第5話
辞書を引いた。二度目の奉仕作業をした日のことだ。
“薄汚いインバイめ”
初めて耳にする言葉だった。それでも私を蔑んでいるのだということはすぐに分った。
腹が立つとか悲しくなるより、私はただ戸惑った。なぜ突然そんなことを言われたのか、理解ができなかった。
初めての時とは違って相手は一人だけで、周りに記録用機材を持った人達などもなく、たぶん仕方もごく普通だった。
私は終始その人の言う通りに従った、というのは必ずしも正しくない。その人は口では何も言わなかった。ただ自分のやりたいようにして、私に何かさせたい時には身振りで自分の意思を示した。
表情はほとんど変わることなく、けれど肉体的には満足した徴を二回放った。だから私はてっきり作業は上手くいったのだと考えていた。
なのに去り際にいきなり吐き捨てられて、私は自分の足元に大きな穴が開いていることに急に気付かされたような、ひどく不安な心持ちに囚われた。
家に帰ってから意味を調べた。確かに私はインバイだった。さっき
「お茶だ」
湯気を立てる大振りの湯呑みが、テーブルにごとりと置かれた。
「
物思いを覚まされた私は、火見さんに頭を下げた。
火見さんは自分用のお茶と一緒に私の向かいに腰を下ろした。無精髭を生やし、目の下は茶色くたるんで、既に人生の盛りを過ぎてしまったみたいな気配を滲ませている。
「まあ、あれだ」
ずるずると音を立て、火見さんはマグカップからお茶を啜った。
「適当に流しとけばいい。どうにかなることなら放っといたってそのうちどうにかなる。どうにもならないなら、ぐだぐだ考えたってどうにもならん。疲れるだけ無駄だ」
依紗との間のことを気遣ってくれているのだろう。火見さんは「頑張れ」とか「努力しろ」みたいな言い方は絶対にしない。いつも一歩退いたような位置にいて、誰かが沈みそうになった時にだけ、そっと手を差し伸べる。見た目よりもなお精神的に大人なひとだ。
「はあ、おいしい。火見さんって、本当にお茶淹れるの上手ですよね」
お世辞ではなかった。普通の緑茶で、もちろん砂糖や蜂蜜が加えられているわけでもないのに、不思議なほど甘い味がする。褒められて火見さんは肩を竦めた。
「年寄くさいって言いたいのか」
「素直にすごいなって思ってるんです。それにありがたいなって」
「無理に取り繕わなくていいさ。実際俺は年寄だからな」
「常識的に考えて、若い世代に入ると思いますけど」
「〈中〉でならそうだろうよ。こっちじゃ立派な死に損ないだ。っていうより、生きている屍体か」
「それなら私だってそうです。実質もう人生終わってますもん」
火見さんの力の抜けた調子につられて、軽口っぽく私は続けた。火見さんが鼻で笑う。
「だったら一緒に墓でも掘るか」
「火見さん、それってなんだか求婚してるみたいですよ。自分と同じ墓に入ってくれっていうの」
「結婚とやらは人生の墓場らしいからな。もっとも、俺はともかく姫花が墓に入るのはまだ暫く先の話だろうさ」
もしこれが本領の中なら、いつか自分が死ぬ日なんて遠い未来のこととしか思えない人同士の、たわいもないやり取りでしかなかったはずだ。
だけどここは緩衝域で、そして火見さんは一番普通の意味で、もう大人だった。二十三歳──規定の年限を既に三年過ぎている。いつその時が来てもおかしくない。
「私ね、さっき依紗に言われたんです。インバイは早く〈中〉に帰れって」
火見さんは珍しく複雑そうな顔をした。少ししてから苦笑するように息を吐き出す。
「あいつ絶対淫売の意味分ってないだろ。
「本当、笑えますよね。そもそも私がこっちに来たのって、インバイになるためなのに……もしあっちでそんなことをしたら捕まっちゃいます。インバイをやめたらここにもいられなくなるし、それこそお墓にでも入るしか……ううん、それもないか。適当な所に捨てられて、誰からも忘れられておしまい、ですよね」
火見さんは無精髭の伸びた顎をざらりと撫でた。半分閉じられた目がどこを見ているのかは分らない。
「だけど私のことはいいんです。本当にもう終わったみたいなものだから。緩衝域に連れて来られてインバイになった時に、自分の人生は消えました。それでも私には守らないといけないものがあるから……ただの人形としてでも、簡単に捨てられるわけにはいかないんです。お前はもう用済みだって、はっきり言われない限りはここにいます。年下の子に嫌われたぐらいじゃ逃げ出せません」
「お前の事情なんぞ知らん」
火見さんはぼそりと言った。実際、特に興味もないのだろう。私の境遇など〈外〉の人にとっては文字通り別世界の話に違いない。
形ばかりの同情をされても虚しいだけだ。それは分っている。なのに優しさを期待してしまうのは、ないものねだりの子供と同じだ。九留を独り占めしたがる依紗の方が、まだしも正しいし望みがある。
けれど愚かなままでも別にいい。どうせ私は大人になれない。
「けどな、俺はお前のことをわりと気に入ってるんだ。好きなだけここにいればいい。これからも旨いもん食わせてやるよ」
未来を断たれた幸福は刹那の夢だ。現実を甘く歪める嘘は酸のように心を溶かす。
だから私は。
「今度こそ本気で求婚してくれるつもりですか、火見さん?」
気の利いた冗談でも聞かされたみたいに、笑った。
「光栄ですけど、私まだ未成年だから……二十歳になったら正式にお返事するってことでいいですか? だからそれまではどうかこの家に置いてください。ふつつかものですが、どうぞよろしくお願いします」
火見さんは頷き、お茶を啜った。
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