第3話

 入砂いりすなごう西地区の公務所は、鉄筋コンクリート造り三階だった。近隣では一番立派な建物だが、公民として本領に住んでいた姫花ひめかの感覚からすれば、一般家屋に毛が生えた程度の規模でしかない。そのため入口の両脇に鉄杖を携えた警衛が佇立している様は、威圧的というより芝居じみた大袈裟なものと映った。

 扉の右側にいたのは髪を短く刈り込んだ少年だ。鋭い一瞥を九留くるに投げ、しかし誰何の声は発することなく、すぐにまた正面に向き直る。左側には後ろで髪を結んだ背の高い少女がいた。姫花達が近付くのに気付くと、退屈そうだった表情に意地悪げな笑みを浮かべた。

「よお九留、朝っぱらから愛人連れで出頭とはいい身分だな。しかも相手の嬢ちゃんはあそこが痛くて歩くのもやっとって感じじゃんか。一体何発やったのさ。依紗いさには黙っててやるから、あたしに教えてみな」

 はっきりと悪意の感じられる嘲弄に、姫花の目元は険しくなる。だが九留はわずかに気にしたふうもない。

「依紗なら全部知ってるよ。姫花とは一緒の布団で寝たんだから。乃木のぎが話を作っても通じない」

「ちぇっ、つまんねーの。あ、んじゃさ、代わりにあたしとやろうよ」

 乃木は馴れ馴れしく九留を抱き寄せた。ことさらに大きく音を立てて舌なめずりすると、九留の顔を仰向かせてゆっくりと唇を寄せていく。

 九留は特に反応しなかった。積極的に相手をしようとはしないが、拒否する様子もない。

 姫花は視線を逸らした。朝方の依紗に対してといい、この少年の異性との関わり方はひどく無責任だと感じる。

「任務中だ。大概にしろ」

 二人を妨げたのはもう一人の警衛の少年だった。乃木の顔の前に鉄杖を突きつける。

「九留、お前もさっさと行け。邪魔だ」

「ごめん、茲美じび。さあ乃木、通して。今は君に用はないんだ」

「分ったよ。ったく、つまんねー奴ら」

 乃木は茲美の鉄杖を押し除けると戸口に向き直った。腕の時計に目を落としてから、長短の節を付けて扉を叩く。内側で錠の外れる音がした。乃木は把手を引いて仰々しく頭を垂れた。

「さ、どうぞ、お通りください」

「姫花、行こうか」

「え、ええ……いやっ!?」

 乃木の前を通ろうとした瞬間、姫花は足を引っ掛けられていた。前にのめったところをすかさずスカートの裾を掴まれ、思い切り引っ張り上げられる。完全に足が地面を離れた。

 その瞬間、まるで背中に目が付いていたかのように九留が振り返った。倒れかかっていた姫花の体を造作なく抱き止める。華奢に見える腕は意外なほど力強い。

「あ……ありがとう」

「怪我はないね。対応するから少し待ってて」

 九留は姫花と位置を入れ替わるようにして扉の前に戻った。乃木がしてやったりというふうに笑う。

「どうよ、やっぱりあたしと遊んでくれる気になった?」

「乃木、門番の仕事は退屈かい?」

「決まってんじゃない。こんなこと喜んでやるのは犬か茲美ぐらいのもんよ」

 乃木は相方の警衛を振り返った。間接的に犬呼ばわりされた少年は、しかし微動だにせず正面を見据えている。乃木は鼻を鳴らした。

「これなら犬のがましかもね。吠えるとか尻尾振るとかするしさ」

「分ったよ、乃木。君はこの任務から外すことにしよう。別のを割り振るよ」

「あんたの護衛をしろっていうなら、喜んで引き受けるけど? 犬以上に忠義を尽くしてあげる。もちろん夜もずっと傍にいる。あんたが気持ち良くなれることなら何でもしたげるから」

「僕にそんな価値はないよ。君にはもっとずっとやりがいのあることをお願いするから」

「へえ……面白そうじゃん。聞かせてみな」

「近隣郷の武力制圧。とりあえず最初の攻略対象は黒塚くろづかにしよう。入砂の傘下に入ることを向こうの郷守に認めさせるか、実効戦力を壊滅させるかして。当座の目標を達成するまで帰郷は無用だ」

