第14話

 すっかり寒くなっていた。

 冬が訪れるまでにはまだ暫く間があるものの、肌に当たる風は尖った金属のように柔らかみを欠いていた。

 町にはいつもの静寂が落ちていた。緩衝域に子供のための遊び場などあるわけもなく、誰も気ままに出歩くことはない。大人達の役に立つため、あるいは工場や農場で働き、あるいは祖郷防衛に力を尽くす。西地区長の九留くるや副長の葉仁はにのように、皆がなるべく不都合なく暮らせるよう取り計らうことを役目にする子達もいる。

 そして。

 肌に付いた汚れを冷たいシャワーで洗い落とす。失われていく熱を欲して一途に身が震える。逃げ出そうとする心を歯を食い縛って閉じ込める。体の内も外も麻痺して、自分が流れて消える時を待ち望む。

 監察役が代わっても、私達の日常は当り前に続いた。新しく来た大人は、残り少なくなった頭髪が真っ白になった老境の男性で、子供達のすることには概して関心が薄いらしく、定例の会合では九留達の報告に黙然と頷き、彼の側からは郷庁からの指示事項をそのまま伝えるだけだという。

 私が公務所に用があって擦れ違った際にも、新しい監察役はちらりと視線を向けて「ああこいつか」という顔をしたものの、それっきり興味をなくした様子で、その後改めて声を掛けられることもなかった。

 前任者の平坂氏がどうなったのかは知らない。少なくとも入砂郷いりすなごうにはもう戻って来られないはずだ。

 彼は黒塚くろづかでの地位と引き換えに、九留達を罠に嵌めようとした。

 もしも計略が成功していたら、入砂は壊滅的とはいかないまでも大きな被害を受けていたはずだ。場合によってはそれがきっかけとなって郷勢が傾き、やがては黒塚や他の近隣郷に吸収されてしまう可能性もあった。

 九留がそれを阻んだ。

 陰謀を見抜くきっかけを作ったのは依紗いさだった。依紗が奉仕相手から洩れ聞いた内容を元に、九留は黒塚に拉致されたはずの私が作業所に監禁されているのではと推測した。

「それで葉仁と相談して、色々と調べたり根回しをしたんだ。他の区の子達にも協力してもらうことにしてね」

 九留達は騙された振りをして全部隊を率いて進発した。がら空きになった西地区には、黒塚勢に擬装した入砂の他地区の挺身隊が駐屯した。もちろん監察役はそんなことは想像だにしていなかっただろう。たわいもなく釣り出され、孤立無援で九留と対峙することになった平坂氏に、もはや為す術は残されていなかった。

 だから私が今こうしてここにいるのは、きっと依紗のせいだ。

 さすがに寒さに耐え切れなくなってシャワーの栓を閉める。水音はなおも止まない。首を巡らせてみるが、薄暗い洗い場に他の子がいる様子はない。少しく戸惑ったのちに、気付く。音は外から届いていた。雨だ。

 傘は持ってきていない。戸口に立つと、このまま外に出るのはためらわれる雨足だった。火見ひみさんの家へ辿り着く頃には、服を着たままシャワーを浴びていたのと変わらない有様になってしまう。下着までずぶ濡れになることは確実で、この気温では風邪を引きそうだ。

 下着や風邪はまだしも、困るのは制服だ。夜にはまた奉仕作業で着ていく必要があるのだが、おそらくそれまでには乾かない。手近にセーラー服は一着だけで、替えがあるのは〈中〉の家だ。取りになど行けるはずもない。

 仕方ない、な。

 私は上着に手を掛けた。服はいったんこの場に置いていくことにする。冷たい雨のそぼ降る中、下着姿で通りを駆ける様はさぞかし滑稽なことだろう。もし〈中〉でそんなことをしたら大騒ぎだが、幸いここは緩衝域だ。私を咎める子はいない。

 脱いだセーラー服を棚に置き、スカートに手を掛けたところで動きを止めた。寒さに背筋を掴まれたせいではなかった。水を踏む音が近付いてくる。反射的に胸元を隠そうとして、戸口に現れた小さな人影を見て息をつく。

「依紗さん……あなたもシャワーを浴びに?」

 尋ねながらも内心で首を傾げる。依紗は今日は休みのはずだ。もう冬も近いというのに、好きこのんで水に打たれたがる子ではないと思う。

 依紗は様子を窺うように私に視線を向けて、またすぐに下を向いた。

 何をしに来たんだろう。

 答えはすぐに見付かった。

 色褪せただぶだぶのトレーナーに、膝丈のデニムといういつもの男の子っぽい格好をした依紗は、ずいぶんと可愛らしいピンクの水玉の傘を差していた。そしてもう一方の腕には、閉じた薄紫色のビニール傘をたばさんでいる。

「そう、ありがとう。迎えに来てくれたのね」

 余計なことは言わずにただ黙って手を伸ばせばよかったのだろう。そうすれば依紗は私に傘を押し付けてさっさと踵を返すことができた。

 けれど依紗は人に馴れない仔猫みたいに後ろに退った。私は改めて傍に寄ることをあきらめ、洗い場の方を振り返った。

「ちょっと、ごめんね」

 用事でも思い出したみたいに、奥へと足を向ける。その間に依紗は立ち去ってしまうだろう。できればもう一本の傘は置いていってほしかったが、甘い期待はしないでおく。

「九留が、そうしろって!」

 突然の大声に、私は思わず身を竦めた。速くなった鼓動をなだめながら、再び依紗の方を向くと、依紗はまるで槍のようにビニール傘を突き出していた。

「だから仕方なく来ただけで……ぼくは別に、おまえのことなんかどうだってよかったんだけど」

 そっぽを見ながら、言い訳するみたいに告げる。

 今朝九留は早くから出掛けていた。帰りも遅くなる予定だ。こんな些細なことを伝えるために、わざわざ家に戻ったりするはずがない。

 棚に置いたセーラー服を着直すと、私は依紗に近付いた。依紗は肩を強張らせ、しかし今度はもう下がろうとはしなかった。その小さな手に添えるようにして、私はビニール傘の柄を握った。

「分ってるわ、依紗。迷惑掛けてごめんね」

「ひ……姫花のせい、じゃない」

 依紗は私の手を振り払った。雨の中へと一散に駆け出していく。

 私は自分の手に残ったビニール傘を開くと、前を行く背中を追って歩き出した。

(了)

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