第13話

 入砂郷いりすなごう西地区の挺身隊は総勢七百余名を数える。十分に戦力と呼ぶに値するだけの規模であり、練度も高い。実際、郷境域での小競り合いや正規の郷間戦において、九留くるは地区長就任以来大きな敗北を喫したことは一度もない。

 もし自分達が総力を挙げて攻めかったなら、どの郷の挺身隊を相手取っても互角以上に渡り合える。

 九留は自分達の隊の実力をそのように評価していた。現役隊員の中で最も実戦経験が豊富なのは奈津なつだが、その意見を求めたとしても同じ結論になるはずだ。

「九留、準備完了だ。いつでも発てる」

 奈津が九留のいる小型車の後部座席を覗き込んだ。カーキ色の戦闘服を着ているわりには殺伐とした雰囲気は感じられない。奈津の神経を普通の子達に当てはめるのは無理だとしても、今のところ部隊は落ち着いていると考えていいだろう。

「ありがとう。じゃあ出発しよう」

 九留は簡単に命を下した。しかし奈津は珍しく逡巡したような面持ちで車の傍らにとどまる。

「どうかしたの。もしお腹が痛いんなら、奈津は留守番してていいよ。おみやげは持って帰れないと思うけど」

 奈津は小石が目に当たったみたいに顔をしかめた。

「やめとけ。お前が冗談言ってもつまらんだけだ」

 冗談のつもりはなかったのだが、正直にそう言っても余計怒らせるだけな気がしたので九留は黙った。

「本当にいいのか」

「何がさ」

「この作戦に決まってるだろうが。本気でやるつもりなのか?」

 黒塚くろづかを討てと監察役は命じた。それに応じる形で、九留は西地区の全戦力を出撃させようとしている。このまま黒塚へと侵攻すれば、いずれ向こうの挺身隊と衝突するのは必至だ。

 首尾良くそれを突破できたとしても、次は〈中〉の治安部隊とぶつかることになる。緩衝域の子供達とは違い、大人が危険な実戦の場に出ることは稀だから、もし装備が対等なら経験に勝る挺身隊に分があるだろう。

 だが大人達には銃がある。それは子供達を永遠に沈黙させるに足る、絶対的な優位性だ。

「僕達がどれだけ頑張ったところで、緩衝域の子達はともかく、〈中〉の大人には歯が立たない。そんなのは当り前だよ。だけど監察役の命令がある以上、何もしないわけにはいかないだろう。いいかい奈津、僕らは郷の庇護の下に生きてるんだ。だから郷を守るためなら、どんな犠牲を払ってでも行動する義務がある。それで今度の作戦を考えた。僕はどこか間違ってるかな?」

 奈津は首を振った。

「お前を言い負かそうなんて思っちゃいないよ。できるわけもないしな。ただ念のため確認しときたかっただけだ。お前が腹を決めてるんならそれでいい。俺達は従うだけだ。茲美じび、頼んだぞ。何かあったらお前が九留を守れよ」

 運転席の茲美は黙然と頷いた。愛想のない応答にも奈津は満足したらしく、踵を返すと自分の持ち場に戻っていった。



 緩衝域に配置される部隊は銃を持たない。それはこの世界の当然の常識であり、誰もが受け入れている前提だ。入砂に限らず、子供に銃を持たせる郷などありはしない。

 バッファリングチルドレンは大人達の道具にして玩具である。だがいくら育成所で入念な刷り込みと調整が施されるとはいえ、生き物である以上は、全てが規格通りに仕上がるというわけにはいかない。出来損ないの動作不良によって大人が怪我をする恐れは常にある。万一の事態を考慮するなら、持たせる武器は極力限定するべきだ。

 黒塚郷の指導部も基本的な考え方は同じだった。仮に、銃を与えてもいいような完壁に躾られた子供だけを上手く選別できたとしても、戦闘の過程で敵に奪われる可能性は排除できない。それにこちらが銃を用いたことが知られれば、次は相手側も挺身隊に銃を装備させようとするだろう。結果、互いの武装はしだいに強化されていき、ついには緩衝域を越えて大人達の身にまで戦火が及ぶような事態にもなりかねない。

