこやかな言葉に目を伏せる。

 「父は亡くなりました。もう五日前のことになります。」

 そう、あれからもう五日もたつ。

 捕まった兄姉は、十七ディチャセッテはどうなったろう。

 父は埋葬されたのだろうか。

 「それは…大変だったね。知っていれば力になれたのに。」

 父が湖の対岸にいることをティユールは知らなかったらしい。父は若い頃のつながりを絶ってしまっていたようだ。ティユールがここに住んでいるのは生まれたときからのことらしいので、父の方は知っていたのかもしれない。

 「ジェベットは素晴らしい研究者だ。彼の理論はいつも独創的でしかも実用的だ。最近論文を見かけなくなったとは思っていたが、こんな近くにいたとは。」

父はとても年老いていたが、ティユールも同じように老いていた。シアンは彼を叔父と呼ぶが、外見で言えば曽祖父でも通りそうだ。

 「それで、君は行くあてはあるのかい。ないならしばらくここにいなさい。シアンも喜ぶ。」

 それはとてもありがたい提案だったが、俺は答えるのを躊躇った。俺は追われている。迷惑をかけるかもしれない。

 「大丈夫、私はガリマールでここはその屋敷だ。心配はいらない。」

 俺の躊躇いを見透かすようにティユールが笑った。




 ピノがうちに住む。

 なんて素敵なんだろう。

 ピノを見つけたとき、太古の海から来たのかと思った。天球儀のすぐそばで、しかもびしょ濡れだったから。

 叔父さんと同じくらい背が高くて、紫の瞳がとても綺麗だ。癖のある黒髪が、頬の硬い線を和らげている。

 シアンとはまるで違うのだけど、おじさんと並んでいるのを見るとちょっと思う。大人になったシアンはこんな感じなのかなあ。

 ピノの部屋は使ってない中では二番目に大きな寝室に決まった。掃き出し窓から湖が見えるのはどの部屋も同じだけれど、カーテンや絨毯は渋めの赤系統で統一されている。僕はピノに始祖鳥のオブジェをプレゼントした。始祖鳥なら赤と合うかなと思ったので。

 今まで二人だった食事やお茶の時間も、三人で過ごすことが増えた。僕は賑やかになってすごく嬉しかったんだけど、ピノは十八人兄弟なんだって。十八人も人がいるってどんな感じなんだろう。ちょっとうまく想像できない。

 時々、ピノは湖を見る。

 多分無意識に湖の向こうを見ている。

 僕はこの屋敷から出たことがない。生まれたときからずっとこの屋敷の敷地だけが僕の世界だ。僕の身体はあまりに弱くて、外に出てゆくことが出来ない。

 だからピノの話はどれも、とても面白かった。湖の向こうのピノの家も、対岸の街の話も。夜、湖の向こうに見える灯りが街だということは知っていても、そこがどんな場所かは初めて知った。

 まるで物語が現実になるみたいでわくわくする。この屋敷の外にも世界が広がっていて、沢山の人が住んでいる。それが本当だということが初めて分かったような気がする。

 何処かへ行きたい。

 ここじゃない何処かへ。

 その気持ちが身体の深いところから湧き上がってくる。

 僕は首にかけた二重螺旋をぎゅっと掴む。

 舞い上がる黄金の花。

絡め取り、閉じ込める。

 目を閉じて、深呼吸する。

 思いはストンと収まって透き通ってゆく。

 シアンへ

 

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