第10話
それは私がまだ幸せだった頃のこと、遥か遠い日の記憶──であるはずもなく。
自分でもかなり信じ難いことなのだが、数えてみればほんの十日ばかり前の出来事に過ぎない。
その日の朝、私は自宅から出勤する父を見送った。我が家では比較的珍しいことだった。父は帰宅が深夜に及んだり、そもそも帰宅しないということさえしょっちゅうだったが、その代わり朝は結構ゆっくりで、たいていは私が登校する方が先だった。
「お父さん、いってらっしゃい。忙しいのは分るけど、あんまり無理しないでね」
深く考えることもなく、決まり文句のように玄関先で告げた私に、父が何と答えたのか。
どうしても思い出せない。その時にどんな顔をしていたのかも。
私が一番最後に見た父の姿は、仄暗い霧の彼方にうずもれている。
学校では普段と変わりない一日を過ごし、授業を終えて帰宅した私は、家の前に郷庁の公用車が二台停まっていることに気付いて足を止めた。
咄嗟に状況が理解できない。
父が公用車を利用するのは、立場からして当然のことだ。実際、深夜などに緊急の用件で迎えに寄越されたことも過去に幾度かあった。
しかし父は今郷庁にいるはずだ。それになぜ二台も来ているのか。父には一緒に仕事をする人達が大勢いるには違いないが、わざわざ家まで何人も来る理由が思い付かない。
私はほとんど生理的な気持ちの悪さを覚えたが、まさか引き返すわけにもいかない。深呼吸をして気を取り直し、再び家に向けて歩き出した。
だが玄関に着くよりも先に車のドアが開き、知らない男の人が降りてきて私の前に立ち塞がった。
「
「……そうですけど。何かご用でしょうか」
返事をするには若干の意思の力が必要だった。相手の物腰はひどく威圧的で、いくら私がまだ子供であるとしても、およそ他人に対する敬意というものを欠いていた。それでも身形はきちんと整えられていたから、脱法者や〈外人〉などではなく、郷の秩序の下にある公民だろうと判断した。
「乗れ」
「失礼ですけど、どちら様ですか? 誰かも分らない人に突然そんなことを言われたって……きゃっ!?」
疑問も不審も無視された。男はいきなり私の肘の辺りを掴んできた。体格は痩せ気味で、雰囲気的にも文官らしく思われたが、私が腕力で大人の男性に勝てるはずもない。せめて言葉での抵抗を試みる。
「乱暴はやめてください! あとで父に報告しますよ」
告げ口すると脅すなどいかにも幼稚で姑息なやり方だ。だがとりあえず他にできることはなかったし、実際に効果もあるはずだった。仮にも
果たして男は私を車に引っ張り込もうとするのをやめて振り返った。
「いや、それは困るな」
「だったら」
「なにしろ前郷守は拘禁中だ。たとえ実の娘だろうと、自由に話をさせるわけにはいかない」
「何を……言って」
私はさぞかし間の抜けた表情を浮かべていたのに違いない。男はおかしそうに薄い唇の端を吊り上げた。
「郷への反逆罪により、雨宮
目覚めはひどかった。背中は汗にまみれ、そのくせ手足の先は冷たくて、横になっているのに倒れてしまいそうなぐらいに頭の芯が揺れていた。
いつまでも続くはずだった日常に訪れた余りに突然の終わり。あの時足元に穿たれた黒い穴に、私は今もまだ落ち続けている。
ここはどこだろう?
過去の悪夢のせいで麻痺していた意識に、ようやく一つの疑問が浮かんだ。
私は広いベッドの上にいた。服は家を出た時と同じ運動着の上下だ。疲れてベッドに倒れ込み、そのまま眠ってしまった。客観的にはそういう状況に思える。だがそうではない。私はほつれかけていた記憶の糸を手繰り寄せる。
昨夜に襲われた件について話をするために、私は一人で公務所に向かっていた。
公務部のある建物へは、初めの頃に一度連れられて来たきりだった。うろ覚えの道を進む私が周囲に警戒を払うことはなかった。背後から突然首を締められれば抵抗する術はない。大して苦しさを感じることもなかったのは、あるいは薬物の類を併用されたのかもしれない。私には分らない。
犯人はやはり部屋に押し入って来た者達と同じなのだろうか。少なくとも関係はあると考えるのが自然だろう。
しかしあれこれ憶測したところで仕方ない。事実として私は自らの意思とは関りなくこの場所に連れて来られ、そして閉じ込められている。ドアに鍵が掛けられていることも確認済みだ。
ならば今さら気にすることもない。私の身の自由は、既にあの日に失われているのだから。
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