深海魚-シーラカンス-

真夜中 緒

第1話 湖の此岸と彼岸

雨の日の夕暮れは、少し太古の海に似ている。

そう思いついたきっかけを、僕はもう忘れてしまった。もしかしたら青く染まる掃き出し窓に映る、シーラカンスの影を見たせいかもしれない。

 様々な青系統の不規則な波模様が全体としては渋い青に見える絨毯に、青のグラデーションに金や銀の線画で太古の生き物を描いたカーテン。所々に置いたシーラカンスや始祖鳥を模したオブジェ。

 雨の夕暮れではなくても、僕の部屋は相当に太古の海に似てる気もしないではないけれど、やっぱり雨の夕暮れは特別なものに思える。

 雲と雨を透かして届く淡い光。潮騒に似た、湖に降る雨の音。揺らめく薄明かりの中では金属でできたシーラカンスでさえ、今にも泳ぎ出しそうに見える。

 淡い夕暮れの光はいっそう淡く、緩やかに闇が部屋に満ちる。忘れられた太古の海にそれはあまりに似つかわしくて、僕は膝を抱えて丸くなりそっと目を閉じた。

 

 緩やかに沈む、沈む、沈む。

 太古へ 、生命の始まる場所へ。

 二重の螺旋が渦を巻き、世界の外へと伸びていく。甘い香りが僕を捕らえ、琥珀の中へと閉じ込める。

 僕は琥珀の内側から、螺旋へ向けて手を伸ばす。

 何処かへ

 誰も知らない場所へ

   ー 僕の生命はどこへもいけない ー


 「シアン。」

 目を開けると、おじさんの顔があった。

 ティユールおじさんはお父さんの弟で、お母さんの幼馴染。三人はいつも一緒に遊んだんだって。

 「だめじゃないかシアン、その辺でうたた寝しては。風邪をひいてしまうぞ。」

 「あ、ごめんなさい。」

 僕は雨の音を聞きながら、眠ってしまっていたらしい。おじさんが運んでくれたのか、今は自分のベッドにいた。

 うたた寝なんかすると風邪をひいて、おじさんに心配をかけてしまう。風邪をひくとすぐに高い熱が出るから。

 僕がまだ小さい頃にお父さんとお母さんが亡くなった。それからずっと、僕はおじさんと二人で暮らしている。生まれた時から身体の弱かった僕を、おじさんは本当に大切に育ててくれた。

 この家、炉辺荘が僕の世界の全て。

 潮騒だって本物を聞いたことはない。海を見たのは仮想現実の中でだけだ。窓の外に広がる湖の向こう岸にさえ、僕は行ったことがなかった。

 「さあ、夕食にしよう。チャウダーがあるよ。」

 おじさんのチャウダーはトウモロコシとベーコンがたっぷり入ってとても美味しい。

 僕は起き上がるとおじさんと部屋を出た。




 身を潜めていなければならないとわかっていた。

 今、この状況で見つからずに動く方法がない。頭の中でおびただしい数の計算式が動く。そのどれもがこの状況を打開する方法を弾き出せずにいた。

 俺は役立たずだ。

 兄が、姉が、次々に捕らえられていく。

 夜の黒髪に濃い紫の瞳。それが俺たち兄弟の外見上の一致した特徴だった。

 一の兄やニの兄、三の姉の頬はつるりとしている。陶器めいた光沢は人工皮膚を直接フレームに貼り付けているせいだ。四の姉からはフレームにジェルコーティングを施すことで自然な輪郭を実現した。ただ、外見は絶世の美女で、街に出るととても目立った。

 だから一番新しい俺は特に綺麗な顔はしていない。

 目立たないこと、人間らしいこと。

 そして人間を超えていること。

 それが俺の、俺たち兄弟の作られた目的だった。

 父が亡くなったのは一昨日のことだ。

 俺たち兄弟はみんなで父を弔うことにした。

 父の体を清め、その体を収める棺を作った。庭に咲く花を集め、上等のシーツで包んだ父の体を更にその花で覆う。皆で父のために祈り、庭の一番美しい場所に父を葬るつもりだった。

 それがなぜ、こんなことになっているのだろう。

 異変に気づいたのは俺と、すぐ上の十七の姉だった。

 今まで感じたことのないたくさんの人と機械の気配。

 「逃げなさい。」

 一の二の三の、十五までの兄弟が言った。

 彼らはこの家から遠くには離れられない。十六の姉はデータ取りのために眠ったままで、目覚めてきたことさえもなかった。独立したシステムを持つのは、十七と俺、十八のふたりきり。

 結果的には逃げられなかった。

 逃げ道のすべてを潰されて息を潜めたまま、俺は兄弟が捕えられシステムを落とされて連れ去られていくところを見ている。

 「これで十五体。」

 「こっちにもう一体あったぞ。」

 「あと二体だ、探せ。」

 俺達の数を知っている。そのことにぞっとした。彼らはなんとしても俺を探し出そうとするだろう。そこからどうやって逃げ出せばいいのかわからない。

 一瞬、影がよぎった。俺から遠く離れた庭の向こう。

 人がその影に向かって動く。

 俺は反射的に影が動いたのと別の方向へと動いた。影が十八であるのはわかっていた。なにか活路を見出したのか。

 あるいは。

 俺をかばって囮になろうとしたのか。

 どちらにしても逃げる確率を上げるなら分散するほうが有利であるのは間違いない。

 俺はわずかに手薄な方角を目指して走り出した。

 

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