第7話

 どうということのない朝だった。暑くもなければ寒くもない。雨風をしのげる家の中で夜を過ごせて、切られた肩の傷はわずかに痛むものの、体を動かすのに支障はない。

 僕にすがって寝息を立てる依紗いさの額に手を当てる。僕の掌よりは温かいが、まず平熱の範囲にある。傷は化膿しなかったようだ。僕は布団から出ると、窓とその外の板戸を開けた。

 外の冷たい空気を肺に入れ、代わりに体の中の濁りを吐き出す。もちろんただの錯覚だ。もしもただ息をするだけで自分の汚れが消えるなら、僕の存在はもうとっくに全部溶けてなくなっているはずだ。それでも朝の澄んだ風には、寝た子を起こすぐらいの効果はあった。

九留くる、どこ?」

「おはよう依紗。僕はここだよ」

 僕は依紗の傍らに戻った。布団の中の依紗は半ば無意識のように自分の頬をまさぐろうとして、大きく貼られたガーゼに触れて動きを止めた。僕はその手を握る。

「もう起きられるよね。朝ご飯にしよう。火見がいないから手抜きになるけど」

「まだ。もう少し寝てよ」

 依紗は僕の手を毛布の下に引き込もうとした。僕は振り払って立ち上がった。

「僕は起きるよ。でも依紗は好きなだけ寝てていいから」

「待ってよ九留、ぼくも」

 僕は待たなかった。依紗は急いで布団を抜け出すと、すぐ後からついてきた。

「クラッカーとジュースでいいよね」

「ぼくがやる。九留は座ってて」

「うん。お願い」

 依紗はキッチンの戸棚を探り始め、僕は空の食卓の椅子を引いて腰を掛けた。簡単な料理ぐらいなら僕も作れるのだが、火見は他の子が勝手に調理器具に触れることを禁じている。どういう信念によるものかはよく分らないけど、僕の方は特にこだわりもないので、家主の方針に従うことにしていた。

 白い皿に二人分のクラッカーを盛って、オレンジジュースを注いだコップを二つ用意すると、依紗は定位置の僕の隣の椅子に腰を下ろした。

「用意できたよ」

「ありがとう依紗。いただきます」

「いただきます」

 僕はクラッカーを一枚摘んだ。だが口に運ぶ前に、家の奥で水の流れる音がした。それからほどなくして、姫花ひめかがキッチンに現れる。

「おはよう姫花。クラッカーでよければ食べる?」

 姫花はぼんやりと頷きかけて、だが依紗がいることに気付くと、尖った小石を踏みつけてしまったみたいに身を強張らせた。

「なんだ。まだいたんだ」

 依紗はそっぽを向いて呟いた。さほど大きな声ではなかったものの、かえって素直な心情が表れているようだった。

「とりあえず座ったら」

 突っ立ったままの姫花に僕は促す。

「軽くでもお腹に入れておいた方がいい。このあと、ゆうべの件と君の今後について公務所で検討するから」

「それは……私も一緒にってこと?」

「もちろん」

「必要ないわ」

「なぜ」

「私はここを出て行く。もうあなた達に迷惑はかけない。今さら謝っても遅いけど、やっぱりちゃんと言っておきます。依紗さん、私のせいで怪我をさせてしまってごめんなさい」

 姫花は深く頭を下げた。

 依紗が目を瞠るが、すぐに姫花を無視してクラッカーを食べ始める。脇目もふらずといった勢いだ。僕の分を残しておいてくれるか怪しかった。

「出て行くのは自由だけど、あとの当てはあるのかな」

「なんとかするわ」

「なんとかって?」

 僕が訊き返すと、姫花はたわいなく言葉に詰まった。何も具体的な考えがないのは明らかだった。しかし彼女は頑だった。

「とにかくもうここにはいられないから。今までありがとう。さようなら」

 一息に言い放って背中を向ける。

 小さく熱い手が僕に指を絡ませる。クラッカーを食べるのをやめた依紗が、僕の横顔を見つめていた。姫花が部屋を出て行く。僕はそのまま座っている。もしもこれから先、姫花の奉仕活動に支障が生じたら、僕は責任を問われるだろう。でもそれは僕が姫花を引き止める理由にならない。

