バッファリングチルドレン

しかも・かくの

第1話

 胚胎する物語を打ち捨ててさまよう僕らはバッファリングチルドレン。

 痛みと苦しみに目を閉ざし、道を踏み外して奈落に眠る。

 ──だけどこんなことに意味があるの?

 ──意味なんかないよ。初めからね。終わりまで。終わっても。

 この場所に価値はない。この先に出口はない。このあとに足跡は残らない。

 いなくてもいいんじゃない。いないのがいい。早くいなくなればいい。

 自分を信じない。信じるべき理由がない。だからいらない。廃棄する。だけど本当は排気するものさえない。つまり屁でもない。ごみ屑にさえ劣る存在。それが僕ら。

 大人達は快楽を求めた。

 誰かを殺したかった。犯したかった。奪いたかった。踏み付けにしたかった。

 だけど自分が大切だった。身を危険に晒すのは怖かった。犠牲になるのは嫌だった。誰も我を傷つけてはならぬ。

 だから僕達を作った。

 他人を傷つけるための道具として。自分を甘やかすための玩具として。

 僕らはバッファリングチルドレン。欲望と怠惰の狭間に生まれ、すり潰され使い捨てられる。生きてあることを許されず、死に去ることもままにならない、萎びた魂の骸。

 姫花ひめかは新入りだった。十四歳。奉職するにはずいぶん遅い年齢だけど、彼女には特別の事情があった。

 姫花は僕らのように育成所上がりではなく、〈中〉から下りてきた子だった。だから新しく入ったというより、放り出されてきたという方が近い。

 そういう子はたまにいる、らしい。僕は会ったのは初めてだった。〈中〉で生まれて育った子供。彼女の髪には艶があり、肌は滑らかで、着ている服は上等だった。一目で僕らと違うと分る。それでもやっぱり同じ子供だ。

 角が生えているわけでも空を飛ぶわけでもない。手も足も二本ずつ──戦闘で一、二本失った子ならいるけど──ごく普通の姿をしている。

 緩衝域でも、奉仕部の子ならたいてい身綺麗にしているし、作業の前には入浴もできる。普通の水のシャワーではなく、こぼれるまでお湯を満たせる浴槽と、いい匂いのする石ケンにシャンプー付きだ。

 ただ姫花のように十四歳で初めてという例はまず聞かない。大半の子は育成所にいる間に係員の大人に奉仕をするし、見目が良くて〈中〉の偉い人達のために取って置かれる場合でも、十二歳くらいまでには初めての務めを果たす。

 ドア脇のランプが消えた。僕は手を頭の上で組んで背筋を伸ばすと、座面の固い椅子から腰を上げた。

 結構長かったな。

 すっかり尻が痛くなっていた。奉仕のあとの熱いひりつく感じとは違って、肉に石を詰め込まれたみたいに重く強張っている。

 壁に掛けられた時計を見ると、既に七時を回っている。まるまる四時間を費やしたことになる。

 重い鉄扉を押し開ける。煌々と照らされた明かりに顔をしかめる。体液の匂いの立ち込めた空気が進む足を鈍らせる。

 だが最近機会が減ったとはいえ、僕も奉仕作業には慣れている。すぐに呼吸を再開して状況の把握に努める。

 さほどの面倒はなさそうだ。吐瀉物や糞便の臭いもしないし、後片付けは僕一人でも間に合うだろう。

 僕らの地区にある奉仕所では、この第五室が一番大きい。しかし一番豪華かといえば全然そんなことはなく、むしろ内部は殺風景だ。部屋というよりも箱に近い。備品の機材や器具は既に物置きに片付けられているようで、とりわけ空っぽな印象が強かった。

 部屋の真ん中には巨大なベッドがぽつんと置かれていた。小さな子なら五人ぐらいは余裕で寝られる。

 今そこにいるのは一人だけだった。

 白い靴下をはいた少女が、シーツに顔を伏せ、死んだように横たわっている。

 もっとも本当に死んでいるわけでないのは一目で分った。肌には血の色が通っていて、背中は緩やかに上下している。それに死体には抜け落ちている精気があった。意識はない様子だが、肉体的に危険な兆候は見受けられない。疲れ果てて気を失ってしまっただけだろう。

 僕はベッドに近付いた。あえて足音を抑えなくても、少女が目を覚ます気配はない。

 靴を脱いで寝台に上がり、ぐったりした体の傍らへにじり寄る。念のため鼻孔の前に手をかざし、首筋に指を当てる。問題ない。呼吸も脈拍も落ち着いている。

 体を仰向けに引っ繰り返してざっと眺める。股の間に血が垂れていたが、気にするほどの量ではない。既に乾いて固まっている。他に外傷は無し。小さな乳房に残った指の痕は、一晩経てば消えているだろう。