「はあ? 冗談だろ。全面侵攻なんて、〈中〉の大人どもが認めるわけ……」

 乃木は呆れ返った様子をしたが、途中で不敵な微笑に変わる。

「そうね、それもいいかも。どうせあたし達みんな先は知れてるんだ。うだうだくすぶって擦り切れてくよりましだわ。いいよ九留、やってやる」

 瞳に強い光が瞬く。

「全挺身部員に招集を掛けて。今日の午後一で出発する。装備やなんかの手配は茲美、あんたに任せる。何か困ったことがあったら奈津なつに聞いて。九留、その間にあたし達は一発、ううん、時間の許す限り、何発でもやりまくろう。あんたを抱けるんなら本望だもん。死んだって惜しくないわ」

「僕と君がそんなことをする理由はないさ」

「こんな時にまで意地悪するなって。あんたがあたしにも他の誰にも気がないのは知ってるよ。だけどさ、最後ぐらいつき合ってくれたっていいじゃんか」

「乃木、君は誤解してるみたいだね。僕は君に任務を与えたんだ。茲美も他の挺身部員も関係ない」

「どういうことさ」

「戦うのは君だ。君が一人で黒塚を落とす。基本的に持ち場にじっと立っているだけの門番に比べれば、はるかに退屈しないで済むはずだ。遠慮はいらない。後のことは何も心配しなくていいから、今すぐに出発するといい」

「ちょっ、待てよ、あんた単にあたしに死ねって言ってるの? 今すぐ消えて、もう二度と帰って来んなって!?」

「君はよく実戦をやりたがってるじゃないか。だから存分に楽しめる機会をあげるんだ。不満なんかないだろう?」

「ふざけんなよ、一人で郷をまるごと潰せなんて命令あり得ないだろうが! 郷守を暗殺しろとかいうならまだしもさ……それだって、あんたならともかく、あたしには絶対無理だ」

 乃木は力なくうつむいた。九留は少しだけ考える素振りをした。

「それならいっそ部を変わってみるかい? 挺身部をやめて奉仕部に入るんだ。最近余り人が足りてなくて、誰でもいいから回せっていう大人もいる。だから乃木でもきっと務まるよ」

「……分ったよ。あんたに従う。奉仕でも何でもするから、ここにいさせて。あたしを邪魔者扱いしないでよ。お願い」

「じゃあ乃木は奉仕部員に転属だね。茲美、とりあえずこの場は君一人で間に合うだろう。もしどうしても二人揃ってないと不都合だっていうなら、早めに誰か割り当てるようにするけど」

 茲美は石像さながらに動かなかった。ただ視線を真っ直ぐ前に向けたまま、九留の問いを完璧に無視する。

 九留は姫花に振り返った。

「お待たせ。行こうか」

「その前に、ちょっと訊いてもいいかしら?」

「いいよ」

「私は〈外〉のこともあなた達のことも分ってないから、何か勘違いしてるのかもしれないけど……奉仕っていうのは、昨日私がさせられたようなこと?」

「そうだね。ただ乃木は君と違ってあんまり大人が好むような見た目をしてないから、もっと色々する必要があると思うけど」

「それは私のせいなの?」

「君の? どうしてだい」

「だから、乃木さんが私に悪ふざけみたいなことをしたから、その罰としてそうするのかってこと」

「直接のきっかけとしてはそうなる」

「だったらやめて」

 姫花は言葉に力を込めた。

「私はなんとも思ってないから。あなた達のすることに口出しする立場じゃないけど、自分のせいで他の人が辛い目に遭わされるのは放っておけない」

「乃木に同情してるの?」

「違うわ。私が嫌なの」

「君の個人的な感情を僕が尊重するべき理由は?」

「そんなことは知らないわ。私はあなたじゃないもの」

「確かに。決めるのは僕だ」

 九留は認めた。

「配置替えはやめにしよう。乃木には今の仕事を続けてもらう……もし不服がなければだけど」

「言ったろ。あたしはあんたに従う。ちゃんとやるよ。もうふざけた真似はしないって約束する」

「それがいい。はしゃいでも疲れるだけだ」

「ああ」

 乃木は警衛の仕事に戻った。姫花と九留を建物の中に残して、入口が閉じられる。

 姫花は九留の後ろについて薄暗い廊下を進んだ。突き当りの階段を上り始めてから、九留の前にさらにもう一人少年がいることに気付く。姫花達よりも年下だろう。依紗と同じぐらいだ。少年は黙々と三階まで上がると、すぐ右側にある鉄扉を叩いた。返事はない。一拍待ってから、少年はドアを引き開けた。