 だがそれならば奪われず知られなければ良いのだ。最初に提案したのは誰であったか。

 支給されたのは自動拳銃が十丁のみだ。装弾数は十発で、予備の弾丸はない。予想される入砂いりすなの進攻部隊は七百、理論的な最大戦果を上げ得たとしても、まだ六百人が残る計算になる。

 それでも黒塚の挺身隊を率いる長身の少女は、作戦の成功を微塵も疑っていなかった。奇襲を掛けるつもりでいる敵を倍の人数で待ち伏せし、さらに常道を外れた必殺の武器で先制する。いかに精強な部隊といえどひとたまりもあるまい。これで殲滅できなければ嘘だ。

 少女が検討に多く時間を費やしているのは、むしろそのあとの展開だった。敵部隊を一網打尽にしたのち、がら空きとなった入砂の西側緩衝域へと逆侵攻して蹂躙する。どこまで深入りするのか、いつ退くかの見極めが非常に重要となるだろう。

 まずはここか。

 〈中〉の大人から直々に手渡された地図を再度確認する。最優先目標として指定された地点には、西地区奉仕作業所と記載されていた。



「もう間もなく中間点です」

「うん」

 運転席の茲美に頷きを返すと、九留は周囲の地形に視線を巡らせた。入砂の郷境に達するまではまだ暫く距離がある。だが黒塚の郷境は既に超えていた。即ち、現在いるのは入砂の主張によれば入砂郷の領土であり、黒塚の見解では黒塚領ということになる。

 大人達の建前はともあれ、実際に敵と戦う子供達の認識では、おおよそこの辺りが境界だった。よってここから先に進むということは、敵地を侵犯することを意味する。

「このまま予定通りに。僕らの動きは向こうには予想外のはずだ。気付かれる前に仕掛けよう。あとのことはとりあえず気にしなくていいから。一通り片付いたら僕が適当に考えるよ」

「了解」

 茲美はハンドルを大きく切ると、目的地へ向かってアクセルを踏み込んだ。

 黒塚への進攻ルートは既に監察役に提出済みだ。今さら迷う余地はない。

 九留達の乗った指揮車の動きを合図として、荷台に挺身部員を載せた数十台の輸送車が一斉に状況を開始した。



 この部屋には時計がなかった。元からなかったのかもしれないし、私を閉じ込める前にわざわざ取り外したのかもしれない。他の部屋ではどうだったかと思い出そうとしてみたが、途中でどうでもよくなってやめてしまった。囚われの身では時間を知ったところで役に立たない。

 私はベッドから身を起こした。若干の空腹を覚えていた。なにしろここに閉じ込められてからの食事はずいぶんと簡素なものだった。昨日目を覚ましたあとに一度ドアが細く開いて、隙間から手提げ袋が差し入れられた。中に入っていたのはビスケットの箱と水のボトルだ。それなりに量はあったものの、いつまでここにいることになるのかも、次の差し入れの時期も全く不明なので、少しずつ摂ることにしていた。

 そろそろ昼食にしよう。

 私は半ば衝動的にそう決めた。お腹の具合とは別に、さっきから微妙に体が落ち着かない。

 部屋の防音はしっかりしたものだから、外の音が洩れ聞こえているわけではないと思う。しかしまるで空気が帯電でもしているみたいに肌がざわつく。

 きっと不安で神経が乱れているせいだ。安直な説明だが、今の状況には合っている。理由さえ分らぬままに監禁されているのだから、少しばかり感覚に変調をきたしたとしても不思議はない。

 甘い物を口にすれば幾らか気持ちも鎮まるだろう。私は卓上のビスケットの包みに手を伸ばした。

「来い。すぐに出発するぞ」

 私は開いた扉の方を振り返った。現れたのは知っている相手だった。だがかけらも安心感は湧かない。

「何のことでしょうか」

 私は努めて平静を装った。対して短過ぎる答えが返る。

「黒塚に行く」

「黒塚に? 私が?」

 目を瞠った私に、監察役は冷然たる面持ちで近付いた。拒否は許さないという雰囲気だったが、簡単に頷けるはずもない。

 いくら私が外の世界に疎いとはいえ、黒塚が緩衝域を越えた先にある隣郷の名であることぐらいは知っている。私達の入砂とは、戦争状態とはいかないまでも恒常的な敵対関係にあることもだ。しかしそれが自分とどう結び付くのか全く見当がつかない。

