第2話

 人は生を終えるまでの間に死にたいと思えるほどの体験を幾つ重ねるのだろう。

 少なくとも一昨日までの私は、この世を去りたいと本気で望んだことなどなかった。

 昨日の私も、もう死んでしまいたいという積極的な意思は持ってなかったと思う。

 そこまでは辛くなかったという意味ではない。心を強く持って耐え切ったというのとも違う。

 嵐の波間で翻弄される木の葉には、自らの身を顧みる余裕などありはしない──そういうことだ。

 海の藻屑と消えてしまわなかったのは幸いだった。私はまだ身を投げ出すわけにはいかない。もしも私がいなくなったら、次はきっとあの子が軛に繋がれる。だから私は心を鎧って痛みに耐える。代わりにあなたはいつまでも眠っていればいい。悪しきことを知らない小さな体を、私は力を込めて抱き締める。

「やっ、苦しい、放せ!」

 耳障りな高い声が鼓膜を打った。覚えず固くなった胸の内から、温もりが抜けていく。

「ねえクル、あの子がぼくの首を締めたの。ひどいよ。早くうちから追い出してよ」

 あの子、というのはもしかして私のことだろうか。ぼんやりした頭を持て余しながら、ぎこちなく身を起こす。

 ここは、どこなんだろう。

 少なくとも自分の部屋のベッドではなかった。いつもより明らかに視点が低い。どうやら床に直接マットレスを敷いた上に寝ていたらしい。今まさに蹴飛ばされたばかりといった態で、毛布が足元の方にめくれている。

「おはよう。よく眠れたみたいだね」

 色のない澄んだ響きが意識に届く。私はゆっくりと顔を向けた。

「気分はどうかな。目眩がするとか、お腹が痛いとかはある?」

 私より少し年下ぐらいの少年だった。線の細い端麗な面立ちには憶えがあった。昨夜会った相手に間違いない。名前は、確か。

「僕はクル。君は?」

「……姫花ひめか雨宮あまみや姫花」

「うん。よろしく、姫花」

 姓を教えたのはまずかっただろうか。一瞬後悔の念が過ぎったが、クルと名乗った少年にさしたる反応はなかった。もともと私のことを知っていたのか。あるいは〈外〉の人にとっては、私が何者でも関係ないのかもしれない。

「この子はイサ。僕がいない時に何か困ったことがあったらイサに言って。イサ、姫花だよ。中から来たばかりで慣れてないから助けてあげて」

 クルの腰にしがみついた子が私を睨む。十歳ぐらいだろうか。髪を短く襟元の上で切り揃えているが、顔立ちからして女の子だろう。

「イサさん、さっきはごめんなさい。ちょっと寝呆けだけで、悪気はなかったの。許してくれる?」

 私は努めて微笑んでみせた。だがイサの纏う空気は固いままだ。私に明確な敵意を抱いているらしく、容易には打ち解けそうにない。

「イサ、下に行ってヒミを手伝って」

 クルも早々に見切をつけたようだった。イサの肩に手を掛けて部屋を出るよう促す。イサは従わなかった。逆にいっそうクルに身を擦り寄せる。

「イサ」

 クルの口調が少し厳しくなる。イサは叩かれでもしたみたいに肩を震わせた。私に向けるのとは真逆の、縋るような瞳でクルを見上げる。

「ねえクル、これからこの子と暮らすの?」

「そうだよ」

「ずっと?」

「とりあえず暫くの間は。姫花の都合もあるし、はっきりした期間はまだ分らない」

「じゃあぼくはここにいたら邪魔なの? 出てかなくちゃ駄目?」

「イサはこれまで通りだよ。ジビに部屋を空けてもらって、姫花にはそっちで寝てもらうつもりだから。分ったらもう下に行って。僕はこのあと出掛けないといけないんだ。姫花を連れて来るよう監察役に言われてる」