「失礼します」

 ドアを押さえる少年の脇を通って、九留が慣れた風情で入室する。状況が分らないながら姫花も続いた。

「……失礼します」

「監察役、姫花を連れて来ました」

 部屋の奥の机にいた男が顔を上げた。眉間に寄った皺がやけに陰気で不機嫌そうな中年だ。昨日の奉仕作業以来、姫花が初めて目にする大人だった。

 監察役と呼ばれた男は、すぐに追い払うような手振りをした。どうすればいいのか姫花は戸惑ったが、案内役の少年だけが外に出て扉を閉める。

 監察役は卓上コンピュータのディスプレイに見入っていた。耳にはイヤフォンが差し込まれ、手は全く動いていない。これでも執務中なのだろうか。そもそも自分が何のためにこの部屋にいるのかも分らず、ただ徒に時間が過ぎていく。姫花は居心地の悪さを覚えた。

「監察役」

 暫くの沈黙の後、九留は机の傍まで近付いた。

「特に用件がないなら、もう退がりますが」

 それはおそらく不遜な物言いだっただろう。少なくとも監察役がそう感じたのは間違いなかった。

 濁った目で九留のことを睨みつける。九留は平然とで見返す。監察役は舌を鳴らして顔を逸らし、姫花に顎をしゃくった。来い、という意味らしい。姫花は従った。

「お前が雨宮あまみやの娘か」

 いきなり嫌なことを訊く。だがまさか違うとも言えない。できるだけ表情を消して「そうです」と答える。

「くそっ、どうしてこいつらが」

 監察役は低く毒づいた。姫化には何のことか分らなかったが、身に粘りついてくるような視線がひどく不快だった。

「脱げ」

 咄嗟に反応できなかった。やや遅れて足元に視線を落とす。この部屋は土足禁止だったのだろうかと間の抜けたことを考える。だが自分と同じく、九留もさっき外を歩いていた時の靴のままだ。

「さっさとしろ。全部だ、脱げ」

 重ねて命じられ、今度こそ正しく監察役の要求を理解する。陰気な目付きをしたこの男は、姫花にこの場で裸になれと言っているのだ。

「……そんなこと、できません」

「できない? 嘘をつくな、現にやってるだろうが!」

 監察役はイヤフォンのプラグを引き抜き、ディスプレイの画面をこちらに向けた。

 姫花の顔から急速に血の気が引いていく。

 真四角に近い大きな寝台の上で、三人の男と一人の少女が縺れ合っていた。スピーカーから洩れ出す荒々しい責め声に、細く掠れた喘ぎが混じる。

 昨夜の悪夢が、沼から立ち上る瘴気のようにふつふつと蘇る。いや違う。あれは決して夢などではなかった。どこまでも固く尖った現実だ。他の誰でもない姫花の過去が、厚みのない世界の中で、記憶よりもなお鮮明に繰り返されている。

「この連中がよくて私が駄目なわけがあるか! そもそもお前に拒否する権利などないんだぞ。それともまさか、〈外〉に来たらもう元の家族のことなど綺麗さっぱり忘れたか? ふん、さすがに売郷奴ばいごうどの娘だけはある。自分さえ良ければそれでいい、性根の腐りきった薄情者というわけだ。いいだろう、すぐに郷庁に連絡して収監者達を処刑するよう進言を──」

「分りました」

 姫花は監察役の長広舌を遮った。胸元の白いスカーフに手を伸ばし、結び目をほどいて襟元から抜き取る。置き場所を求めて視線がさまよい、九留にぶつかって止まった。

「お願い。持っていてくれる?」

 差し出しされたスカーフを九留は受け取らなかった。興奮して目を血走らせている中年男を無表情に見下ろした。

「監察役」

「お前には用はない。退出しろ」

 監察役は顔を伏せ、ディスプレイの位置を元に戻した。九留は相手の言葉が聞こえなかったかのように続けた。

「あなたもご承知の通り、規定の場所以外での奉仕作業は禁止されています。また、公民と緩衝域の子供との接触は、公務に関わるものに限定されています。それを踏まえてお尋ねしますが、姫花に服を脱げというのはどういう理由によるものですか」

「……検査だ。この娘は普通とは違うからな。郷庁からも管理を徹底するよう指示が出てる。異常がないか調べるのだ。監察役としての正当な公務だ」

「なるほど」

「理解したならさっさと出て行け! それから改めて指示するまで入室は禁止する。これは監察役としての正式な命令だ。違反したら即刻廃棄処分にするからそのつもりでいろ」

「了解しました。しかしその前に確認させてください」

「伝達事項か? 本日は特にない。朝議も省略する」

「免許の提示をお願いします」

「なんだと?」

「奉仕作業用具取扱免許です。奉仕部の子供の調整や試用には必須の資格です。監察役も取得していたとは知りませんでした」

 監察役は沈黙し、それから激しく声を荒げた。

「黙れ! お前ごときに見せる必要はない! 道具としての分を弁えろ!」

「もちろんです、監察役」

「ならば今すぐに」

「でも僕が従うべき大人はあなただけではありませんから。奉仕部の子達を管理するための決まり事を作ったのも大人です。変更があったとは聞いてないので、本領に遣いを出して確認します。姫花を調べるのはそれまで待ってください」

