微睡

 ワンフロア下のショップの店長は、潰れたクラブのオーナーの友だちだった。店長のナナはオーナーの家を知っていた。苺は、ナナのショップで働いているユイと同居していたことがある。ユイに誘われて販売員になった。横浜に戻りいくつものクラブを彷徨うろついていたときに知り合ったレズビアンのユイ。あたしは。本当に湘南にいたのだろうか。二十歳近く年上の男を好きになり、その妻と息子と同じ家で暮らしていたなんてことが本当にあったのだろうか。さっきから。男の名前と妻の名前と息子の名前が思い出せない。それに、どうして横浜に戻ったのだろう。ユイの部屋にいたのは理解できる。どうして実家にいるんだっけ。実家……? 父。母。名前はおろか顔も思い出せないのはどうして。ナイたん。ナイたんの名前はナインで、ナイたんの鳴き声も灰色の長毛も、感触も体温も虚構である訳がなかった。だけどあたしは。どこでナイたんと暮らしていたんだろう。苺はナナとユイと日ノ出町に向かっていた。気が重い。行ったらいけない気がする。猫は生きているんだろうか。


 観覧車。みなとみらい。ランドマークタワー。

 知らない。あたしはこんなに美しい夜景を他に知らない。BMWカブリオを降りて、ベイブリッジの車道にずっと立ち続けていたい。






 そのマンションもオートロックだった。部屋番号、呼出ボタン。誰かいる。九階に上がるエレベーターの扉が開くときれいな顔をした猫が立っていた。久しぶりに猫の顔を見た。

「手紙ありがとう」

「どういたしまして。気に入ってくれた?」

「まあまあかな。——警察に行ったよ。家には帰らないの?」

 暫く黙り込んでいた猫が口を開いた。ナナとユイはオーナーの部屋に消えた。

「帰れないよ」

「……」

「俺たちには両親も帰る家もない」

 今度は苺が黙り込む番だった。両親もいないって——? 猫の小説の話——?

「寝返ったのは本当だよ。オーナーは永遠が好きだった。苺が殺した永遠のこと」

 マイノリティたちの部屋に進んだ。部屋の中は三人がくゆらせる煙に霞んでいた。



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