第2話 それぞれの夜

 雨は夜になってひどくなった。木々に囲まれた湖は暗く、ただ町のある方の空だけがぼんやりと薄明るい。こんな雨の夜にはその微かな明かりさえもほとんど見えなくて、ただ雨の音だけが炉辺荘を押し包む。

 「よく降るな。」

 温室で珈琲のカップを手におじさんがつぶやく。

 建物の南側、湖側に張り出した温室は、僕達のお気に入りの部屋だ。煉瓦の床には分厚い敷物が敷いてあり、低いテーブルや大きなクッションがおかれている。体を包み込むほど大きなクッションに座って、ココアを飲む。珈琲の香りの中で飲むココアは本当に美味しい。

 叩きつける激しい雨は硝子の上を滑り落ちて、こうしているとまるで滝の中に座っているみたいだ。

 「秘密基地みたい。」

 「そうだな。」

 水を割って現れるヒーローのメカを連想してそう言うと、おじさんも同意してくれた。

 こんな雨の中を歩くって、一体どんな感じなんだろう。服を着たまま水のシャワーを浴びるみたいになるんだろうか。もちろん服を着てシャワーを浴びたこともないんだけれど。

 暖かな飲み物をのみながら、僕たちはそれぞれに本を読んでいた。僕が今読んでいるのは地球の生き物の進化の歴史だ。何度も何度も、内容を暗記するほど読んだけれど、それでもまた読みたくなる。気の遠くなるほど昔の、最初の原子生命から一瞬でも途切れたら、僕は今ここにいない。そうやって考えると 僕と関係のないものなんて、きっとどこにもないのだろう。

 服の上から胸元を押さえる。

 小さな硬い、輪の感触。

 金と白金で作られた、二重螺旋の指輪。

 お母さんの指に合わせて作られた指輪は僕には大きすぎるから、細い丈夫な鎖に通して、首にいつも掛けている。

 これは僕のDNA。

 お父さんが作った、お母さんのための指輪。そして僕が受け継いだもの。

 二人の命を受けて、その二人へと続く無数の命を受けて、今、僕がここにいる。

 不思議で、誇らしくて、胸が痛い。

 嬉しいのとも、悲しいのとも違う、でも心が浮き立って、沈んで、ざわざわとする。

 こんな気持ちを一体何といえばいいんだろう。僕がまだ知らない言葉であれば、言い表すことができるのだろうか。

 一つだけ、わかっていること。

 海から陸に上がったように、陸から空を目指したように、生命というものはきっと新しい場所を目指すものなんだ。誰も感じたことのない気持ち、誰も見たことのないもの。そういうものに憧れるように、きっと生命はできている。

 遥か、太古の海から続く螺旋。

 一度も途切れることなく、長い長い時間を超えて、ここまで伸びてきた螺旋。

 どうすればこの先に伸びていくことができるのだろう。途切れることなく、諦めることなく。

 誰も知らない場所を目指して。



 夕暮れから降り出した雨は、夜が深くなるに連れて激しくなった。

 恵みの雨だ。

 どんな追跡者でも雨の中での追跡はそうでないよりも困難を伴う。まして逃亡者たる俺は、雨で体力を奪われることは殆どないのだから。

 なんとか逃げ出した俺は、とりあえず街を目指した。街には人間やアンドロイドがたくさんいるから、紛れようと思ったのだ。街の向こう側には湖畔に沿って森があるが、研究所の周囲をのぞくと街まではまとまって樹の生えている場所もないので、街に行く以外にとりあえず紛れられる場所もない、ということもあった。

 結果的には失敗だった。

 研究所を襲った連中は、街をすでにおさえていた。街そのものはいつも通りに見えても、防犯システムが抑えられていれば街に入った者の動向は丸見えだ。

 幸い捕まる前に気がついて、俺は街の外へと走り、森に紛れると見せかけて湖に入った。

 雨が平気であるように、俺は水中も移動できる。

 水面近くを俺のサイズで移動すればどうしたって目立つのはわかっていたから、湖底をできるだけ静かに進む。最初からそうすればよかったのかもしれないが、俺だって湖底を歩いたことなどなかったし、追い詰められて初めて気がついた逃亡経路だった。

 雨は激しかったが、湖底を行く分にはほとんど関係ない。逆に湖面から見ても、昼でも光のあまり届かない湖底の様子を雨の夜に伺うのは難しかったろう。肉眼でなくてもゆらぎや反射に相当ごまかされてしまうに違いない。

 湖底は静かだった。

 決して平坦ではなく、歩きやすくはないが、俺の邪魔をするものもいない。見上げても夜の湖面は暗いばかりで、重たい闇が俺を押し包む。とりあえず、研究所や街から離れる方向に、ひたすら歩いた。

 追手の気配もなく、ひたすらに歩くという単調な動きをしていると、どうしても研究所の、兄弟の事が頭に浮かぶ。

 次々と機能を止められ、樹脂のケースに入れられていた兄姉。それは死んだ父を棺に収めた様子にあまりに似ていた。違うのはみんなで摘み集めた花が入ってはいないことぐらいだ。俺と十七以外の兄姉は研究所から遠く離せば機能しなくなってしまう。研究所のシステムごと動かすつもりなのかもしれないが、簡単なことではないだろう。そういう意味では兄姉は棺に入ったようなものなのかもしれない。

 つい、数日前まで生活していたのだ。

 父と、たくさんの兄姉と。

 なのに、そのうちの殆どが棺に入っている状況をどう考えればいいのだろう。状況そのものはわかっていても、そのことをどう受け止めればいいのかがわからない。

 それに、兄姉はともかく、父の棺をあのままにはしておけないはずだった。父は人間なのだからきちんと土に返さなければ無残なことになるだろう。

 それから、十七。

 俺ともう一人だけ独立型の、逃げることのできた姉。十七は今頃どうしているだろう。

 

 

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