 監察役はあからさまにうろたえた。かろうじてといった様子で反論する。

「西地区の責任者は私だ。郷庁との連絡や指示は全て私から行う。出過ぎた真似は許さん」

「分りました。じゃあ何かの折に訊いてみるだけにしておきます。奉仕作業の実地見分に来るのは本領でも上の地位の人が多いみたいですし、機会はいくらでもありますから。今は姫花をお任せします。姫花、あとで監察役が君にどんなことをしたのかを全部教えて。資料に纏めて近いうちに本領に提出するから」

「くっ、もういい! 二人とも下がれ!」



「驚いたわ、とても」

 姫花は大きく息をついた。公務所の二階にある九留の個人用の区画だ。衝立で仕切ってあるだけの狭い場所だが、二人で差し向かいに座る程度の余裕はあった。

「大人のひとに逆らって、言い負かしてしまうなんて。やっぱり〈外〉の子は私達とは全然違うのね。あの依紗って子とか、この建物の入口に立っていた女の人もそうだけど、すごく個性が強いみたい。だけど監察役なんていう人を脅すみたいなことをしても大丈夫なの? 後で厳しく折檻されたりしない?」

「たぶん平気じゃないかな」

 九留はどこか他人事のような態度だった。

「僕は〈中〉のことはよく知らないけど、基本的な仕組は同じだろう。子供は大人に従い、目下は目上に従う。僕は監察役よりも上位の秩序を尊重しただけだ。郷の秩序に適っている」

「理屈ではそうかもしれないけど、でも」

 正しさが常に正しくあれるとは限らない。むしろ正しさは時に大きな歪みを招く。だからこそ、姫花は緩衝域に落とされることになったのだ。

「とにかく、ありがとう。私のことを庇ってくれて」

 さまよい出しそうになる思考を奥に押し込めると、姫化は今大事なことを伝えた。

「だけどやっぱり迷惑になるようなら放っておいてほしいの。自分のことは自分でどうにかするわ」

「僕のことなら気にしなくてもいいよ。僕も気にしてない」

「だって心配じゃないの?」

「何がだい」

「何がって」

 姫花は言葉に詰まった。九留という少年のことが分らない。非常に頭がいいことは確かだと思うのに、こと自分自身の問題になると、著しく想像力を欠いているようだ。

「これからの君の暮らしだけど」

 姫花の困惑を九留は流した。

「基本的に奉仕作業以外の時間は好きに過ごしていていい。君用の寝室は今夜までには開けさせる。食事は家で取ってもいいし、その辺の店で食べてもいい。もっとも数が少ないし、開いてる時間もまちまちだから、勝手が分るまでは家にしといた方が無難かな。着替えとか、他に何か要る物があったら僕か火見ひみに言って。こっちで手に入らないような品の場合はその都度相談でいいだろう」

「待って、それは私もあなたの家に一緒に住むっていうこと? それと火見さんっていうのは」

「火見は僕らの家の主だよ。もちろん強制はしないけど、少なくとも当分の間は同じ所にいた方がお互いに都合がいいと思う」

 いかにも急な話だった。赤の他人の少年と同居することには、正直少なからず抵抗を感じる。しかし勝手の分らない場所で、独りでの生活を始めるのにも相当の不安がある。

 姫花の答えを九留は静かに待っている。作り物のように綺麗な顔は、作り物のように動きが小さい。色素の薄い瞳は深い湖のように澄んでいて、感情は窺えない。自分と同じ年頃なのを不思議に感じる。底が知れないという意味では、さっきの監察役などよりよほど上だ。

 それでも信じてもいい相手だと思える。自分を大切にしてくれるだろうとか、傍にいて守ってくれるだろうといった都合のいい幻想とは違う。もしこの少年が姫花のことを傷つけるとしたら、それは彼にとってそうすべき理由がある時だけだ。

「……分ったわ。あなたのお世話になります。よろしくお願いします」

 姫花は丁寧に頭を下げた。そして小さな笑みを向けた。自分にまだそんな表情ができたことに少し驚き、だが相手からすればただ頬を歪めたようにしか映らなかったかもしれないと思い直す。

「こちらこそよろしく、姫花」

 少なくとも九留は笑い返しはしなかった。

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