 比較的丁寧に扱われたみたいだった。もしかすると、また近いうちに奉仕活動記録の素材に使う予定があるのかもしれない。その時に綺麗な体になっていないのは不都合だろう。

 僕は鞄から濡れタオルを出して姫花の体を拭い始めた。余り強くはこすらない。表面をざっと撫でるようにした以外は、ところどころこびり付いた体液の残滓を取り除くぐらいだ。タオルを浸した水にはラベンダーオイルを垂らしてあったから、仄かに甘い匂いが漂う。

 姫花は時折喉の奥で小さく喘いだ。意識はまだ戻っていない。暴れられたり騒がれたりするよりはましだが、ずっとこのままというのも嬉しくない。この子は僕より若干背が高い。おぶって運ぶには不向きだ。

 わざと起こすつもりまではなかったものの、いつまでも夢の世界に引き籠もらせておく親切心を僕は持ち合わせていなかった。濡れタオルに代えてアルコールを含んだ不織布を使い、汚れた姫花の股間を清拭する。

「ひゃっ!?」

 一瞬の後に、か細い悲鳴が上がった。だが恐怖や嫌悪の色はなく、ただ肉体的な刺激に反応しただけのようだ。おそらく、自分がどこにいて何をしていたのかもまだまともに思い出せていない。いっそ自分が誰なのかも分らないままでいればいい。記憶は心を重石に繋ぐ鎖だ。

 僕は作業を続けた。姫花の両足を持ち上げて腰を浮かせる。肛門の端にも少量の血が滲んでいる。

「少し沁みるかも」

 おざなりに断りを入れてから、新しい不織布を使う。

「やっ、いたっ」

 肛門がひくりと動き、中に残っていた体液が零れ出る。僕はそれを始末してから薬を塗った。わずかに裂けているだけだからすぐに治る。

「な、なに……?」

 僕が手を離すと、姫花は手足を引き付けて胎児みたいに体を丸めた。慌ただしく首を左右に振り向ける。けれど毛布の類は置いてない。このベッドは休らうための場所ではない。

「顔拭きなよ。気持ち悪いだろう」

 僕は濡れタオルを差し出した。姫花は武器でも突きつけられたみたいに、僕から距離を取ろうとベッドの端に身を寄せた。

「あなた、誰なの?」

「僕は九留くる。君が作業に入る前にも一度会ってるんだけど、憶えてないかな。ここの雑用係みたいなことをしてる」

「クル……」

 姫花は眉根を寄せた。僕のことを思い出そうとしているというより、怪しみ警戒しているようだった。

 どっちにしても意外だった。詳しくは知らないけれど、〈中〉の子は僕らとは大分違った環境にいたはずだ。育成所できっちり躾られた子でさえ、初めての奉仕の後は暫く使い物にならなくなったりすることが多い。それを考えれば姫花はずいぶんと落ち着いている。

「着替えも持ってきてあるけど、そっちの服の方がいいなら」

 白の下着と濃紺の服がベッドの反対端に脱ぎ捨てられていた。上着は丈が短くて、四角い襟が背中の方まで大きく取られている。下は襞の付いたスカートだ。

「セーラー服だね。知ってる。〈中〉の子供が、学校っていうところで着るんだ。姫花が使ってた私物なの? それともやっぱり記録用に用意したのかな」

「記録用……何のこと?」

「奉仕作業記録だよ。スタジオを使ってたんだから、今のもそうだったんだろう」

“スタジオ”は第五奉仕室の通称だ。他室での作業でも、個人用に記録を取る大人は多いが、公式記録の作成には普通第五を使う。僕も何度か経験があるけど、照明が眩しかったり、カメラや他の機材を持った人達が周りに複数いたりで、いつも以上に気が疲れる。

 その時に僕もセーラー服を着せられたことがある。「男のくせにこんな格好をして恥ずかしくないのか!?」と罵られ、用意したのはそっちだろうと思ったものの、もちろん口答えなどはせず、指導された通りに「ごめんなさい、許して下さい」と土下座した。そのあとに蹴られたりもしたが、収録が終わってからの大人達の様子からすると、おおむね満足してもらえたようだった。

「寒いの?」

 手足を縮こめて姫花は震えていた。顔色も蒼い。しかし緩衝域にあるとはいえ、奉仕所は大人のための施設だから、空調は完備している。今も温度設定は適切だ。

「ひょっとして何か薬を使われた?」

 本当は禁止らしいのだけど、そうした物を用いる大人もたまにいる。仮にその副作用だとしたら、応急処置が必要かもしれない。容態を確かめようと、僕は姫花を抱え起こして俯いている顔を上げさせた。

 少女が嘔吐する。

 僕の服が汚物に塗れる。

 出す物がなくなってからも、なお暫く空えずきを繰り返していた姫花は、やがて力尽きたように僕に凭れた。

「……ごめんなさい」

 弱々しく呟き、冬の虫みたいにあがいて僕を押し放そうとした。僕は自分から身を離した。饐えた匂いを放つシャツとズボンを脱いで、もともと姫花のために用意していたスウェットに着替え、服と濡れタオルを持ってベッドを降りた。

