第11話
西地区は狭い閉鎖空間などではない。子供達だけで七千人以上が住んでいて、他地区や本領との行き来は日常的にあり、他郷との物流も存在している。公務所の建物内などであればともかく、通りに見知らない人間がいたからといって、いちいち不審に思ったりはしない。
中には情報収集や敵対行動を目的としている者も混ざっているに違いない(逆にこちらから外に送り出している斥候もいる)。〈中〉にまで入り込むのは大変だが、緩衝域間の越境ならば比較的容易である。そもそもそれが緩衝域の重要な存在意義の一つなのだから、当然のことではある。
ゆえに
ひとたび連れ去りに成功したなら、早々に区外に出てしまうだろう。
「
「分った。ありがとう」
まだ幼く澄んだ声に答えて立ち上がる。姫花が行方不明となったのは弁解の余地のない失態だが、さすがに即刻廃棄処分にされることもないだろう。事後処理の検討は監察役の意向を確かめてからでいい。
「早く見付かるといいね」
おそらく半ば独り言だったのだろう。九留が顔を向けると、梨矢は慌てた様子をした。
「その、僕はただ……」
九留は黙って続きを待つ。梨矢はたどたどしく説明を加える。
「
依紗は逆に喜んでいると思うよ。九留は心の中で答えた。だが梨矢が本当に気にしているのは依紗の気持ちではないだろう。
「大丈夫。姫花は無事に帰ってくるよ」
九留の純然たる気休めを聞いて、梨矢はほっと頬を緩めた。
「失礼します」
入室した九留に監察役は視線を向けなかった。だがそれで九留が感情を害することはない。静かに机の前に立って待つ。
九留はこの男のことを好いても嫌ってもいない。空から雨が降れば傘を差すように、監察役から指示が下されれば応じて従う。ただそれだけの存在だ。
「
「はい」
長く待たせた末に、監察役は前置き抜きで切り出した。九留の方からはまだ何も報告を上げていない。姫花の件について監察役がどこまで状況を把握しているのかは、九留としても知っておきたい。
「
九留は刹那呼吸を止めた。余りに予想外の内容に冗談を疑うが、監察役の血色の悪い面は、世に面白いことなど何一つないといった陰鬱な陰に蔽われている。
「……僕個人に対する要求なのであれば、今からでも黒塚に向かいますが」
一応確認してみたものの、監察役は九留の申し出に羽虫ほどの価値しか認めなかった。わずかに眉をひそめただけで先を続ける。
「仮に雨宮が現役で郷守の地位にあったとしてもだ。たかが小娘一人のために我が郷が屈するなど絶対にあり得ん。ましてあれはもはや公民でもないただの淫売だ。人質としての価値はかけらもない。いかに黒塚の者どもが愚かといえど、その程度の理屈は分るだろう。つまりこれは脅迫でもなければ遠回しな宣戦布告でもない。下種な挑発や嫌がらせの類だ」
九留は反論しなかった。少なくとも、姫花の無事と引き換えに入砂郷が黒塚郷の傘下に入る、などという条件が荒唐無稽であるという点については完全に同意である。
「本来なら捨て置くのみなのだが……」
声音にあからさまな苦渋の響きが混じる。
「当区内で蛮行が為された以上、何もしないでは済まされん。無為無策と受け取られては西地区の威信に関る」
「西地区の」ではなく「私の」だろう。九留は思った。郷庁内部の組織については詳しくないが、緩衝域の監察役という地位がさして高級なものではないという程度の推察はつく。大過なく任期を全うするならまだしも、失態を犯せばおそらく〈中〉ではもう浮かばれまい。何としてでも挽回する必要があるという思考に至るのは自然だった。
しかしそのあとの命令は甚だ常軌を逸していた。
「奴らに我らの力を知らしめねばならん。西地区の全戦力を以って可及的速やかに黒塚を討ち、雨宮の娘の身柄を確保する。どれだけの犠牲を払おうと構わん。一気に突撃して粉砕しろ」
九留は監察役が正気か否かを検討しながら、ただ黙然と頭を下げた。
九留は幹部会を招集し、監察役からの命令を伝えた。異論は誰からも出なかった。はっきりと不満を表に出す者もない。
難点を数え上げればきりがない。議論するだけ無駄だと、この場の全員が理解していた。
「じゃあそういうことだから。明朝七時に全挺身部員は黒塚へ向けて進発する。本来の最優先目標は姫花を取り戻すことだけど、どこにいるかも分らないし、とりあえず黒塚を打倒するよう頑張ることになる。郷庁を占拠して郷守を捕えるとか、敵部隊を殲滅して降伏させるとかだね。その後で姫花を差し出させれば作戦は完了だ」
入砂郷と黒塚郷の総力はおよそ互角といったところだろう。つまり入砂西地区の挺身部隊がいかに力を尽くそうと、黒塚郷全体を相手取ってまともに戦えるわけがない。子供でもできる計算だ。
「守備の要員も残さないんですか?」
副地区長の
「残さない。公務所の警備も置かない。僕達が出発してからのことは全部葉仁に任せるよ。細かい部分はこのあと二人で相談しよう」
「分りました」
葉仁はそれきり口を閉ざした。仮に内心で何か不服があるとしても、九留にはどうでもいいことだった。やるべきことをやれる範囲でやってくれればそれでいい。その点において葉仁は九留自身よりも信頼できる。
「他になければあとの人は解散。挺身部は明日の出撃まで自由行動にする。みんな好きなように過ごしてくれていいから」
終始居眠りするように目を閉じていた
「せめて未練を残さないようにってか?」
「無意味に死ぬだけの作戦には参加したくない、っていう子がいるなら認めるよ。いつも通り無理強いはしない。自分はどうなっても構わないっていう子だけで行こう」
「馬鹿馬鹿しい。そんなの全員ってのと一緒じゃん」
乃木は言った。皮肉ですらない、それは単なる事実だった。
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