第6話
隣室で人の動く気配がした。
トイレにでも立ったのか。それとも小腹が空いて何か食べようというところか。あるいはもう全てが嫌になってこの世界から消えようとしている最中かもしれない。
おそらく全部違う。
確かな根拠よりも直感に従って九留は行動を開始した。今晩
五十センチばかりの短棍を手に取り、音を立てずに部屋の鍵を開ける。一瞬だけ様子を探ってから廊下に滑り出ると、そのまま姫花の部屋へ踏み込んだ。
直後、横ざまに短棍を振るう。体が動くに任せた脊髄反射のような一撃だったが、まさしく敵はそこにいた。肉を打つ手応えと共に苦痛の呻きが返り、しかし九留はさらに先へと向かった。
「何があった! 無事なら返事を!」
声を張ったのは姫花を案じてのゆえではない。もう一人の侵入者に対する牽制だ。
暗がりの奥で、布団に手を掛けようとしていた人影が振り返った。表情までは見て取れなくても、慌てた動きだけで焦っていることが丸分りだ。どうやらさほどの手練れではないらしい。
相手に身構える隙を与えず、即座に距離を詰めて短棍を突き出す。威力より速度重視の初撃を敵の脇腹に抉り込み、二撃目で顔面をしたたかに打ち払う。ぎゃっ、と甲高い悲鳴を上げた喉元にとどめを入れようとして、しかし最初に殴り飛ばした相手が横合から迫る。冷たく熱い、矛盾した感覚が肩に走り、刃物で切られのだと頭で理解するよりも早く、体が反応して距離を取る。
「え……なに、だれ?」
布団に横たわっていた姫花が身を起こした。だがまだ半ば眠りの中にいるように声が鈍い。
「僕だ。何も喋らないで。頭を低くしてじっとして」
「え、九留くん? どうして、私の部屋に」
「喋るな。伏せて」
強く告げると、姫花は不得要領な様子ながらも従った。九留は刃物を構えた侵入者達と姫花の間に割って入るような位置を取る。必ずしも状況がこちらに有利に変わったわけではない。だが敵の目算が大きく狂ったのは間違いなかった。
このまま退くのなら、後は追わない。
言外の意思を込めて棍を振ってみせる。
敵の一人が片足を引いた。九留はなおもその場を動かない。やがてもう一人も距離を開け、そのまま立ち去るかと見えた時、戸口に小さな人影が現れた。
「九留……そっちにいるの?」
「邪魔だ、どけ!」
侵入者達は弾かれたように身を翻した。先に立った一人が荒々しく腕を振るう。戸口にいた人影は細い悲鳴を上げて崩れ落ちた。侵入者達は相次いでその脇を抜け、もはや振り返ることなく階段を駆け下っていく。
静けさが戻る。九留は部屋の電灯を点した。呆然と座り込む依紗の前に歩み寄って膝を付き、ぱっくりと切り裂かれた頬の傷に触れないように、少女の体を抱き締める。
「依紗、もう大丈夫だよ。僕はここにいる」
「うん。九留がいるから、へいき」
夢見るように依紗が呟く。
「なんだったの?」
姫花が再び身を起こした。声には動揺が表れていたが、意識して落ち着こうとしているようだ。
「泥棒? それなら警察を呼ばないと……えっと電話はどこだっけ。九留くん?」
息を呑む。
「どうしたのよその肩! 血が出てるじゃない! 早く病院に、ううん、それより救急車を……」
「姫花、君は馬鹿なの?」
「な……何よ、私はあなたのことを心配して」
「ここは緩衝域だよ。警察も救急車も来るわけない。ほとんどの子は、〈中〉にはそういうものがあるってことすら知らない」
「でも」
「このくらい怪我のうちに入らないよ。僕は正規の挺身部員じゃないし、実戦の経験も少ないから、あんまり大きなことは言えないけど。でも少なくとも騒ぎ立てるほどの傷じゃない」
九留は依紗を腕に抱いて立ち上がった。
「さすがに今夜また襲われるようなことはないだろう。僕らは寝直すから」
「あの、九留くん……? 依紗さんの、それ」
姫花は震える指を向けた。依紗の左頬に、鮮やかな紅の線が走っていた。
「心配ない。僕の部屋に救急箱があるから、ちゃんと消毒して絆創膏を貼っておく。十秒で手当てできる」
「だってそんなにたくさん血が出てるのに!」
「死にはしないさ。貧血になるにも足りないぐらいだ」
「そういう問題じゃないでしょう!? 女の子の顔なのに、もし傷痕が残ったらどうするのよ!」
「別にどうもしない」
九留は眉一つ動かさなかった。姫花は気圧されたように押し黙った。
「むしろ心配するとしたら君の方だよ」
「……私? 私は別になんともないわ。今は依紗さんのことを一番に考えてあげて」
九留に身を預けた依紗は、早くもうとうととし始めていた。幸い、切られた頬は余り痛んでいないようだ。九留は冷めた目で姫花を見た。
「分らないかな。さっきの子達が狙ったのは君だよ。依紗はそのとばっちりを受けただけだ。依紗の傍には朝までずっと僕がいる。君は自分の身だけ気にしてればいいんだ」
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