 監察役は暗く湿った視線を私に据えた。

「お前は郷に捨てられた人間だ。ならば逆に郷を捨てたところで不都合はないはずだ」

「何を言ってるんですか? そんなわけないじゃないですか」

「このまま大人しく淫売として従っていれば、いつかご褒美として家族を解放してもらえる。まさか本気でそんなでたらめを信じているのか?」

 私は思わず胸を押さえた。監察役の言葉は錐のように心を穿った。

「おとぎ話だ。いいか、雨宮あまみやを処断したのは入砂にとって大きな疵なのだ。早々と機密事項の奥に封じられこそすれ、誰も改めて関わろうとはしない。もしもお前がいつかまた家族揃って入砂の公民として暮らせる日が来るなどとあさはかな夢を見ているのなら、すぐに捨てることだ」

 偽りを並べて私を挫けさせようとしているのではない。平板な口調はかえって事実の重みを感じさせた。

「もっとも弟だけはいずれこちらに来る可能性もあるだろうがな。お前に似て見目はいい。奉仕させたがる者も少なくはないだろうよ」

「駄目よ! 真悟には絶対にそんなことさせないわ!」

 私はほとんど殴りつけるような勢いで言い返した。奉仕部には男の子もいて、その相手となる大人の多くは女性よりも男性だ。私が経験したような苦痛や恥辱をあの子が知ってしまうなど考えるだけでも震えが走る。

「させない? 口で言うのは簡単だが、具体的にはどうするつもりだ。防ぐ手立てはあるのか?」

「今は分りません。だけどどうにか方法を見つけて」

「黒塚に行けば望みはある」

「どういう、意味ですか」

「現在黒塚の部隊がこの西地区に侵攻している。既にこの一帯は制圧下にあるはずだ」

 監察役の言っている内容を理解するのに少しかかった。およそ荒唐無稽だと思えるのに、理屈ではなく感覚が事実かもしれないと訴える。暫く前から感じていた不穏な気配の正体は、ではそれだったのか。

「じゃあ、九留くん達は今戦ってるんですか?」

 恐る恐るの私の問いに、監察役は最悪の答えを返した。

「あの小僧なら死んだ」

「何を言って……」

「仮に生きていたとしても、五体満足ということはあるまい。他のガキどももな。西地区の挺身隊は壊滅している」

「もしそれが本当なら……どうしてあなたはそんなに落ち着いてるんですか」

 子供は大人に従う。子供が大人に暴力を振るうことは絶対的な悪だ。

 しかし相手が外郷人であれば時に悪も許される。自郷の大人の命令があるなら、入砂の監察役を傷付けることを黒塚の子供達はきっとためらわない。

 そのぐらいこの人だって承知のはずだ。なのに自分の身を心配する様子がないのは、郷のために命を懸ける覚悟が既に定まっているということか。それとも。

「予定通りだからだ」

 監察役は低く告げた。腕の時計を一瞥する。

「そろそろ迎えが来る。いつまでも無駄話をしている暇はない。他区や本領の部隊が出てくる前に行くぞ」

「信じられない、なんて卑劣な人なの。あなたは郷を、入砂を裏切ったんですね!?」

「違う! 我が祖郷の過ちを正すのだ!」

 監察役はいきなり声を荒げた。淀んだ瞳が狂的な熱を込めて私を捉える。

「雨宮は最良ではないにしても有能な行政官だった。それを姑息な手段で陥れ、不当に投獄したうえ、家族の公民権までも奪い、娘を緩衝域に落とすなど悪辣の極みではないか。今の郷庁を牛耳る連中には入砂を統治する能力も資格もない。いっときは外の力を利用してでも、この腐った体制は革められなければならないのだ。それこそ真の愛郷民たる者の責務だろう!」

