第4話

 今日の大人はとっても優しかった。一度もぼくを殴らなかったし、触れる時は肌をそっと撫でるようにして、ぼくの中に入ってからも無理やり奥まで突き上げたりしなかった。出された後、先の方に残っているのを舐め取ると、「そんなことしなくていいから」って慌てるのがちょっと面白かった。でもぼくは、「もし嫌じゃなかったらさせて下さい」って答えてそのまま続けた。作業のおしまいには、舌と唇で綺麗にするのが決まりだから。いつもより少しだけ丁寧にした。途中で大人はもう一回出した。ちゃんと全部飲んだ。やっぱりあんまりおいしくなかった。おしまい。

 水が冷たい。肌から余計な熱を奪い取り、肉に染み込んだ匂いを削って骨の芯を固く縮める。心地良かったのはほんの最初のうちだけで、少し経てばもうただ寒いだけだ。だけどぼくはシャワーを止めない。歯の根が震え始めても、両脇に腕を垂らして顎を上げる。

 奉仕の後の自分なりの儀式、なんて大袈裟なものじゃない。朝起きたら顔を洗う。おしっこをしたらあそこを拭く。それと同じだ。絶対にしないといけないわけじゃなくて、ただそのままだとちょっと気持ちが悪いから。

 だんだんと手足が痺れて、自分の体なのかどうかもよく分らなくなってきた頃、ぼくはやっと栓を捻った。古くて乾いたタオルで体中をごしごし擦る。皮膚が赤剥けっぽくなっても、もういいやって思うまで続ける。

 奉仕所に着ていったフリルのたくさん付いたワンピースは畳んで仕舞い、代わりにあちこちがほつれたズボンをはく。頭からかぶった長袖シャツはぶかぶかで、丸い襟ぐりから胸元に素通しの風が意地悪く冷たい。

 そろそろ下に一枚着ないとな。そんなことを考えながら、服とタオルが入った鞄を肩に掛けてぼくは戸口に向かった。

「あっ」

 外に出ようとした足が竦む。さっきまでぼくの傍らにあったのとよく似た、だけどもっと細くて深い音が、世界を取り囲んでいた。

 雨具の用意はしていない。

 絹糸みたいな線が落ちる空を、庇の下から見上げる。薄灰色の雲がどこまでも切れ目なく広がっている。

 水浴びをしないで真っ直ぐ家に帰ってればよかった。つまらない吐息を地面にこぼす。いつから降り出していたのかは分らないけど、きっと家に着く方が先だったと思う。

(おかえり、依紗いさ

 うちに戻ったぼくを九留くるが迎える。ぼくは体が汚れたままなのが気になって、すぐに二階に上がろうとするけど、九留はぼくを引き止めて頭を撫でる。

(今日も頑張ったね、お疲れ様。僕がどうにかやっていけるのも依紗のおかげだ。ありがとう)

 そんなことない、ってぼくは首を振る。ぼくなんかただの奉仕部員で、他の子達と変わらない。みんなに頼りにされてる九留とは違う。

 かもね。九留が頷く。ぼくは下を向いて唇を噛む。本当は違うよって言ってほしかったのに。依紗は特別な子だよって。

(確かに僕達にとって、依紗は絶対に必要な子ってわけじゃない)

 いちいち繰り返さなくったっていいのに。鼻の奥がつんとする。九留が嘘をつかないのは知ってるけど、だからって思ってることを全部言うことない。

(だけど僕にとっては依紗が一番大切なんだ)

 九留にはやることが沢山ある。今日は夕ご飯はいらないって言ってたから、まだ家には帰っていないはずだ。もちろん公務を抜けてぼくを迎えに来る時間は取れない。地区長がそんな無責任なことをしたらいけない。

 湿気った外を眺める。雨なんてただの水だ。別になんでもない。せっかく体を拭いたのに、また濡れちゃうのが少しうざったいなってだけ。

 ぼくは背中をすぼめて、屋根の下から踏み出そうとした。

「ああ、よかった、間に合った」

 雨音を渡って声が届いた。

 九留、来てくれたの!?

 信じられない気持ちで、ぼくは顔を上げた。

「こっちにいるはずだって火見ひみさんが教えてくれたの。もう水のシャワーじゃ寒いでしょう? それでまた雨に打たれたりしたら風邪を引くわ」

 最初から分ってた。九留じゃない。そいつは紺色の運動着の上下を着て、透明のビニール傘を一本は自分で差して、一本は反対の手に持っていた。ぼくよりも長い髪を後ろで纏め、ぼくよりも綺麗な肌を冷たい風にさらしている。

「依紗さん?」

 わざとらしく眉をひそめる。

「具合が悪いの? もし歩くのが辛いようならここで待ってて。すぐに誰か呼んで来るわ」

 ぼくは騙されない。こいつは大人の命令で〈中〉から来た、ぼくらの敵だ。きっと九留の弱みを探るのが目的で、だけどなかなか思うようにいかないから、ぼくに取り入ろうとしてるんだ。そんな手に乗るもんか。ぼくは姫花ひめかを大きくよけて、雨の中に向かった。

「ねえ、あの、傘!」

 突き出されたビニール傘をぼくは無視した。走ったりはしない。水滴で重く色の変わった地面を、一歩一歩踏みつける。

「そう。やっぱりあなたは私のことが嫌いなのね」

 姫花は勝手にぼくの横に並んだ。自分の差している傘を間に寄せる。

「好きになってほしいとは言わないけど、私達が喧嘩をする必要はないでしょう?」

 喧嘩なんかしてない。これはぼくらの場所を守るための戦いだ。こんな奴のために九留を傷つけさせたりはしない。

「確かに私は九留くんには良くしてもらってるわ。でもそれは大人のひとにそう命令されてるからよ。事情があるの。彼が私に特別な感情を持ってるとかじゃない。あなたが心配するようなことは何もないのよ」

「そんなの……」

 お腹の底の方が熱くなる。傘を持つ姫花の手を力いっぱい払い除ける。

「当り前だよ! 九留はほんとはおまえのことなんか大っ嫌いなんだ! 早く〈中〉に帰っちゃえ、インバイ!」

 姫花は急に行き先を忘れてしまったみたいに立ち止まった。落ちた傘を拾おうともしない。逆さに開いた中に雨粒が溜まっていく。

 放っておけばいい。ぼくは先に帰ろうとした。でも九留の言いつけがあるのを思い出す。

(中から来たばかりで色々慣れてないから助けてあげて)

 傘を拾って、水を切ってから柄を突き出す。姫花はただ空っぽな表情を浮かべている。

 壊れちゃったのかな。ぼくは思った。袖を摘んで引っ張ると、姫花はつられて歩き出した。足取りはのろいけど、ふらついてたりはしない。一人にしても平気そうだった。

 だけどぼくはなんとなくそのまま姫花の袖を握っていた。道の途中で、姫花は「ごめんね」って言った。ぼくは黙っていた。家に着くまでの間ずっと、細い雨の音がぼくらを包んでいた。

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