 家の扉が開いて、閉じる。

 僕は食べそびれていたクラッカーを齧った。すぐにまた扉の音がする。きっと荷物を取りに戻ったのだろう。僕が手伝うことじゃない。

 しかし予想は外れた。姫花は二階の部屋には上がらずに、僕らのいるキッチンへ戻ってきた。

「あの……」

 困惑した顔をのぞかせる。

「なんだい。もし先の事が心配なら相談に乗るけど」

 隣で依紗が不満そうに身動ぎをした。だが口に出しては何も言わない。最終的に出て行くのならそれでいい。そう考えたのかもしれない。だとしたらきっと失望しただろう。

「ちょっと座って待ってろ。今うまい朝粥食わせてやる」

 姫花の細い体を押し込むようにして火見ひみが入ってきた。無精髭が伸び、寝不足のせいか目が充血している。姫花は幾度か視線をさまよわせてから頷いた。

「ありがとうございます。いただきます」

 依紗のいる位置から遠い食卓の端の椅子を引く。火見は黙然と僕ら三人を見渡し、長い吐息をつくと、朝食の準備を始めた。

 ずっと黙りこくっていた依紗がくしゃみをした。昨夜の傷が痛んだのか、頬を歪めながらくしゅっと鼻を啜る。

「依紗、寒いの?」

「へいき」

 依紗は僕に首を振った。

「ちょっと鼻がむずってしただけ」

 鍋の前に立った火見がちらりと振り返った。

「もうじきにできる。期待してていいぞ」

 確かに、既に湯気が噴き始めていた。依紗のくしゃみもそのせいかもしれない。

「よし。依紗、碗とレンゲを四人分出してくれ」

「うん」

 粥を炊いた土鍋を火見は食卓に運び、依紗が用意した碗に全員の分を盛りつけた。量はどれも同じぐらいだ。僕はこれでいいけど、普通の成長期の子にはきっと物足りないだろう。

「火見さん、お話があります」

 食事を始めてから暫く、姫花はレンゲを置くと姿勢を正した。渋い表情で火見は応じた。

「好みの料理があるっていうなら検討する。味への文句は却下だ。残さず食え」

「いえ、そういうのじゃありません。私はこの家を出ることにしました。だからこの前、火見さんに言ったことは取り消します。すいません。それから今までありがとうございました。いつかきっと何かお返しをさせてもらいます」

「それはつまり、俺の飯がまずいからここにはいられないってことか? 奈津なつの出すカップ麺の方がましだって?」

「そんな、まさか! 火見さんの作ってくださるご飯はとってもおいしいです! 心からそう思います。だけど私はここにいたら駄目なんです。ゆうべも私のせいで依紗さんが……」

「姫花、黙って」

「だってあなたが言ったことじゃないの。あの人達の目的は私だって」

「それは火見には関係ない。もし君が出て行きたいなら好きにすればいいさ。誰に遠慮する必要もないから」

「そうだ、出てけ」

 依紗の声は小さかったが、家主は聞き逃さなかった。

「依紗、俺の家で誰が俺のメシを食うかをお前が決めるのか? いつからそんなに偉くなった。勘違いしてるなら教えてやるが、俺からすればお前も姫花もただの居候だ。ここに置くのも追い出すのも俺の意思一つだからな。覚えとけ」

「ごちそうさま」

 僕はことさら大きく音を立て、空になった碗を置いた。

「公務所に行ってくるよ。姫花も一緒に」

 姫花は顔をしかめた。

「勝手に決めないでよ。だから私は」

「今日の奉仕活動は夜からだったよね。それとも日中に何か予定がある? 例えば火見と寝るとか……はなさそうだね」

 火見は怠げに肩を竦めた。

「僕は夜までずっと公務所にいる。姫花の都合のいい時に来てくれればいいから」

 幾度か口を開きかけた末に、姫花は黙ったまま頷いた。僕はそれを確かめると、一人で先に家を出た。

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