 私は反論しなかった。この人はただ自分を正当化したいだけだ。本当に正しいかどうかを問うのは徒労でしかない。

「これからお前を連れて黒塚に入郷する。お前は入砂郷庁の為した犯罪の生き証人だ。黒塚に後押しをさせて真実を白日のもとに曝し、しかるのちに無能にして有害な輩どもから我が祖郷を解放する。そうすればお前の家族も自由になる。さあ」

 監察役は私の腕を掴んだ。その瞬間ふいに初めての奉仕の時の記憶が蘇り、ひどい吐き気が込み上げた。

「……分りました。あなたの言う通りにします」

 胸の奥の塊を無理矢理に呑み下し、私は自分に許されたただ一つの答えを口にした。



 作業所を出ると、通りに灰色の乗用車が一台停まっていた。

「平坂監察役ですね」

 車外で待っていた少年が油断のない視線で迎える。私よりも幾つか年上だろう。腰に付けた物入れからはナイフの柄が覗いている。

「そうだ」

 監察役は横柄に頷いた。

「黒塚の遣いの者だな」

「乗ってください。あなたを待っている人の所にお連れします」

「相手はれっきとした公民なんだろうな。緩衝域のガキに用はないぞ」

「どうぞ」

 少年は重ねて促した。問いを無視され監察役は不満そうだったが、口元をきつく閉じると、私に向けて顎をしゃくった。私は後ろのドアを開けて中に乗り込む。監察役があとに続いた。

 要所要所に武装した子供達がいたものの、私達を乗せた車が行く手を阻まれることはなかった。もともと数の少ない緩衝域の建物はほどなく姿を消して、重い沈黙に満たされた単調な道行きが始まった。

 私達はどこに向かっているのだろう。仮に監察役が語ったことが全て真実だとして、そこに幸福な暮らしは存在するのか。考えたところで答えは出ない。

 やがて漠然と想像していたよりも大分早くに車は止まった。だが窓の外を眺めやっても場所の見当は付かない。そしてそれは私だけではなかった。

「おい、どうしてこんな所で止まるんだ」

 運転席に向かって監察役が苛立たしげな声を上げる。確かに変だった。入砂の外の世界を知らない私の目から見ても、ここが黒塚の本領どころか、未だ緩衝域の居住区にさえ入っていないことは明らかだった。

 周囲に建物が全くない。坂を下った擂鉢の底のような地点で、辺りは雑木に覆われており、聞こえる音といえば鳥の声や葉擦ればかりだ。前方の坂を登り切れば市街地が望めるという感じもしない。

「故障か? まさか燃料切れだなどとふざけたことは言わないだろうな」

 監察役が強い調子で問い質す。だが居丈高な態度とは裏腹に、焦りや不安を抱いているのが私にも伝わってくる。何かひどい手違いが生じているのだ。

「問題ありません。指示の通りです。ここで降りてください」

 運転手の少年は鉄の壁のようだった。だが特に悪意があるわけではなさそうだ。本人の言う通り、ただ上からの指示に従っているだけだろう。おそらく詳しい事情を知ってもいない。

 監察役も私と同じ印象を持ったらしかった。顔をしかめながらもドアを開けて車を降りる。私も反対側から外に出た。その直後だった。

「え?」

 私はわけが分らずに声を上げた。まだドアを閉め切ってもいないうちに、まるで空に向けて飛び立つような勢いで車が走り出した。瞬く間に遠ざかっていく。

 置き去りにされた。

 ようやくそれだけのことを理解した時には、既に影さえ消えていた。もはや追い掛けることはおろか声を届かせることさえ不可能だ。

「……ふ、ふざけるなっ、どういうつもりだ! ガキが舐めた真似をしやがって、ただで済むと思ってるのか!?」

 監察役が顔を赤黒く染めて激昂する。だが狼狽は隠しようもなく、親の姿を求める雛鳥さながらに慌ただしく首を左右に振り向ける。

 その動きがふいに止まった。

「なぜ、奴がここに……」

 監察役が呆然と見つめる先を、私より少し背丈の小さな少年が下りてくる。逆光で顔は陰になっていたが、誰なのかと迷う必要はなかった。ここに現れたことを意外だとも思わなかった。