 扉を出る時に振り返ると、蹲った姫花の背中が仄白く揺らいでいた。



 洗面所でざっと服を洗い、タオルをすすいでから第五奉仕室に戻った。もしかしたらもういなくなっているかもしれないと思ったが、セーラー服を纏って身形を整えた姫花は、入口の外に独り佇んでいた。

 タオルを差し出すと、わずかの間を置いてから手に取り、皮膚が剥けてしまいそうな勢いで顔をこすり始めた。僕は彼女のするのに任せ、重たい鉄扉を閉めた。さっき洗ったズボンのポケットから鍵を取り出して掛ける。

「あの」

 ようやく手を止めた姫花がおもむろに僕を見やる。

「うがいしてきなよ。口の中が気持ち悪いだろう」

 僕はタオルを回収し、代わりに紙コップと口内洗浄液のボトルを渡そうとした。しかし姫花は受け取らない。

「いらない? 無理にとは言わないけど、わりと匂うよ」

 僕の頬が乾いた音を立てた。

 力のある一撃だった。手首が柔らかく使えていたし、思い切って振り抜いていたのもいい。当り所と角度さえ良ければ、大人の男を失神させることもできそうだった。

 姫花は僕よりよほど驚いた様子だったが、少しするとまなじりに力を込めた。

「信じられない。どうしてそんなことが言えるの。私が何をされたのか知ってて、どうして」

 喉が詰まったのか、ふいに頬が歪んだ。

「それとも逆なの……? もう全部分ってるから、今さら私に気を遣う価値なんかないって思ってるの? だけどそんなのって、あんまりにも」

「ミントは苦手?」

「え?」

「嫌いじゃなかったら使いなよ。僕はここで待ってるから」

 姫花が洗面所に行ってから三十分以上が過ぎた。監察役からは姫花の面倒を見るよう言い付けられている。もし彼女がセーラー服のスカーフで首を吊っていたら、あとで僕も吊るされるかもしれない。だけど僕は気にしなかった。僕がいなくなっても僕は困らない。

 けれどやがて姫花は戻ってきた。顔色は悪いものの、死体が動いているわけではなさそうだ。

「九留くん、だったわよね。ありがとう。少しすっきりしたわ。本当に少しだけど」

 青い洗浄液の入ったプラスチックボトルを返される。感謝の笑みはなく、むしろ敵意を向けているのかと思えるほど顔つきは硬い。

「教えて。私はこれからどうしたらいいの」

「好きにすればいいんじゃないかな」

「どういう意味?」

「そのままだよ。君は自由だ。どうとでも自分のしたいようにすればいい」

「全然笑えないわ。今まで聞いた中で一番酷い冗談」

 冗談のつもりはなかった。だがあえて訂正することもない。

「僕はもう帰るけど、君は?」

「好きにしていいんでしょう? だったらあなたには関係ないじゃない。どうしようと私の勝手だわ」

「君の言う通りだね。じゃあおやすみ」

「ちょっと、待ってよ!」

 背中を向けると、姫花は僕の肩掛け鞄の吊り紐を引っ張った。

「どこか泊まれる所を教えてほしいの。ホテルとか……は無理か。お金がないもの。この際贅沢は言わないわ。ベッドとお風呂があって、安心して寝られる場所ならどこでもいいから……ねえ、あなたは〈外〉で暮らしてるんでしょう? だったら心当りぐらいあるはずじゃない」

「この地区のことはそれなりに詳しいつもりだけど」

 現状を把握しておくのは僕の仕事のようなものだ。

「応えられるのは寝る場所ぐらいかな。君が安心できるかどうかは分らないけど」

「だったらいいわ。あなたにはもう頼まない。代わりに誰か他の人を紹介してください。あなたより親切で、信用の置ける女の人に会わせてほしい」

「そのうちね。とりあえず、今夜はあきらめてもらうしかない。僕と一緒に来るなら寝床は貸せる。少し窮屈かもしれないけど、あてもなくうろつくよりはましだと思う。それと君、今お腹は空いて」

 尋ねようとした途中で、計ったように姫花の腹が鳴った。姫花はばつが悪そうに下を向いた。

「まずは軽く食べておこうか。胃が空っぽだと寝つきも悪くなる」

「……さっきはごめんなさい。あなたの服を汚してしまって」

「大したことじゃないよ。それでどうするかは決めた? 最悪、野宿になっても死にはしないと思うけど」

「あなたと一緒に行くわ。今は他にどうすることもできなそうだもの。迷惑でしょうけど、お世話になります」

 姫花は頭を下げた。

「畏まらなくても平気だよ。大人は家にいないんだ」

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