 イサはクルから手を離した。だが次の瞬間、めいっぱい背伸びをしてクルに抱き付くと、唇を合わせた。



「──信じられない。あんな小さな子を相手に、あなた一体どういうつもりなの」

 イサが行ってしまうとすぐ私はクルに詰め寄った。軽く頬にくちづけるぐらいならまだしも、唇を吸い、果ては舌まで絡めるに到ってはおよ常軌を逸している。

「イサって子があなたを好きらしいのは分ったわ。でもだからこそ、年上のあなたがきちんと節度を保つようにしないと駄目じゃない」

「どうして君が怒るんだ」

 クルは不思議そうだった。

「もっと突き放すべきだって言いたいのかい。確かに僕はイサに甘いけれど、それで不都合があるわけでもないんだ。わざわざ冷たくする必要もないだろう」

「違うわよ。イサさんはまだ子供なんだから、もっと気を遣いなさいって言ってるの」

「もちろん子供に決まってる。だってここは緩衝域だ。〈中〉から来てる大人もいるけど、本当の住人は子供だけだ」

「だからって好き勝手していいってことにはならないわ。むしろいっそう意識して規律を守るようにするべきだと思う。自分達だけでちゃんとやっていくためにもね」

「つまり君が気にしてるのは」

 クルが色素の薄い瞳を私に向ける。部外者である私の口出しに反発している様子はない。

「子供は大人に奉仕するよう決められてるんだから、イサが僕にするのは間違いだっていうことかな。だとしたら誤解してる」

「……ちょっと意味がよく」

「子供は子供に奉仕しない。イサは純粋に僕としたがってるだけだ。仕事として奉仕しようとしてるわけじゃない」

 どうにも話が噛み合わない感じだった。もしかすると、クルは内輪の人間にだけ通じるような質の悪い冗談を口にしているのだろうか。

「そろそろ出掛けよう。姫花、体調はどう。普通に歩けそうかな」

 出掛ける。そういえばさっきそんなことを言っていたような気がする。

 だがそもそもここは一体どこで、私はなぜここにいるのだろう。

 昨日経験したことは、もちろん記憶にあった。というより、脳に機能障害でも発生しない限りは忘れられそうにない。体の痛みもまだ残っている。普通の打ち身や擦り傷とは違って、どういう具合になっているのかを確かめるのは色々な意味で気が進まないけれど。

 あのあと、文字通り吐き気を催させる場所(クルには迷惑をかけてしまった)から連れ出された私は、半ば夢遊病者のような足取りでこの少年の背中を追った。通りに街灯の類はなく、明かりが洩れている窓も数えるほどだった。もはや暗闇に注意する意識も欠いていた私は、前を行くクルに鼻先をぶつけて、ようやく彼が足を止めたことに気付いた。

「ここで食事にしよう」

 クルは振り返った。ここで? 反応の鈍った心にゆるゆると疑問の泡が浮かぶ。

 普通の家の軒先に、粗末な木の長椅子を置いただけの場所だった。窓枠の下が三十センチばかり張り出しているが、ひょっとしてこれがテーブルのつもりなのだろうか。だがその窓にしたところで雨戸が閉まっている。全く状況が掴めなかったが、いちいち問い質すには私は疲れ過ぎていた。体中の骨がばらけたみたいにクルの隣に腰を落とした。クルが奇妙な拍子をつけて雨戸を叩く。

「おう、クルか」

 少しして勢いよく雨戸が開かれ、半袖シャツを肩まで捲り上げた逞しい男の人が現れた。

「やあナツ。ヌードルを二つ頼むよ」

「ん」

 ナツと呼ばれた人はぞんざいに頷くと、私にちらりと視線を向けて、またすぐに窓の奥に引っ込んだ。

「ほらよ」

 待つというほどのこともなく、塩辛い匂いの湯気が立つ椀が二つ出された。料理をしたにしてはずいぶんと短い間だ。

「ナツ、水もお願い。姫花、一口ずつゆっくり食べるようにしなよ。がっつくと気持ちが悪くなるから」

「聞き捨てならねえな。俺の作ったものに何か文句でもあんのか?」

「もしあったとしても、お湯を注いただけの人のせいにはしないよ。姫花の体調を考えただけだ」

 私は小さく「いただきます」を唱えると、椀の上に置かれた箸を取ってスープを含んだ。案の定ひどくしょっぱくて、そのうえ後味が尖った砂みたいに舌にざらつく。続いてヌードルを啜ると、粉っぽくてすかすかだった。とても店でお客に出すような品とは思えない。

 だが私はほとんど脇目も振らずにスープまで一滴残さず平らげた。

「どうだクル、この子は俺の料理がずいぶんと気に入ったらしいぞ」

「戯れ言はいいよ。それよりお湯以外に変な物を入れたりしてないだろうね。頭抱えてるけど」

「そんなことするか……いや違うぞ、そもそもうちで出してるのはカップ麺なんかじゃない。俺の手作りだ」

「それが本当なら余計に心配だな。姫花、大丈夫? また吐きそう?」

 大丈夫、と答えたのがちゃんと音になったのかは定かでない。空腹が満たされるやいなや、私は食べ物に薬でも盛られていたのかと疑えるほどの急速な眠気に捕らわれ、そこで記憶は途切れていた。まさか眠ったまま歩く特技が自分に備わっているはずもない。ならば答えは限られる。

「あなたがここまで運んでくれたの?」

「ナツの店からは大した距離じゃないからね。それと服は勝手に着替えさせたよ。気を悪くしたならごめん」

 私が身に付けているのは運動着の上下だった。それでは自分の制服はと探すと、枕の向こうにきちんと畳まれていた。

「いいわ。どうせあなたにはもう全部見られてるんだもの」

 少しも気にならないと言えば嘘になる。よくできた美しい仮面を被っているみたいに、クルはどこか底が知れない。それでも私を連れて来た理由が劣悪な下心などでないことは信じられた。

「公務所に行くよ。いいかな」

 正直気乗りはしなかった。私の体は、はるかに長い休息を欲している。

「平気よ。行きましょう」

 しかし私は頷いた。既に走る力は残っていない。ならばせめて歩くだけだ。

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