姫花ひめか、元気そうだね。良かった」

 やがて私の傍らに来ると、九留は言った。もちろん幽霊などではなかった。さっき死んだと聞かされたばかりの相手は、ふと目を逸らせば消えてしまいそうな儚い面立ちをしている。それでも傍にいれば確かな熱を持っているのが分る。

「ありがとう。あなたも変わりなさそうだわ」

「そうだね、変わらない。変わっても意味がないしね。どこに行けるわけでもない」

 九留は答えた。その通りだった。私達はここから別の場所になど行けない。背を向けて逃げ出そうとしても、先にはただ黒い穴が空いている。

「……貴様、私をたばかったな」

 どこにも行けない私達の間に、怒りに震える声が割って入った。

「絶対に許さんぞ! 今ここで廃棄してやる!」

 上着の内ポケットから、監察役は拳銃のような物を取り出した。掌の中にすっぽり納まってしまうほどに小さいが、まさか玩具のわけもない。

 だが凶器の存在を九留は無視した。日常の報告を行うような風情で向き直る。

「問題ありません。僕はあなたの指示に従いました。あなたはどんな犠牲を払ってでも姫花を確保しろと命令しましたが、それがあなた一人の身で済むんだから十分な成果でしょう」

「抜け抜けと、よくも……」

 監察役はまるで自分の方が武器を突き付けられたかのようだった。九留に向けられた銃口が激しくぶれ、引き金に掛けた指が痙攣したように動く。小枝が弾けたような音が鳴り渡った。私の意識は刹那空白に染まった。

「ひっ」

 独特の刺激臭が鼻を突き、世界が少しずつ色と形を取り戻す。

 しゃっくりに似た声を上げた監察役の肘は、通常と逆の側に曲げられていた。

 九留が破壊した関節を放す。次の瞬間、鞭のように右手を一閃させると、監察役の顔は急角度で横を向き、体は支柱を失ったようにくたりと崩れ落ちた。そしてそれきり動かなくなった。

「どうしよう。一応殺しておいた方がいいのかな」

 監察役を九留は見下ろす。廃墟を照らす白い月のように、その横顔には陰りがない。

「ごめんなさい。私には分らないわ」

 私に訊いたつもりはなかったのだろう。九留は虚を衝かれたように私を見て、それから独りで決断を下した。

「いいか、放っておこう。どうせこの人は自分じゃ何もできない。黒塚にとっても今さら利用価値なんてないだろうし。姫花はどうする?」

「私が、何?」

「もし君が黒塚に行くっていうなら、僕が適当な所まで送る。向こうの子達がどこかで待ち伏せしてるはずだから、上手く彼らに見付けてもらって事情を話せば、きっと〈中〉の大人へ伝えてくれる。君が向こうでどういう立場になるのかは断言できないけど、僕の推測では亡命者として保護される可能性が高いと思う。君の存在は入砂の弱みになる。黒塚にすれば置いておいて損はないはずだからね」

「亡命者、っていうことは……」

「準公民扱いで〈中〉に住むことになる。もちろん奉仕の義務もなくなる」

 つまり、もうこれ以上気持ちの悪い大人達に自分の体を使わせなくてもいいということだ。誰かのための物ではない、ひとりの人間としての生を取り戻すことができる。もうほとんどあきらめて、だけどもしかしたらと抱いていた望み。

「九留くんは、どうするの?」

「僕は家に帰るよ」

 九留はわずかのためらいもなく答えた。私は頑に問いを重ねた。

「帰って、そのあとは? 何をするの?」

「今までと同じだよ。朝起きて、ご飯を食べて、夜になれば寝る。たまに大人達に奉仕をして、他の郷の子達と戦う。同じ日々を繰り返して、いつか時が来れば終わる」

「だけどそれでいいの? 九留くん、あなたは今の現実に満足してるの? それで本当に幸せなの?」

「幸せ?」

 色素の薄い瞳が、不思議そうな光を湛えて瞬いた。

「分らないな。考えたこともない」

「……そう」

 私は遠い過去の景色を追うように目を閉じた。少ししてから顔を上げる。

「私も帰るわ。九留くんのいる家に。いい?」

「いいよ」

 九留は頷いた。その夜、私達は一緒に眠った。

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